有為の奥山きょうこえて

旋風次郎

第1話 一重からはじまるプロローグ

花の香りは数知れず。人の匂いもさりとて同じ。

花の命は短くありき。恋の命もさりとて同じ。



男と女は何ゆえに恋に落ち、何ゆえに愛に溺れるのか。

じっとりとした汗とむっとした熱気の中で、お互いを認め合い求め合う。

一目逢ったその時に、狂おしくも愛おしい感情が芽生えるとき、人は恋に落ちていく。男でも女でも老いも若いもかかわらず。


人恋しくなる頃は九月と決まっている。私はそう思っている。多くの出逢いが春か夏であるかのように思われがちだが、私の場合は大抵が九月と決まっている。

夏の盛り。暑さに興じて人は心も体も開放的になるという。まさしく多くの若者たちがこの時期に愛を育み、そして勘違いをするのだ。

過ちを幾度となく繰り返す人種たちは、そのことにいつまで経っても気付かずにいる。だから九月の出逢いがわからないのだろう。

本当の出会いは、狂気にも似た八月を過ぎた辺りに待っている。それを見逃すか手に入れるかで本当の愛に触れられるかどうかに係わるのである。

また、男と女の間柄は一瞬にして決まる。私は少なからずそう思っている。

どんなに努力しても越えられない壁があるのに、一瞬で恋に落ちる場合があるのはなぜだろう。だから男と女は何度も過ちを繰り返し、反省をし、またぞろ繰り返すのである。


この物語に登場する一人のとある平凡な男は、まさにその一瞬で恋に落ち、その愛に溺れ堕ちていった。

私たちはそんな彼をあざ笑うことができるのだろうか。真剣に恋に立ち向かった男を嘲笑することができるのだろうか。

それは、感じた人がそれぞれで判断していただきたい。



物語は悦楽の八月が終わり、享楽の後片付けに余念がない九月の中頃から始まる。

男の名は斉藤浩市。今年三十三歳になった。妻はいるが子供はない。どちらに原因があるのか判らないけれど、子供ができない夫婦である。親戚からは、特に双方の両親からは待ちかねている孫の吉報を一日千秋の思いを込めて催促されている。この夫婦には、その視線がどうやら苦痛と感じる日々が到来しているようだ。

そんなことも引き金になったかどうかは定かではないが、彼の恋に落ちていくきっかけとなった場面から見てみよう。

浩市は結婚して五年が経過した今年の夏、一瞬で恋に落ちる人と出会ってしまう。

決して恋に落ちてはいけない人に。なぜなら、彼女は人妻だったから。



浩市はある雑誌社の専属カメラマンとして契約されていた。担当をいくつも掛け持ちしているため、収入面も悪くはない。同年代の普通のサラリーマンよりはかなり裕福なギャランティーを有していた。もちろん、それなりの腕前があるからでもある。

地元の高校を卒業し、東京の芸術大学へ進学後、カメラマンを目指す。卒業後は学校の紹介であったが、以前より師と仰いでいた職人堅気のカメラマンに師事したが、三年後ついに独立を許される。腕も口も立つ浩市は異例のスピードで師の技術をマスターしていったのだった。

やがて師の紹介で現在の仕事にありつくことになり、それがきっかけで今や業界でも引っ張りだこのカメラマンである。



とある五月の夜、世間ではゴールデンウイークも明けて、連休ボケの空間から日常の世界へ戻り、現実を目の当たりにしている頃、浩市はある取材に同行した帰りの車の中で雑談を交わしていた。

「ところでコウさん。」彼は馴染みのスタッフからそう呼ばれている。

「最近、面白い店を見つけたんですよ。」とはディレクターのヒデちゃんこと島田秀人。彼とはこの出版社との契約以来、ずっと一緒に仕事をしている仲の良いスタッフである。年齢は浩市よりも四つほど若い。運転しながら浩市に話しかける。

「いやあね、ボクも会社の上司に連れて行ってもらったんですが、なかなか可愛い子ばかり揃った良いお店でね。」

話の内容から察するとおり、夜の店のことである。世間が思っているほど、業界も色ボケしているわけではない。今はそんな時代でもない。しかし、この出版社は夜の記事も得意とする雑誌も扱っているため、割りと詳しい情報が入るのである。

