朋輩

「痩せたな」

 と言う喜市郎の顔に少し目を細めて、佐々は言った。

「船酔いかな」

 冗談を言ったつもりであるが、船の上でするような切れがない。戻り、安堵すると張り詰めたものが急に萎んでしまったのか、二人して曖昧に笑うのみである。

「陸の上でやったら、酒酔いとちゃうか」

 意味のないやり取りを重ねて、二人は笑った。


 佐々は、痩せていた。喜市郎は、海の上ではそのことに気付かなかった。つい先頃まで共に過ごしていたはずなのに、横から陽を浴びる目鼻や頬にくっきりと陰が落ち込んでいることに驚き、落胆した。

 ──おれは、頭がどうかしてしもてるんかもしれん。


 ここに来る途中も、汽車の汽笛を聴いて身を縮めたりした。辰子のほそい手ですら、大砲を撃つための棹になった。

 陸に戻っても、喜市郎はあの海から戻ったわけではないらしい。あの海の上ではある意味時間というものは止まってしまっていて、そのために佐々は出会った頃と同じようにぷっくりとした頬をしていて、自分は冗談ばかりを言っている京者のままであった。

 時間。海の上では、その経過はむしろ陸よりも如実である。陸においては、これまでの喜市郎の感覚では、たとえば大文字が赤くなったとか鴨川から飛んでくる鷺が鳴いたとか、そういうようなことで自分の周りの時間が流れていることを知るわけであるが、海においては少し違う。

 海には、あらゆる遮蔽物、言い換えれば景色というものがない。だから、太陽や星の動きでしか時間を知ることができない。無論、事あるごとに号令の喇叭らっぱなどは吹き鳴らされるにせよ、根っからの船乗りではない喜市郎にとっては、自分が時間の中にいるという感覚に乏しいのだ。


 知らぬ間に、止まってしまっていた。

 何ヶ月陸にいて、何ヶ月海にいたのかも、よく考えればあやふやである。あの日以来、ふとしたときに、口を開いたばけもののようにただ迫りくる敵の巨大な船の影と、自ら握る棹に伝わる激しい振動と耳を壊すような轟音、そしてそれが見つめる先にある敵の水雷艇が頭をよぎるばかり。

 喜市郎は、だんだん気付いてきている。恐ろしくて口に出すのが憚られるような思いであるが、今頭によぎったことを佐々に訊いてみることにした。

「俺は、どうや。痩せたか」

 と。

 辰子は、逞しくなったなどと言って喜んだ。しかし、もしかすると、自分が思っているよりもずっと自分はひどい顔をしていて、辰子はそれにあえて気づかぬようなふりをしたのではないかと思ったのだ。

 父や兄はともかく、母が自分を見る目も、どこか妙であったように思う。ことさらに三笠のことを取り沙汰したりして、なにか気を使っているようなところがあった。

 唾を、飲み込んだ。飲み込んで、佐々に向かって笑いかけた。笑えたかどうかは、分からない。

 なにかを考えるような顔を見せ、やがて佐々は口を開いた。

「せやな。お互い、ひどい顔や」

 と。


 喜市郎は、愕然とした。そのまま、その場に膝をついた。そうすると、不思議と涙が出てきた。

 佐々は喜市郎に歩み寄って屈み、その肩に手をやってじっとしていた。陽が傾いて山に埋まりかけても、ただそうして朋輩に寄り添っていた。


「いやあ、ご馳走になってしもて。ほんま、申し訳ないことです」

「阿呆なこと言いな。タケの連れなんやろ。ゆっくりしてき」

 喜市郎は、もう今日は来ぬ汽車を待つことなく、そのまま佐々の家に招き入れられた。泊まる以外にない。長尾の駅はほど近いとはいえ、陽が暮れるとほんとうに何もなく、真っ暗だった。

