青は黒
喜市郎は、辰子の家まで挨拶に行った。辰子の両親もやはり喜市郎の目が青いことについて何かを思うことはあるようだが、その明るく気優しい人柄を知っていたから、
「うちの辰子は気ぃが強いさかい、喜市郎さんが見てくれてよかったわ」
と彼を歓迎していた。商家を営んでおり、口も上手い。
「おお、おお、喜市郎はん。よう戻らはった」
「すんません、ろくに報せもせんと」
辰子を驚かせようと思って事前の連絡をしなかったわけであるが、彼女の両親はそれは驚くだろうと今さら気付いた。無論、ゆうべのうちに興奮気味の辰子から喜市郎が戻ったことは聞いているのだろうが、それでも大袈裟に目を剥いて驚き、喜びを表した。
「あんたんとこのお父さんお母さんも、そら喜んだはったやろ」
「ええ、まあ」
喜市郎を冷めた眼で見る父や兄とは違うと思っていた母の言葉。まるで、喜市郎が旗艦三笠に乗り組んだことを喜ぶような。
「お父さん、お母さん、喜市郎さんは三笠で大砲撃ってはったんえ」
辰子が父母の興をさらにかき立てようと、その話題を持ち出す。
「ほんまか、喜市郎はん。そらすごいわ。新聞でも毎日三笠のことは書いたぁったで。何隻もロシアの戦艦をやっつけたんやて?」
「いや、僕はなんにも──」
ちょうど、烏が一つ間抜けな声を上げた。なぜかそれに誘われるようにして、砲声が耳に蘇った。
「凄いんやろ。大きいし、速いし、何門もごっつい大砲積んで。喜市郎はんは、何隻沈めたん?」
当時から、戦況について極めて有利であるとか最新鋭の無敵の戦艦が大艦隊を率いてロシア海軍を駆逐したとかいうような報道の向きは強かった。それを、辰子の父は無邪気に信じているらしい。疑う余地がないのだから、無理はない。
「僕のは、ちっさい大砲やったんで」
と喜市郎はよく分からぬことを言い、挨拶を済ませて辰子の家をあとにした。
「喜市郎さん」
蛸薬師高倉の辻あたりで、追いかけてきた辰子に呼び止められた。
「どうしはったん?お腹痛いん?」
船乗りの大敵は、伝染性のある病気である。船の乗組員が全員下痢を起こして大変なことになったとかいうような話を知らぬ者はないから、辰子は自らが抱く心配の動機としてそう言ったのかもしれない。
「いや、どうもないよ」
「ほんま?そやけど、なんか帰って来はってから、おかしいわ」
「舞鶴から丹波の山まるごと越えてきたんや。そら疲れるわ」
笑う喜市郎の下がった眉のその下にある青い目を、辰子は覗き込んで見上げた。
「怖い上役に、いじめられたん?」
「いや、みんな優しいで」
それも事実である。軍隊は、喜市郎の目の青さを理由に彼の人格を否定するようなこともなく、ただ彼が誰よりも早く号令に応じて綱に飛びついて手早く結んだり、早く飯を済ませようとするあまり米を鼻から吹き出してしまったりする様を見て受け入れ、評価した。
喜市郎の家に向かって蛸薬師通を西に歩きながら、少し話した。なにを話してよいものか、喜市郎は困っているようだった。
「佐々君ていう朋輩がおってな」
なぜ、佐々の話題を持ち出したのか分からない。
「僕のこと喜市っちゃん、て呼んでな、僕も武ちゃん、て呼ぶくらい仲良うなってな」
「へえ、おもしろい」
明るそうな話題に、辰子の頬が緩んだ。なにか暗い話題が出はしないかと、そのことを怖れるようでもあった。
「長尾の出でな。色んなことをよう知っとる賢い奴やわ」
「そうなん。ええお仲間ができて、よかったですね」
笑うことでうっすら見える辰子の八重歯を見て、なぜか喜市郎の胸が痛んだ。
砲声。海の上の煙。そして砲火を浴びながらなお向かってくる、黒い鯨。
佐々の姿。この自分の生まれた京都の街にありながら、なぜか今になって佐々が海の上で過ごす間にめっきりと痩せてしまっていたのだということに気付いた。
舞鶴で出会った頃、あれほど頬が痩けていたか。あれほど目が落ち窪んでいたか。あれほど背を曲げるようにして歩いていたか。飯を食った後便所に駆け込み、吐いてしまうようなことがあったか。