「どこにあるんだい?」

一応、関心のあるところを示す浩市だが、実は風俗系の店になどには殆ど行ったことがないのである。ヒデちゃんもそのことはよく知っているはずだ。

「西新宿ですよ。ちょっとした裏路地の店なんですがね。あんまり混雑もしてなくて、可愛い子が多くて値段も手頃なんです。どうです、一度行ってみませんか。」

「ヒデちゃん、お前さん去年結婚したばかりじゃないの。なのにそんな店に入りびたりでいいのかね。」

「別におねいちゃんのおっぱいをほんの少し堪能するだけじゃないですか。嫁は嫁、結婚生活にも刺激は必要です。」とは勝手な言い分だろう。

「だけどよお、そこに行ってることは内緒だろ?いつかはバレルぜ。」

助手席から口を挟んだのはライターの松尾勉氏。愛称はベンさん。浩市は彼とタッグを組むことが多く、馴染みのライターと言っても良い。松尾氏も島田君もれっきとした名前があるのだが、会話で苗字を呼ぶことが無いので、この物語でもベンさん、ヒデちゃんと標記していくことにしよう。

「ベンさんだって、若くて可愛い子がいるってわかれば興味わくでしょ?」

「そりゃあ、オレだって男だからな。それにヒデやコウちゃんみたいに伴侶もいないし。誰に気を使うこともねえからな。」

そう、彼はまだ独身なのである。年は浩市の三つ上だったか。

「ベンさんはもう馴染みの店があるんでしょ。あんまり浮気すると後で祟られますよ。」

浩市はベンさんを諌めたつもりだった。

「オレはいい。それよりもコウちゃんはもう少し遊んだ方がいいんじゃねえか。結婚してもう何年になる?子供ができないのも、堅物すぎるからじゃねえのかい?」

「強烈なカウンターが返ってきたもんだな。別に堅物のつもりはないけど、そういう店は苦手だな。遊び慣れていないだけかもしれないけど、もう今更いいよ。」

するとハンドルを軽快に扱いながらヒデちゃんが心配そうな顔で浩市に忠告する。

「そういう人に限って、嵌ると大変って言いますもんね。今のうちに軽い店で慣れておいた方がいいですよ。その店は安全な優良店ですから。」

「よし、じゃあ今夜は会社にインタビューの報告だけして、三人で乗り込むか。コウちゃん、たまには付き合え。赤信号も皆と渡ればなんとやら、だろ。ヒデ、案内はオメエに任せたぜ、その代わりに晩飯はオレが奢ってやる。」

「やっほー、ありがたい。そうと決まれば善は急げだ、会社まではあとちょっと。今夜は楽しみだなあ。」

その話は浩市を蚊帳の外に追いやって、ベンさんとヒデちゃんとで勝手に決めてしまった。

それでも浩市はまだ迷っていた。しかし、家に帰っても共働き夫婦の嫁が必ず家に帰っているという保証はない。彼女もまたキャリアウーマンとしての仕事を全うしていたからである。

彼女は通訳や英文の翻訳が主な仕事。大学時代に青春を謳歌していたテニスサークルで知り合った、いわば同窓生でもある。互いに決まった時間のない仕事同士。そんなことも子供ができないすれ違いの環境を作っているのかもしれない。

浩市は彼女を愛していないわけではなかった。学生時代から交際が始まっており、長い恋愛期間を経て五年前に結婚したのである。彼女に不服はなかった。たった一つ、夜の生活が淡白過ぎること意外は。

