なにが彼を殺したか

 新聞は、なお騒がしい。陸軍が朝鮮半島のどこそこで敵の何々部隊を打ち破って大戦果を挙げたとか、来襲する敵に備えて今日も激しい調練に励んでいるとか、そういうような内容である。

 しかし、ロシア海軍の切り札とも言えるバルチック艦隊が地球を半周して日本海にやって来ようとしているということについては触れない。

 海軍は、まだその報せを民間と共有することはなかった。喜市郎や佐々ら海軍内の一般兵においても噂話というような形でそれを口にすることがあったが、確報をもってその事実を知る者はまだ限られている。

 その事実がたとえば大衆に広く報じられたのは、バルチック艦隊が日本海に実際に舳先へさきを乗り入れてからである。

 年が変わって明治三八年五月二三日になってはじめて、

「露艦、対馬沖に現出せり」

 というような内容でもって各紙に正式に取り上げられる。その語るところは概ね、対馬沖に謎の露艦を認めたが、その進路は不明である。どちらに向かうしろ、黄海から日本海にかけての防衛に力を入れていれば何の問題もない、というような内容である。

 それまでは、ちらりと噂が出ては消えるというような具合で、それを口にした者もすぐに忘れてしまう程度の話題であった。


 知らぬということは、怖い。世界的に見ても武装、編成、数のどれをとっても最強の艦隊のひとつである無敵のバルチック艦隊が我が国を目指しているというのに、そのことを知らずに日々を送るということが。

 わざわざ膨大な経費をかけてまで地球を半周させ、戦線に投入するのがどういうことなのか。

 そもそも、さきに述べたような歴史的理由によってわが国の陸軍と海軍にはおおよそ連携というようなものがなかった。長く不和であった両者をして手を結ばしめるきっかけとなるほど、バルチック艦隊来襲の報せというのは我が国にとっての脅威であったのだ。

 それを、まだ誰一人として知らず、ごく一部で噂程度に囁かれる程度であるということを、筆者は恐ろしいことであると思う。


 無論、枚方の佐々のもとから戻った喜市郎においても、船の上で潮風に乗って運ばれてくる噂程度にしかそのことは耳にしていない。そのときは大層な騒ぎになったものだが、船の上というのは娯楽が少なく、誰もがほんとうかどうか分からぬようなことを様々と口にして楽しむようなことがあったから、喜市郎もまた、それを心底間に受けていたとは思えない。

 戻ってから数ヶ月間、家業の手伝いをしながら何となく過ごし、明治三八年の正月も迎えた彼にもたらされた報せというのは、彼に大きな衝撃を与えた。たとえば、今日バルチック艦隊が日本海に現れて舞鶴あたりに大砲を向けているというような報せがあったとしても、これほどの衝撃はなかったであろう。

「うそや」

 と、震える文字で書かれた手紙を握り締め、彼もまた声を震わせた。

「どないしたんや」

 と、父や母などが喜市郎のあまりの様子に驚いて声をかけてくるが、それにすら答えることはない。ただ、なにごとかを呟き、膝を笑わせるのみであった。

「喜市郎」

 と、母が鋭い声を上げて彼の肩を揺すると、ようやく彼ははっとした様子で気を取り戻し、母と眼を合わせた。

「そや。辰子さんに──」

 喜市郎は、父母には何も言わず、ふらふらと家を出て行った。


「だいじょうぶ?」

 辰子は、喜市郎の様子が尋常ではないことを見て取って、心配そうな声をひっそりと発した。縁側に腰掛ける彼の背は、彼女の知るそれよりもはるかに小さく、薄っぺらかった。

「なにがあったん?ゆっくりでええし、話してみい」

 辰子は、喜市郎が戻ってからというもの、その様子が海に出る前と明らかに異なっていることにずっと不安を覚えていたが、何も言わず接していた。しかし、このときの喜市郎は、その辰子の不安を浮き上がらせるのには十分な様子であった。

