第15話 キス、泥水の味

 ――朝日がまぶしく目に入り、反射的に目を細める悠。悠はふと気が付くと、青いつなぎを着て見慣れた工場内に立っていた。

ちらりと時計を見ると8時半を過ぎた辺りであった。



(あれ? いつの間に俺、つなぎに着替えたんだろ?)



 霞掛かった頭で今までのことを思い出そうとするが、何も思い出せない。



「おい、悠。お前、顔色悪いけどどうした?」



「あっ、先輩。ゴホッ、いや、大丈夫っす」



(また、こいつは俺に仕事を押しつけるつもりだな)



 悠のあまりの顔色の悪さのために心配した同僚が声を掛ける。

悠は無理をして作り笑いをするが、段々と胸の辺りが苦しくなってくる。



「今日も残業かー。まったく朝の8時から夜の10時まで総菜のライン作業なんてやってらんないよな。ああ、悠。今日、お前は3番から9番ラインの担当な。この前みたく、サラダのカゴを床にぶちまけるなよ。次やったら殺すぞ?」



「ゴホッ、いや、先輩。あんなの1人じゃ、ゴホッ、きついっすよ」



(ほら、やっぱり。このクソは面倒なことを俺に押しつけてきた)



「いや、俺なら余裕よ。お前の手際が悪すぎるんだよ」



「ゴホッ、ゴホッ、それ、先輩しか……。ゴホッ、ゴホッ」



 悠は激しくむせ、口から茶色い水が床へとこぼれ落ちる。水というよりも土混じりの土砂のようであった。

ぴちゃぴちゃと床に小さな水たまりが出来、青いつなぎの裾を汚い茶色で染め上げる。



(なんだ、なんだ、これ!???)



「おい、悠。お前、本当に大丈夫か」



「ゴホッ、ゴホッ、カハッ」



 悠は水を吐き出しながら膝を着き、床に広がった自らが吐き出した水たまりへと頭から突っ込む。

床に薄く広がった水たまり。だが、悠の体はずぶずぶとまるで底なし沼に引きずり込まれたかのように沈んでいく。



(??? 体、動かな……。たす……け……)



 そのまま、悠はもがくことすら敵わずに水たまりの中に沈んでいく。

そして悠の意識と体は闇の中に落ちていくのであった。






*

「んっ……」



 悠は唇に柔らかいものを感じながら意識を取り戻す。河のほとり、柔らかな草の上。倒れた状態でキスをする悠とヴィスラ。

悠を組み伏すような形で2人はキスを続けていた。そのうち、悠はうっすらと目を開ける。同時に口の中に広がる泥の味。




「おや、ようやく起きたさね」



 ヴィスラは悠の唇から自身の唇を離すと、にやりと笑う。

一方で悠は泥水を吐き出しながら、むせて涙目となる。



「ゴホッ、ゴホッ、カハッ……。え、何で俺にキスしてたの?」



「ただの人工呼吸さね。アンタに死なれたらアタシも困るさね。生娘じゃあるまいし、こんなことでオタオタしないで欲しいさね」



 ヴィスラはハッと何かを思いつくと、先ほどの言葉を言い直す。



「あっ、アンタは生娘じゃなくて生男だったさね」



「そんなこと今はどうでも良いでしょーが。それでここはどこなの?」



「さァ? ”欲深なドラン=ヴィスラの砦”から泳いで半日。魔力も体力もないし、アタシのアーティファクト”万物の声”もしばらくは使えないさね」



「はぁ、まあ魔力なんて初めて聞いたけど休めばそのうち回復するんでしょ? なら釣りでもしてゆっくり待とうよ」



 そう言うと、悠は意識を無くしても手放さなかった釣り竿をヴィスラへと手渡す。

ヴィスラは壊さないように、ゆっくりとかつ慎重に釣り竿を受け取る。



「あァ? さっきはこの釣り竿を貸してくれなかったのに、どういう風の吹き回しさね?」



「んー、まあ」



 悠は背負ったロッドケースから仕掛けを取り出しながら、照れを隠すように言う。



「助けてくれたお礼だよ」



「……あァ、そうさね」



 ヴィスラもまた何か嬉しさを隠すようにぶっきらぼうに返事をすると、目を輝かせながら釣り竿を手にとって見るのであった。


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