『今夜は遅くなりそうだ』そんなメールだけ送って、今夜はヒデちゃんの享楽に付き合う決心をしたのは、報告が必要な会社の建物に到着する寸前だった。



取材の報告を終えた三人は、夜の新宿繁華街へと足を向けていた。副都心の夜は消灯時間をわきまえない。早い時間に訪れるならば、選択肢は無限大と言っても過言ではない。

彼らは腹ごしらえに軽く鍋をつつくことにした。ベンさんお気に入りのモツ鍋である。福岡出身の彼は新宿に顔馴染みの店を持ち、毎度顔ぶれの違う仲間を相手にクダを巻く。

「だいたい、あそこの社長はしみったれにもほどがある。今回のような記事を書かせるならば、もう少し奮発してくれてもいいもんだ。」

彼も浩市と同じくフリーの専属ライターである。専属ではあるが一本いくらの仕事が業界の常識。枚数や内容によってその都度ギャランティが決められる。

「コウちゃんだって、もう少し吹っかけてもいいんじゃねえか。」

「まだボクはベテランの域に達してないので、こんなもんですよ。」

こういうときは少し謙遜しておいた方がいい。

「しかし現状は、コウさんのキャメラは引っ張りだこですよね。」

三人のうち唯一正社員であるヒデちゃんは俯瞰で現状把握的な意見を述べる。キャメラというのが彼の口癖のようだ。

「ボクもベンさんぐらいベテランになったら、もう少し吹っかけることにしますよ。結局のところは契約してもらわないと、おまんま食い上げですからね。」

「そりゃそうだ。」

このあたりはフリーの職業の弱みかも。

「ベンさんもコウさんもアルコールはほどほどに仕上げてくださいね。それに、ほらベンさん、ニンニクを使いすぎですよ。これからどこへ行くと思ってるんですか。」

「おう、そうだった。いつものように食ってちゃいけないんだったな。」

慌てて器の中のニンニクを払い退けるベンさん。代わりに一味を振りかけた。

「ところでヒデちゃん、その店は具体的にどんな店なの?」

少し緊張気味の浩市は、恐る恐るヒデちゃんに聞いてみた。

「ようはね、通称セクキャバ。おさわりとチューがデフォで、なんとその店は指入れまでが可能なんです。」

馴染みのない浩市にとってはヒデちゃんが何の話をしているのかわかっていない。

「それって何?」

不思議そうにしている浩市の顔を見て笑うベンさんとヒデちゃん。

「そんなことから教えなきゃイカンのか。おさわりって言うのは体に触れてもいいってことだよ。キャバクラなんかへ行くとそれもダメだったりするけど、ようはそれがOKってことだな。チューはもちろんキスをしてもいいってことだよ。ベロも使っていいのか?」

「もちろんです。おもいきりベロチューしてください。中には嫌がる嬢もいるかもしれませんが、運次第ですね。」

「よし、それと指入れって言うのはだな、女の子の大事なところに指を入れてもいいってことだよ。なっ、そうだろ?」

「そうです。その通りです。オイラなんかこの間は女の子に潮を吹かせちゃいました。」

キョトンとした顔の浩市はただ唖然とするしかなかった。

「ねえ、基本的なことを聞くけど、それって楽しいの?結局のところエッチはできないんだから悶々して終わるんでしょ。」

「コウさん、その店はね、そういう遊びをするところなんですよ。まあ、まずは聞くより慣れろ。百聞は一見にしかずです。思うように遊んでみてください。あっそうそう、その店の女の子は指名制です。入る前にお気に入りの女の子を選んでくださいね。それと、今言った遊びができるのは指名した女の子だけですからね。」

「ん?それ以外の女の子って何?」

「そこはね、女の子が少ないので、指名した女の子が付きっ切りになるわけじゃないんです。忙しいときは五人ぐらい指名が被るときがあるんです。そんなときに客をロンリーにさせないように指名を受けていない女の子が隣に来ます。彼女たちをヘルプと呼んでいますが、彼女たちにはおさわりやチューに制限があるかもしれません。それは本人たちに聞いてみればいいと思います。実際に指名嬢と変わらないサービスを提供してくれるヘルプ嬢もいましたからね。」

「ヒデ、お前さん何回その店に行ってるんだ。」

ベンさんがニヤけた顔でヒデちゃんに問いただした。

「んんと、十回ぐらいかな。ここ最近はずっとこの店です。」

するとベンさんは浩市の肩を叩き、

「事前のレクチャーはここまでだ。あとは自分なりに遊んでみな。どうせ客はスケベなオッサンばっかりだろうし、毎日そのオッサンを相手してる女の子なんだから、お前さんの良いようにしてくれるさ。」

三人は軽く腹ごしらえを終えて、モツ鍋の店を出た。時間は夜の九時を回ったあたりだった。


ヒデちゃんを先頭に歩いて次の店に向かう。先ほどの店は方角が良いらしく、歩いても五分ぐらいの距離らしい。

「先に言っときますが、1セット四十分で七千円です。もの足りないときは何セットも延長できますので、その都度おねいさんに申告してください。但し、財布が悲鳴を上げる前に切り上げてくださいね。でも完全前金制ですから安心ですよ。」