 喜市郎はしばらくの間、何度も息を吸ったり吐いたりを繰り返し、ようやくそこに言葉を乗せた。

「武ちゃんが」

「武ちゃん?」

「そや。戻ったときに、話したやろ」

「ああ、お友達の」

 辰子は喜市郎が口にする名が、なにか不吉なものでもあるかのような表情を作った。そして、つとめて平静を装い、それを隠すような。彼女が、かなりあとになってこのときのことを述懐するに、この時点ですでにというものがあり、そしてその正体のないものをとても恐ろしいことであると思っていたということである。

 喜市郎には、彼女のその顔や声の色は見えない。ただ青い色の瞳の色を深くし、代っぽくなった唇を振動させるだけである。

「そや。あの、武ちゃんや。戻ってすぐ、俺、会いに行ったやろ」

「そやったね。佐々さんいうたっけ。その人が、どうかしたん?」

「死んだ」

 喜市郎は、目の下に名前のない線を浮かべながら、ひきつるように言った。

「死んだって――亡くならはったん?」

「そや、死んだ。今日、武ちゃんの家から手紙が来た。武五郎と仲良うしてくれてたみたいやさかい、お知らせしとかんと、て」

 辰子は、訊かでものことを訊いた。

 なんで、亡くならはったん、と。

 手紙には、病のためにと記されていた。しかし、喜市郎には、確信があった。佐々が、自ら命を断ったのだということについての。



 ふたたび長尾の土を踏み、あざの道の両脇に並ぶ農家屋敷を通り過ぎ、佐々の自宅へ。喜市郎の来訪を知って佐々の家族は明るい顔を作って見せたが、それは藁葺き屋根の家に無理やり電灯を取り付けたのと同じように、どうしても馴染まないものであった。

 遺影はない。当時写真というのはまだ値段も高かったから、佐々はそれを何かの記念に撮影するような機会もないまま死んだのであろう。粗末な位牌の前に置かれた香炉の上で煙を上げるあたらしい線香の前に、喜市郎はぺたりと座り込んだ。

「――武ちゃん」

「あんまり、急なことやったからね。お手紙見て、すぐ来てくれはったんやね。武五郎も、喜んでると思うわ」

「そう、ですか」

 喜市郎は、動揺を隠せない。手紙では、信じられなかった。位牌があっても、一目見ただけでは佐々のものかどうかの判別はつかない。しかし、息子の突然の死を受けて憔悴しきった佐々の家族と、息子の友人が訪ねてきたことへの異常なまでの質量を伴った感謝が、喜市郎に現実を知らしめた。


 佐々は、死んだのだ。あえて、どのように死んだのかを問いただすような真似はしなかった。

 喜市郎は線香だけ上げるとすぐに佐々の家を立ち去り、そのまま汽車に揺られて京都に戻った。

 明治三八年、四月。一時の帰郷を許されていた喜市郎に、再びの召集がかかる。戻ってから数ヶ月が経っていて、今さらあの海に戻るのもどうかという気分があった。しかし、父母は喜んだ。当時は大東亜戦争の頃とは違い、軍人であることが誉れであるとかいう価値観はそれほど強くはなかった。人の中には税金でただ飯を食らう連中だと露骨にそれを蔑むような向きさえあった。しかし、彼の両親は違った。まるで、彼が家にいると不都合でもあるかのように。少なくとも、喜市郎にはそのように捉えられた。

「俺は、厄介者なんや」

 辰子に、そう漏らした。辰子という存在がなければ、喜市郎の心はあの海にさらわれて波と共に砕け散ってしまっていてもおかしくはなかったかもしれない。

「そんなことない」

 辰子は、いつもと変わらぬ笑顔を彼に向けた。それもまた、彼の胸を苦しくさせた。

「辰子さんかて、俺の目が青いこと、何か思てるんやろ」

「目?」

 辰子は、なんのことだと言わんばかりに、ことさらに大きな声を出して見せた。長年、喜市郎の心に、それが歪みとなって溜まっているのを分かっているのだろう。

「小さい頃から、厄介者やった。目が青いから言うて、除け者やった。そやし、三笠に乗り組むなんてこんな名誉なことはない、てみんな言いながら、俺が海に沈んでしまうんを待ってるんや」

