第6話/ Ruby
部屋の中は、蛍光灯の光で白く照らされていた。左右は衝立で仕切られている。恐らく、扉は全部同じ部屋につながっていて、一つの部屋を細かく区切っているんだろう。
俺の目の前には、マットレスだけのベッドが一つ。
そしてその上には……照明のせいか、白すぎるほど白い肌をした、細身の少女が正座していた。
「ほ、ほ、ほんじつは、よ、よろしく、お願いします」
少女は正座のまま、深々とお辞儀をした。
少女が身に着けているのは布を雑に縫い合わせただけのもので、服と呼んでいいのか怪しい代物だった。
その頭には、ウサギの大きな耳が生えている。これがキリーの言っていた……獣人か。
(すごい、ほんとうにいるんだな……)
あっけにとられた俺が何も言えずにいると、少女は恐る恐る頭をあげ、すぐにまた額を擦り付けるように土下座をした。
「も、申し訳ございません。こ、今回は初めてのおきゃくちゃ、お客様ですので、私のような、ひ、ひんそ、貧相な……」
そこまで言うと、少女は黙り込んでしまった。
(……なんだか様子がおかしいぞ)
その時になって気が付いたが、少女はぶるぶると震えていた。大きな耳が、体に合わせて小刻みにゆれている。
「あ、あの……きみ?」
俺が声をかけると、少女はゆっくりと頭をあげ始めた。少女の目線がゆっくりと、俺の足のあたりに、腰に、胸にと上がり、そして俺とかちりと目があった。少女は赤い瞳をしていた。
「ひ」
ひ?
何か言葉らしき声を出すと、少女は石像のように動かなくなってしまった。震えも収まっている。と同時に、少女の顔から血の気がみるみる失せ始めた。ただでさえ白い肌が、紙のような色になっていく。
次の瞬間、少女の深紅の瞳からぽろり、と涙がこぼれた。一度流れ出したそれは決壊したダムのごとく、どんどんあふれてくる。ただ事じゃないぞ、これは。
「お、おい……」
「ひぅっ!」
大丈夫か、と声を掛けようとすると、少女はひときわ大きくビクンと跳ね、そのままふらりと倒れてしまった。
「おい!?しっかりしろ!」
慌てて駆け寄ると、か細いながらも、少女の吐息が聞こえた。気絶してしまったらしい。
「ふ、ふう。なにが、どうなってるんだ……」
俺は少女をマットレスに寝かせると、その横に腰を下ろした。すうすうとか細い寝息を立てる少女は、しかしどうにも幼くみえる。キリーたちと同じか、下手するとそれより下じゃないか?と疑いたくなるレベルだ。ほっそりした体形のせいで、そう見えるだけだろうか。
(それに……この娘の体。自分では貧相だと言っていたが……)
これは貧相というより、やせ細っているといった方が正しい。病的にも見える白い肌が、より一層それを際立たせている。
(戦争のあと、獣人たちの多くは難民になったって言ってたよな……)
獣人がこの町で生きるというのは、果たしてどれほど大変なのだろう……どうにもきな臭くなってきたぞ。
俺はしばらく少女の横で考えを巡らせていた。十分ほどすると、少女の耳がぶるる、と震え、それからゆっくりと瞳が開いた。
「あれ……」
少女は身を起こすと、ぼんやり辺りを見回した。やがてすぐ横に俺がいることに気が付くと、再び少女の顔が青くなった。
「ま、待ってくれ、とりあえず落ち着いてほしいんだ。ほら、深呼吸して」
「えっ。あ、あの、そんな、どうすれば……?」
「ええ?」
困ったな。俺は少女に、身振り手振りしながら必死に深呼吸の仕方をレクチャーした。
「胸に手を当てて。目を閉じて、深く息を吸い込むんだ。ほら、吸って~……」
「すうぅ~~~……」
「吐いて~……」
「ふゅうぅぅ~~……」
「ふうぅ~……」
力みすぎて、気付かぬうちに俺もいっしょに息を吐いていた。それに気づいた少女がぷっ、と小さく噴き出す。
「あっ。す、すみません!」
「いや、いいんだ。気にするな」
少女はなおも不安そうだったが、当初ほど取り乱した様子はなくなった。
「すこし、きみと話がしたいんだけど。いいかな?」
こくり、と少女はうなずく。
「俺はユキっていうんだ。名前を聞いても?」
「……ルゥ、といいます」
「分かった。ルゥ、ええっと。さっきのことなんだが……」
俺が言いよどむと、ルゥはぐ、と顔をこわばらせた。
「ごめんなさい。私の態度のことですよね……」
そう言うと、ルゥは項垂れてしまった。大きな耳が、力なく垂れている。
「別に怒ってるとかじゃないんだ。ただ驚いたってだけで」
「あの、本当にごめんなさい。私、まだこういうこと、慣れていなくて……」
「え。そ、そうなのか」
本当に経験がなかったのか。いや待て、だったらどうしてそんな子が、こんな店にいるんだ?