やがて一つ二つ裏路地を通り抜けると、途端に街灯が減る。だからこそ店のネオンが目立つのである。

現れた看板は綺麗な緑色と黄色に飾られた1メートル四方もある派手なネオン。書かれている店の名前は『ライムライト』。パッと見た感じはスナックかラウンジの看板にも見える。但し、看板の下方に添え書きで「ツーショットキャバクラ」と補足されていた。

浩市は少し腰が引き気味だった。これまでそういった遊びをほぼ遠慮してきた彼にとって、ココから先は明らかに未知の世界だったのだ。

ヒデちゃんは慣れた足取りで玄関のドアを開ける。そこには黒いベストに銀のラメが光っているボーイが二人、客を待ち構えていた。

「三人。オイラはアヤちゃんを。あとの二人初めてだから、嬢の一覧を見せてあげて。」ヒデちゃんに言われたボーイさんは、受付に用意されていたブロマイドを五~六枚ほど持っ来て浩市とベンさんに渡す。

ベンさんは、ボーイから受け取った束をそのまま浩市に渡す。

「コウちゃんはこういう店も初めてだろうから優先権を譲るよ。」

「えっ?」

そのブロマイドは顔が見えないように撮影された写真で、ようは好みのボディで選べといわんばかりのスタイルだった。

「なるほど、確かにこんな撮影の仕方もあるな。」

などと多少の商売っ気を出すあたりは、まだ遊ぶことに集中できていない証拠である。

そんな浩市をヒデちゃんが急かす。

「コウさん、アングルとか見てたらダメですよ。早く選んでください。」

浩市も諦めたようにブロマイドを見つめ、均整の取れたボディを持ち、ある程度のふくよかさがある嬢を選んだ。それが浩市の人生を変えることになる第一歩であることとも知らずに。

ベンさんはスレンダーな女の子が好きなようだ。残っているブロマイドの中でも、かなりの痩身の嬢を選択していた。

一般的にキャバクラ嬢のことを簡潔に呼ぶ方法として用いられる「嬢」。ここでもこの呼び方を引用しよう。

三人は店内のツーショットと呼ばれているシートに案内される。ヒデちゃんの提案で、あまりお互いが近くないシートを三人に用意された。そして彼らはそれぞれが指名した嬢をそれぞれのシートで待つのである。

浩市が案内されたシートが一番手前の通路だった。シートとシートの間は高い敷居で区切られており、前後の様子はわからないようになっている。但し、通路を挟んで隣のシートは丸見えだ。


やがて年のころ二十ちょっと、女子大生っぽい嬢が浩市の前に現れる。

「こんばんわ。初めましてミキです。」

嬢は初めての客に挨拶する際は、片膝をついて名刺を渡しながら自己紹介を行うのがこの店の習わしのようだ。

「こんばんは。可愛い方ですね。よろしくお願いします。」

何をどうすればいいのか全く解らない浩市は生真面目な挨拶をするしかなかった。

「ふふふ。面白い人。こういう店は初めてなの?」

「恥ずかしながら初めてです。結構緊張しています。」

浩市が言い終わるまでもなく、ミキは浩市の膝の上にまたがってきた。

「うふふ。可愛い人。」

そう言い終わると、静かに自らの唇を浩市の唇に重ねてきた。ほのかな女性らしい香りが浩市を包んでいく。

このところ妻ともすれ違いの多い生活の中、久しぶりな異性の香しい匂いにあっという間に翻弄されそうになる。

じっとしたままでいると、ミキは彼女の祠の入り口を少し開き、中から女神様が挨拶しに顔を出してきた。あたたかくネットリとした柔らかい女神様だ。

浩市も極端に初心な男ではない。抜群にモテた訳ではないが、中学を卒業以来、彼の傍らにはおおよそ彼女と呼ばれる女の子が常にいた。従って、こういうときにどう対応すればよいかは理解している。

浩市は挨拶に訪れるミキの女神を快く歓待したのである。

さらに、彼女は浩市の手持ち無沙汰になっている手を取り上げ、自らの胸の膨らみへと案内する。

嬢たちの店内での衣装は薄手のワイシャツに申し訳程度のビキニがデフォルトのようだ。浩市の手はこんもりと盛り上がっている彼女の胸の膨らみを確保した。

「ええい、ままよ。」

どうせ遊ぶなら流れに任せきる。そう思った浩市は一気に加速する。

「ボクはどこまでが許されるんですか。解らないので教えてください。」

「ホントに可愛いのね。あなたみたいな可愛い人なら何をしてもOKよ。だけど最後までは無理よ。」

親子ほどとは言わないまでも、かなり年下の彼女の口調は明らかにおねいさんだ。こういった雰囲気に慣れていない浩市は、そんなおねいさん口調の彼女に甘えることにした。

「じゃあ、この中も直接トライしてもいいんですか。」

浩市の指しているのは胸の膨らみのことである。

ミキはニッコリと微笑んで、浩市の手をビキニの中へと導いた。絹のような肌触りのするあたたかな丘陵は、彼の手のひらの中にちょうど収まるぐらいの程よい大きさ。その頂点にある突起も浩市の指に挑戦するかのように固く起立していた。