「そんなことない」

 憔悴した喜市郎の言葉に、辰子の強いそれが重なった。

「うちは、喜市郎さんが海に沈んだら、嫌や。海になんか、行かんといてほしい。こんなこと言うたらあかんのは分かってる。せやけど、喜市郎さんは、いつでもここにいてほしいんよ。海なんか、行かんといて。目なんか、青でも赤でも何でもええやん。うちは、喜市郎さんがいつもみたいに冗談言うて一緒に過ごしてくれたら、それでええねん」

「辰子さん――」

 辰子は、顔を真っ赤にしている。喜市郎は、呆けたような顔をしてそれを見つめている。

「お友達が死んでしもたんは、可哀想。病気やないて思てるんやろ。それでええやん。弾に撃たれて死ぬんも、船と一緒に沈んで死ぬんも、それが怖くて生きてられへんくなって死ぬんも、みんな一緒」

「そや。それが、戦争なんや。辰子さん」

「知ったようなこと言わんといて」

 辰子が、ついに涙を流した。そうすると、これまで長い間抑えていたものが溢れ出すかのようで、喜市郎は我が胸に顔を寄せ、はげしくそれを叩く辰子をどうしてよいのか分からないでいる。

「なんやな。偉そうに。軍人さんは、これやから嫌や」

「おちつけ、おちついてくれや、辰子さん」

 強くその肩を抱きしめると、辰子は喜市郎に激しく迫るのをやめ、薄い背中を震わせるのみとなった。

「せやけどな」

 しばらくの沈黙のあと、掠れた声で言った。

「せやけどな、喜市郎さん。喜市郎さんは、生きてるんえ」

 喜市郎は、何も言うことができなかったという。

 あの黒い海。そこに満ちる無数の船。砲声。そして、低く、長く啼く鯨。迫ってくる敵艦。大きな口を開けた化け物。その口に、佐々は呑まれてしまって、海の黒に消えた。

 次は、自分だ。そういう恐れが、ちまきを食べたあとの手に残る餅米のようにいつまでも付きまとっている。

 だが、辰子の言う通り、喜市郎は、生きていた。



 喜市郎は、舞鶴へと再び向かうことを決めた。家族は晴れやかにそれを見送った。辰子だけが京都駅までついて来て、汽車の窓から顔を出す喜市郎の手をいつまでも握って放さなかった。出発を告げる汽笛が鳴ると、喜市郎はその手をそっと包んでほどいてやった。

「行ってくるわ」

「かならず、すぐ帰ってきてな。死んだらあかんえ」

「だいじょうぶや。俺は、ちょっと見てくる」

 なにを、という顔を、辰子は見せた。喜市郎は軍帽を被り直し、青い目を遠くした。

「なにが、武ちゃんを殺したんか。それを、しっかり見てくる。俺は、それを見て分かるようにならん限り、いつまでもあの化けもんに付け狙われる」

 何を言っているのか、辰子には分からない。しかし、その目の青が、空よりもなお透き通っているのを見て、なぜか安堵することができた。

 ――あの化けもんに勝たんと、俺はいつか食われてまう。食われたら、武ちゃんみたいになる。そやから、もう一回、海に行くんや。


 明治三八年、四月。喜市郎は、召集に応じて舞鶴へ。そして、もとの配置の通り、三笠の乗組員として、再び海へと出る。この頃にはもうバルチック艦隊の来襲が間近になっているものとして首脳部では相当な準備とそれに伴う混乱があったらしいが、春の海は穏やかなものであった。

 甲板を吹き抜ける潮風が、喜市郎の青い目を細くする。

 ――武ちゃん。俺は、あの鯨の化けもんに、きっと勝ったる。よう見とけ。

 自分たちが何に備えているのか知らされぬまま、彼らは海に浮かんでいた。

 五月二四日。新聞に、はじめてその報が大々的にもたらされる。

 対馬沖に、露艦出現。

 船上に新聞はないが、同日、喜市郎は吹き鳴らされる喇叭らっぱの音で目を覚ました。

 

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