そのことに、なぜ今気付くのか。
砲を撃ったときの凄まじい振動が、手に。あっと声を上げて、砲の
「どうしたん?ほんまに、どうもないの?」
「ご、ごめん」
砲を撃ったとき桿を通して伝わる衝撃など、ここにはなかった。ただ、辰子が喜市郎の顔色がにわかに悪くなったのを気遣って、震える手に小さくて白い自らのそれをそっと重ねただけだった。
辰子が着る、紺色の着物。
海。その黒々とした色。
浮かんでいるというより、しがみ付いている。そうしなければ、その黒がそのまま得体の知れぬ化け物になって、自分を呑み込んでしまいそうだからだ。
しがみ付くためには、桿を握っていなければならない。同じ黒の上にしがみ付く者も黒い鯨も全て、砲声でもって化け物の口の中に叩き落とさねばならない。
名誉なこと。最新鋭の旗艦三笠。強国ロシアを退け、我が国の主権を守るために打ち鳴らされる高らかな戦鼓。その音は腹を揺らし、深く、低く響く。
「辰子さん」
喜市郎は、唇を薄くして開いた。
「明日から、ちょっと出かけるねん」
「気ぃつけて」
と、辰子はこの時代の婦人らしくまず同意の意思を見せてから、
「どこへ?」
と問うた。
「長尾や」
「――佐々さんいう人のとこ?」
そや、と短い答えを返し、ほな、と別れを告げた。告げたにも関わらず、辰子はちょこちょこと喜市郎のあとをついて来て、家の前に来てやっと、ほな、と言った。
翌朝、喜市郎は小さな袋だけを持って関西鉄道を利用し、枚方の長尾へと向かった。
なぜ佐々のもとへゆくのかは、分からない。だが、佐々に会わなければならないと思った。会って、佐々が喜市郎が思った通りほんとうに痩せてしまっていたなら、喜市郎は船の上で朋輩の変化に気付かなかったということになる。自分の産まれた内陸の街で母や夫婦になることを約束している人やその両親と会ってはじめて思い返し、気付くというようなことがあるのだろうか。
それが、なぜか喜市郎にとってはとても重要なことのように思えた。
戻ったときの、兄の顔。冷ややかな父の言葉。その顔に綺麗に取り付けられた黒い目。自分の目の色が青いことを憎んでいる、黒い目。
青なのだ。自分の目の色は、海と同じ青なのだ。そして、海の青とは、黒い。そうであるなら、自分の目の青は、黒と同じということにはならぬか。
父と兄の黒い目は、それを真っ向から否定した。
やはり、喜市郎の目は青であり、青ならば海にいなければならぬし、海は黒くも何ともないのだ。もし海が黒ならば、喜市郎の目もまた黒であるということになり、そうなるとあの化け物がぽっかりと開けた口の中に溶けて消えてしまうかもしれぬではないか。
佐々に会う。会って、佐々がほんとうに痩せていたならば、海の上の喜市郎は黒になってしまっていたということになる。ほんとうのことを見ることができぬようになり、こうであればいいという願いが目に見えるようになってしまっていたということになる。
そうではないなら、自分は青。
海に、いなければ。
それを、確かめるのだ。
「――喜市っちゃん?」
佐々の家を表札を頼りに探そうとしたら同じ苗字ばかりが並んでいて、陽も傾きを見せはじめて困っていたところ、ある一軒の農家らしい家屋の敷地の中の井戸で手ぬぐいか何かを洗っている姿が、大声で呼びかけてきた。建てられて間もない家である様子から、最近分家したのかもしれないと思った。
「何してんのや、こんなとこで」
佐々が、駆け寄ってきた。
「畑してたんか」
「そや。昨日の暮れに戻って、今朝からは普通に畑出とった。喜市っちゃん、何かあったんか?」
分かれたばかりの朋輩がすぐにわざわざ訪ねてくるなど、尋常ではない。佐々が心配するのも無理はない。
濡れたままの手ぬぐいがかかった肩に、喜市郎はそっと手を伸ばした。
「武ちゃん」
「なんや。どないしたんや」
「――痩せたな」
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