さらに彼女は両の胸を寄せて、その中央に浩市の顔を埋もれさせた。その時気付いたのがミキの体臭である。

浩市にとってどこか懐かしさを感じる心地よい匂いであった。

「ミキさんは香水をつけないんですか?」

「そうね、昼間も仕事してるから、派手な匂いの香水はつけられないのよ。」

「ミキさんの匂い、ボクが好きな匂いです。」

「うれしいこと言ってくれるのね。口がお上手ね。」

おねいさん口調のミキに翻弄され、やや圧倒されがちな浩市はミキの胸の膨らみを指し、加えて甘えるような目線で、その先の行為に対する許しを請う。

「ここにキスしてもいいですか。」

「もちろんいいわよ。」

ミキはニッコリ微笑んで答えた。

優しい笑顔で答えるミキに導かれながらも、浩市は若干の罪悪感を味わっていた。

それなりの店とはいえ、一般的に妻と呼ばれている官軍たちが聞けば、それなりの違和感を持つだろうと思われる行為だと思ったからである。

「これは絶対に言えないな。」

心の中で自答していた。しかし、だからと言って止められる筈もなく、浩市の手は心地よい柔らかさに翻弄されている。

しばらく行き違いになっている妻との交渉も思い出した。もう数ヶ月も前のことである。ミキの匂いは妻の匂いとは違った匂いだった。それが尚更不倫の香りがして、浩市の胸中を騒がせる。

そして浩市にとって運命の場内コールが響くのである。


=ミキさん十五番テーブルハロータイム、キョウコさん五番テーブルスマイルタイム=


後で嬢に聞いたところによると、「ハロータイム」とは指名せずに入ってきた客への顔見せであること、「スマイルタイム」とは指名客の席を離れた嬢の代わりにヘルプとして入ることらしい。

そのヘルプにやってきたのが、本編のもう一人の主人公となる嬢なのである。

「初めまして、キョウコです。」

そう言ってニッコリ微笑んで浩市の隣に座った。

その瞬間、デジャビューのようなものを感じた。なぜか心臓がバクバクする。先程まで隣に座っていたミキとは明らかに異なるトキメキ感である。そんなドキドキ感を感じながら、名刺をもらおうと待ち構えていたのだが、

「あれ?名刺は無いんですか?」

「私はヘルプ専門なので、名刺を持たされていないんです。」

そんな人もいるのかと思った。

それにしても綺麗な人だ。浩市は素直にそう感じていた。年のころも三十路坂を越えるか超えないか。浩市と同じぐらいの世代であることは間違いないだろうと感じていた。そんなキョウコに見惚れていると、

「あなた奥さんいるの?」

ふいにキョウコが問いかける。

「一応結婚しています。彼女もそれなりの仕事を持っていますので、ここ数ヶ月すれ違いの生活ですけどね。」

「うふふ、じゃあ、あっちの方はどうしてるの?」

「そんな恥ずかしいこと聞かないでくださいよ。自分で処理してるに決まってるじゃないですか。それともキョウコさんがなんとかしてくれますか?」

「ダメよ。それはなんとも出来ないわ。でもかわいそうね。私が少しだけお手伝いしてあげる。」

そう言うとキョウコはおもむろに浩市の勢い良く弾んでいる膨らみへと手を添えた。

その瞬間、「ビクン」と波打つ浩市の体。その反応が面白かったらしく、キョウコは手を上下に動かして更なる攻撃を加える。

「キョウコさん、確かに気持ちいいですが、それは生殺しというものです。そのあたりで勘弁してもらえますか。それよりもあなたの匂いを確認させてください。ボク匂いフェチなんです。」