 くりやと広間の明かりがその暗闇を切り取る、藁葺きの屋根。

「しかし、立派なお家ですなあ」

「京都の真ん中には、藁葺きなんか無いやろ」

「そうです。ほとんど、瓦葺きです。一軒がもっと小そうて、細長いことが多いです」

「ああ、あれや、鰻の寝床、いうやつや」

 佐々の両親や兄弟とは、普通に会話ができた。知らぬ者といる方が気が張っていることができて良いのかもしれない。

「この家はな、俺が分家するときに親父が建ててくれたんや。近所のモンが集まってな、ほれ、一斉に地ぃ突いてな」

「そら、立派なことで。藁葺きは夏は涼しいて聞きます」

「そやけどな、白蟻が多い。玄関のとこで煙を燻してな、そしたらもう、そらごっつい数の白蟻が落ちて来よるんや。有難いもんやないで」

「そうですか。そら、知りませんでした」

 雑談は続く。佐々の両親もやはり自分の息子が三笠に乗り組んでいたということは誇りであるらしく、しきりとその話題を持ち出したがった。その度、佐々が気を使って話題をすり替えた。

「敵艦轟沈。白波切るは三笠の勇姿」

 佐々の弟が、新聞の見出しを口ずさむ。どうしても、その話題からは逃れられぬらしい。

きよし。戦争はな、怖いんやで」

 佐々が、歳の離れた弟を驚かせようと声を低くする。弟は、おそらく十四、五くらいの歳の頃だろう。

「そんなもん、怖いことあらへんわ。連合艦隊は無敵やで」

「ほな、次はお前が海に出てみい。船なんかな、こーんなおっきいなりしてな、それがずーっとこっちに迫ってきよるんやで。鯨や、あれは。その沈むときもな、鯨が啼きよるみたいにして沈むんやで。怖いで」

 喜市郎の箸が、止まった。佐々が弟にこれ以上話題を続けさせぬよう、ことさらに強調してみせたのが耳の中で粘りついている。

「なんや、兄ちゃん。怖いんかいな」

 その様子を見て取った佐々の弟に、向き直る。

「そやな、怖いわ」

 それが、正直なところである。

 喜市郎の顔色が、悪い。両親もさすがになにごとかを察し、それ以上海や船の話題を向けぬようにして、京都の街の様子についての話になった。


「なんや、ごめんな」

「ええんや。変な気ぃ使わして、ごめんな」

「いや、ほんまに悪かった。喜市っちゃん、大丈夫か」

「どうもない」

 佐々の部屋に二つ敷かれた布団の上で、蚊帳の向こうに丸木を寝かせたのが剥き出しになっている梁を見つめ、ふくろう木兎みみずくかが鳴いているのが、間抜けに聴こえてくるのに気を取られながら、二人は話している。

「武ちゃんの様子を、見に来たんや」

 ぽつりと言った。しかし、佐々の様子を見ることで、鏡写しのようにして自分がどのような状態であるのかを知った。知ると、自分が思っている自分の振る舞いと、実際のそれとがどんどん近付いてきて、自分の気分にどこか重大な変調があるように思えた。

「せっかく、戻ってきたんや。お互い、ゆっくりしようや」

 そう言って笑い、佐々は薄い夏布団を被った。

「なあ、喜市っちゃん」

 眠るのかと思い、喜市郎も目を閉じたが、佐々の声は意外なほどはっきりとした状態で梟の声を塗り潰した。

「怖いんやったら、もう、海に出んでもええんちゃうか」

「──そやな。武ちゃんは、どうするんや」

「俺は、もう御免や。もう、しんどいわ」

「そうか。ほな、お父さんの畑でも一緒にしたらええやん」

「そやな、それもええかもしれんな」

 それきり、佐々は何も言わなくなった。


 翌朝、喜市郎は一晩のもてなしの礼を重ねて述べ、佐々の家をあとにした。駅の方に続く昔のままの細道を踏む喜市郎の姿を、佐々はいつまでも見送っていた。

 喜市郎が何度振り返っても、佐々の姿は次第に小さくなりながらもそこに存在し続けていた。

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