「ご、ごめんなさい!あの、だから、これからシても、あんまり楽しませられないかもしれなくて……」
ルゥは今にも消え入りそうな声で言う。
あ、そうか。ルゥからすれば、俺はルゥに、その……いかがわしいことをシに来た客だ。落ち着いて話せと言うほうが無理だったな。
その時、俺の頭にキリーの言葉が浮かび上がった。
(自分のやり方は、自分で決めるんだよ!)
そうか、やり方が自由なら……“何もしない”選択肢を選んでもいいはずだ。
俺は足を投げ出すと、楽な姿勢をとった。突然の行動に、ルゥは目を丸くしている。
「ルゥ。俺じつは、ただ話が聞きたくて来たんだ。だからきみとどうこうってつもりはないんだよ」
「えっ。それだけでいいんですか……?」
「ああ。必ずしなきゃいけない、ってわけじゃないんだろう?」
「え、ええ。お店の規則では、問題ないですけど……」
ルゥはなおも戸惑い顔だ。だが口にしてみると、すとんと胸に落ちるものがあった。それに、ずいぶん気が楽だ……ここでする行為に、ずいぶん緊張していたらしい。
(もしかして、俺もそんなに経験なかったり……いや、記憶がないからだよな。うん)
一人で葛藤する俺を、ルゥは不安そうに眺めていた。俺は取り繕うようににっこり微笑みかけると、ぽんぽんとマットレスを叩いた。
「じゃあ、悪いけど少し付き合ってくれ。ほら、もっと楽にしてくれよ」
俺が言うと、ルゥはおずおずと正座していた足を崩した。
「よし。それじゃあ、まずこの店について聞かせてくれよ。ルゥから見て、ここはどんなところなんだ?」
「どんな、ですか……」
ルゥは着ているぼろの端をいじりながら考え込んでいる。この娘が“ボス”について何か知っていればいいんだけど。
「……このお店には、“耳付き”の女の子が多いんです。みんな私と同い年か、少し下くらいの……」
「な、なんだと?」
俺は思わず身を乗り出した。ルゥがびくり、と身をすくませる。
しまった、つい語気を強めていた。俺は手ぶりですまないと謝り、浮かした腰を落ち着ける。
(この娘よりも下?)