室内は冷房が効いているとはいえ、まだ厳しい残暑が残る九月の夜。やや汗ばんでいるキョウコの肌からは妖艶な女の香りがふんだんに漂っていた。

「おかしな趣味ね。なんか匂いする?」

「ええ、とってもいい匂いがしますよ。女性の匂いってどうしてこんなにいい匂いがするんでしょうね。」

キョウコも不思議がって自分の腕や衣装の匂いを嗅いでみる。

「何にも匂いなんかしないわよ。」

「自分の匂いなんてわからないですよ。」

「うふふ、不思議な人。」

浩市はその匂いを感じるだけで十分だった。

やがてキョウコのヘルプの時間が終わり、ミキが戻ってくるアナウンスが流れる。

「たまに来てるからまた会いましょうね。」

そう言ってキョウコはまた薄暗い空間の中へ去っていった。なんだか少しのぼせた気分のままにミキを迎え入れることが、なんだか妙な感じだった。

「どうしたの?」

少しぼおっとしている浩市の様子は可笑しかったようだ。

「いや、さっき来たキョウコさんって言う人、不思議な感じの人ですね。」

「そうね、感じはいい人よ。だけど残念ながらあの人は指名できないわよ。ヘルプ専門だから。」

「聞きました。そんなシステムになってるんですね。」

「それよりも、ミキのことはどうなの?」

ミキは妖しげな香りがする唇を近づけながら、腕を浩市の首に回す。

いつまでも受身のままの浩市にじれたか、ミキは胸の膨らみを浩市の顔にあてがってセクシーなサービスにぬかりない。

突然の襲来に驚いたが、元来さほど初心でもない浩市もそのサービスは嫌いではない。両手で膨らみを受け止め、色っぽく弧を描くように弄ぶ。

「うふふ、だんだん乗ってきたかしら?」

「可愛い女性にこんなことされて、舞い上がらない方がおかしいですよ。」

ミキは浩市の膝にまたがったままの姿勢で、上目遣いのまま浩市の耳元で囁く。

「あなたお名前なんていうの?教えてくれない?下の名前だけでいいから。」

「浩市といいます。サンズイに告げると市場の市です。読み方だけなら平凡でしょ。」

「私の名前も平凡よ。」

確かに今どきの名前としては珍しく普通だ。但し彼女の場合は源氏名であることを忘れてはいけない。

「ホントの名前は聞かせてはもらえないんでしょ?」

「もちろんよ。」

ミキは少し意地悪な目をして浩市を見下ろす。

「じゃあコウちゃん。コウちゃんでいいかな。あなたならこれも許してあげる。」

そういうとビキニを肌蹴て胸の膨らみを露にさせた状態で、その突起物を浩市の口に含ませた。柔らかな香りと共にむっとする女の匂いが浩市を襲う。

すぐさま反応する浩市は、その突起物を恐る恐る吸ってみた。

「やっぱり思ったとおりだわ。あなた無茶が出来ない人ね。普通のエッチなオジサンたちは、何にも言わなくてもかぶりついてくるのよ。嫌よねえ。」

ミキのその言葉を聞いて、現在のベンさんとヒデちゃんの様子を想像してしまった。

「ボクも慣れてしまったら、そんな連中と同じになってしまうだけですよ。まだ遠慮してるだけですよ。」

「うふふ、いい人ね。」

ミキは再び浩市の唇を迎えに行く。またぞろ浩市はミキの唇と祠の中の女神に翻弄される。それはまさに夢の中のような居心地だった。

次にミキの唇が浩市の唇から離れたとき、溜息と共に浩市の口から言葉が漏れた。

「ありがとう。」

意識して放った言葉ではなかった。桃源郷を髣髴させる妖艶な口づけに、本能のままに出た言葉だったに違いない。

そしてまたぞろミキが呼ばれるコールが聞こえる。

ミキが「ちょっと行ってくるね」と言って席を離れると同時に、キョウコが「また会えたね」と言って浩市の隣りに座ってくる。

「またすぐに会えて嬉しいです。あのう、あなたの匂いをもらっていいですか。もう一度あなたの匂いが欲しいです。」

「うふふ、変な人ね。」

「おかしいですか?」

「うん、ちょっとおかしい。でもそんなに変態っぽく感じないのはなぜかしら。」

「お願いがあるんですが。」

「何かしら。」

「ちょっとだけ甘えさせてもらってもいいですか。」

「ん?どんな風に?」

浩市は無言のままキョウコに抱きついて、ただ首筋の匂いを堪能していた。

キョウコはその様子を見て「困った子ね。」と言って浩市を抱きしめていた。

しばらくその状態で固まっていた二人だったが、キョウコは浩市の顔を拾い上げて唇を求めた。

「可愛い人ね。もっと早く知り合いたかったわ。」

少し陰のある笑みを浮かべながら、意味深な台詞を投げかけた。

「ボクもです。」

そんな会話の後、ミキが戻ってくるタイミングとなり、キョウコとミキが入れ替わって浩市の隣に座る。

「ただいまあ。」

「おかえり。」

すかさずミキは浩市を抱きしめる。その瞬間にキョウコとミキとの違いを、彼女の匂いと肌ざわりの違いで感じ取る。

ミキの匂いも浩市の好きな匂いだった。

そんなことを感じ始めている頃、1セット目が終了するアナウンスが流れ、ミキはそのことを浩市に伝える。

「そろそろ時間よ。もうちょっといられないの?折角会えたのに。」

もちろん彼女の営業用のセリフであると理解していたし、心地よい雰囲気に酔いしれてもいた。しかし、初めての体験で舞い上がっている自分を抑える必要性を感じていた浩市は迷った。

「今日は初めてだったので舞い上がっています。でもあなたに出会えてよかったです。また来るかも知れませんが、今日のところは帰ります。」

「残念ね。でもいいわ。きっとまた来てくれるのよね。」

そう言って最後の時間まで唇と唇の触れ合いを楽しませてくれる。浩市は、その度にどこか深い淵の先が垣間見られるような気がしていた。

「また、きっと来ると思います。そんな気がします。」

それだけを言うのが精一杯だった。何かわからなかったが、自分の中で通常とは異なった感情が発生していた。それだけは自覚できた。

やや朦朧としたままミキに送り出される浩市。最後まで彼女の匂いが後を引く。

「必ずもう一度来てね。きっとよ。」

「はい。きっと来ます。」

そう言い残して、浩市は後ろ髪を惹かれる思いを感じながらドアを開けた。当然のことながらベンさんもヒデちゃんも延長モードに入っているに違いない。そんなことを思いながら店を後にするのだった。

一重目の匂いを身にまといながら。


浩市は不思議な気持ちだった。若いミキも同年代のキョウコもそろって素敵な女性だと思っていた。中でも印象深かったのはやや陰のあるキョウコの笑みだった。

翌日、会社を訪れるとヒデちゃんが声をかけてきた。

「おはようございます。昨日は何時までいましたか?ボクは結局4セットぐらいまでいちゃって、帰ったのは最終電車がギリギリでしたよ。」

「ボクはすぐに帰ったよ。あんまり深入りするとよくない気がしたからね。ベンさんも一緒に帰ったの?」

「いいえ、ベンさんも何時に帰ったか知りません。みんな早く切り上げるんだなあ。楽しいところなのに。」

「でもね、結局はお預け状態で帰るんだろ?逆に欲求不満にならないかい?」

するとヒデちゃんは人差し指を「チッチッチ」と振って見せ、

「ああいうところではね、ずっとエッチな行為に励んでると、そういう錯覚に陥ります。それよりも嬢を如何にしてお店の外へのデートに誘うか、それがオイラの楽しみ方なんですよ。チューやらパイパイはそこそこにして、勧誘作戦に集中するんです。」

「それは聞き捨てならないことを聞いた。それでヒデちゃんは今までに何回デートしたことがあるの?」

「それがね、敵もさるもの引っかくものってね。まだ一回コッキリですよ。それも出勤前の同伴デートで夕飯奢らされただけっていうヤツです。」

しょぼくれた顔をしたかと思いきや、さらに浩市に挑んでくる。

「それはともかくとして、まずはメールアドレスの交換かラインのやり取りですね。これが出来なければデートはありえません。ちゃんと聞き出しましたか?」

「ボクはね。そんなことが出来るなんて聞いてなかったよ。それにボクがあの店にもう一度行くかどうかもわかりゃしない。ヒデちゃんは精々励むといいよ。ボクは今のところは傍観者でいいよ。」

浩市はまだ気付いていなかった。やがて訪れる運命の渦に。

そして、その数日後。再びヒデちゃんやベンさんたちと食事をする機会が訪れて、その日を境に浩市の脳裏に、その姿が離れなくなることを。



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