それって、もはや子どもといってもおかしくない年齢なんじゃ……
「ルゥ、きみはいくつなんだ?」
俺がたずねると、ルゥはきまり悪そうに目を泳がせた。
「ご、ごめんなさい。お客さんに、歳のことは教えちゃいけないって……」
「……いや、いいんだ。悪かった……」
きっと店側の指示だろう、そこらへんは徹底しているな。教えられないなんて、答えを明かしているようなものじゃないか。
「児童買春……」
この店は、性風俗なんかじゃない。売春の斡旋宿だ。
「あ、あの、ごめんなさい。なにか、いけなかったですか……?」
不安がるルゥに、俺は慌てて笑顔を取り繕った。
「大丈夫だよ。それより、ルゥより年上はいないのか?」
「いえ、そんなこともないですよ。ただ、お姉さんたちはとってもきれいで、お客さんから何度も指名をしてもらえるんです。だから、いつでも会えるわけじゃなくて。初めてのお客さんには、私みたいなぶさいくが当てられるんですよ」
ルゥは陰りのある顔でえへへ、と笑った。
「……そんなことないさ。ルゥは十分可愛いよ。けどじゃあ、ルゥはいつも一見客の相手をしているのか?」
俺の言葉に、ルゥはふるふると首を振った。
「……いえ。実は私、このお仕事は始めたばかりなんです。お客さんをとるのも、これが二回目で……」
二回目。風俗嬢としてなら、珍しいだろうか。しかし、ルゥの年齢は分からないが、これくらいの少女としてなら……
俺にはその数字が、多いのか少ないのか分からなかった。
「最初は、お姉さんたちのお世話とか、掃除とかをしてたんです。私、可愛くなかったし、すぐ風邪ひいちゃうから……」
ルゥは虚ろな目で話し続ける。
「けど、そろそろお前も客をとれって、店長が。前にも何度か、そういう機会はあったんです。けどそのたんび、お客さんを怒らせてしまって。それで、この前、やっと初めて“お仕事”したんですけど……」
そこまで言うと、ルゥは一旦言葉を区切った。気になってちらりと顔を伺うと、ルゥの様子がおかしい。深紅の瞳はかっ、と見開かれ、あちこちせわしなくさまよっていた。
ルゥはわなわな震えながらしゃべり続ける。
「お客さんは、初めてでも喜んでくれて。わたし、がんばらなきゃって……」
「……ルゥ?大丈夫か?」
「わた、わたし、痛かったけど、がんばらなきゃって。がまんしてたら、お客さんが、いい子だって言って。わたし、もう無理だって言ったのに、どんどんして、どんどん、血が、ちがう、ちがっ!」
「ルゥ!?しっかりしろ、ルゥ!」
俺が肩を強く揺すると、ルゥははっ、と正気に戻った。と同時にうっ、とえづくと、青い顔で両手を口に当てた。
「うげっ、うう゛ぅ」
「ルゥ、落ち着け。大丈夫だ、大丈夫だから……」
俺はルゥが落ち着くまで、丸めた背中をさすってやった。ぞんざいな服のせいでむき出しの背中は、氷のように冷たく、背骨がごつごつと浮き上がっていた。
俺が撫でている間、ルゥは口元を押さえ、ぎゅっと目をつぶり、涙をたたえて必死に堪えていた。
数分ほどするとルゥは持ち直し、体をゆっくり起こした。顔にはいくらか血色が戻っている。
「ごめ、ひっく、ごめんなさい。わたし、何度も……」
ルゥはあふれる涙を止めようと、両手でごしごし目をこすっている。
「いいんだ、ルゥ。気にするな」
俺は目をこするルゥの手をそっと握ると、ゆっくり下へおろした。うるんだ深紅の瞳が俺を見る。
「そんなに擦るんじゃない。もっと目が赤くなるぞ?」
「すんっ、はい……すん」
ルゥはぐすぐすいいながらも、ぎゅっと俺の手を握り返した。今気づいたが、背中をさするために移動したせいで、ずいぶんルゥとの距離が近い。俺はなんとなく気恥ずかしくなったが、ルゥが手を放してくれないので動けなかった。
気まずさをごまかそうと、俺は適当に声をかけた。
「えっと、ルゥ。大丈夫か?気分は?」
「はい、もう平気です。すみません……」
だいぶ落ち着いてきたが、それでもときおり、ルゥの白い頬を涙がつたう。彼女の抱えてきた痛みが、堰を切って溢れ出しているようだった。
「……なあ、ルゥ。この仕事、辛いんじゃないのか?」
ルゥは逡巡したようだったが、やがてこくんとうなずいた。だがそれを取り繕うように、ルゥはへへへと笑った。
「けど私、グズでマヌケだから。拾ってくれた店長に、恩返ししないと」
「恩返しって……ルゥは、その……ずいぶんひどい目に、あったんだろう?そんなことをさせるヤツに、恩を感じる必要あるのか?」
俺は扉の向こうを睨む。思わず、ルゥの手を握る腕に力がこもった。
「なんだったら、俺が警察に言って、ここを潰しても……」
「ダメです!」
突然のルゥの叫びに、俺はびっくりしてルゥを見た。
「ここがなくなったら、私も、他のみんなも、行くとこが無くなっちゃう。そしたら、きっとみんな……」
行く当てのなくなった人間は、この町ではどうなるのだろう。ましてや、彼女たちは獣人だ。
ルゥはぎゅっと目をつぶると、すぐににこ、と力なく笑った。
「それに、私だけが、特別辛いわけじゃありません……お客さんはお仕事、楽しいですか?」
「え……」
俺が言葉を返せずにいると、ルゥはなおも続けた。
「きっとみんな、お仕事は辛いと思うんです。それでも、生きるために頑張って働いてる。私も、そのうちの一人なだけ。このお店、安いけど、お給料はきちんと出してくれるんですよ?」
そう話すルゥは、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「ルゥ、きみは……」
それでいいのか。そう言おうとして、口を閉じた。彼女がやせ我慢をしていることなんて、とっくに分かっているじゃないか。それでも、彼女はここにいる。ここが、彼女にとっての“居場所”だから……
ジリリリリ!
扉のわきに掛けられた時計が、けたたましくこの時間の終わりを告げた。
俺は時計のベルを聞きながら、動けなかった。この手を放すと、目の前の少女は、もう二度と戻ってこないんじゃないかという気がしたのだ。だけど、このまま彼女を連れだしていくことも、到底できないと分かっていた。
今の俺は、メイダロッカ組の一舎弟だ。少女一人を抱えていくことすら、できやしない。
「……お兄さん。ありがとうございました」
ルゥはふっと笑うと、手の力を緩めた。
「ルゥ……?」
「行ってください。私みたいなのの相手させられて、お兄さんも嫌だったでしょう?」
「いや、そんなことは……」
「お兄さん、優しいから。話がしたいっていうのも、気を使ってくださったんですよね」
違う!そんなことは……俺は誤解を解こうとしたが、ルゥは顔を伏せたまま、こちらを見ようとしてくれない。
「わかってるんです。私を見たお客さんは、みんな怒るから。『お前みたいなブスになんで金を出さなきゃいけないんだ』って。お兄さんもそう思ったでしょ。私、こんなだから……」
握ったルゥの手が、するりと離れていく。ダメだ。このままでは、絶対ダメだ!
そう心が叫んだ時には、俺の体はかってに動いていた。
「ルゥ!」
「えっ?んむ……っ!」
気が付くと、俺はルゥの顎をつかんで、噛みつくようなキスをしていた。ルゥが息をのむ音がする。
「はっ……」
「ぷぁ……ぇ。え?」
ルゥは何が起こったのかわからない顔をしていた。
「ルゥは……可愛いよ。こんなことされるくらいに……だから、あんまり自分を悪く言うな」
「あ……」
ルゥは口元を押さえたまま、黙り込んでしまった。
……どうしよう。今更だが勢いでずいぶんなことをしてしまった気がする。こんな年端もいかない少女に……
「私、キス……初めてでした……」
ルゥがぼそりとつぶやく。
……初めてをあんなのにしてしまったのか。あぁやばい、俺のちっぽけな良心から、キリキリ音がしそうだ……
俺がやっぱり謝ろうとしたその時、肩にぽす、と何かが当たった。見えたのは、大きな耳。ルゥが俺の肩に頬を摺り寄せていた。
「ルゥ?」
ルゥは目を閉じたまま、ささやくようにそっと言った。
「わたしは……」
ルゥは何かをこらえるように、一瞬口を結んだ。それから柔らかく微笑むと、深紅の瞳で俺をまっすぐに見つめた。
「ルゥは、優しいお客さんに出会えて、幸せでした。わたし、お兄さんのこと……ユキさんのこと、ずっとずっと忘れません」
そう言って、ルゥは目を弓なりにして笑った。まぶたの端から一粒、真珠のような涙がぽろりとこぼれる。
「ルゥ……」
「初めてのキスが、お兄さんでよかった。ここで生きてく中で、辛いことばかりじゃないって……そう思えたから」
彼女の涙が、ぽとりと俺のシャツに落ちる。それはまるで、深紅に燃える溶岩のように、俺の中へ熱く、深く染み込んでいった……
続く
《次回は5/9投稿予定です。》
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