第二章 帰還
ひとときの帰還
日本軍は先に述べた通り、陸軍と海軍がばらばらに行動していた。喜市郎が海に出た戦いの頃になってようやく、海軍から陸軍に向けて陸上の旅順要塞攻略の要請が発せられ、ゆえに旅順艦隊の無力化が陸軍に伝わらず、結果、陸軍は旅順要塞攻略に対する準備不足のまま作戦を決行し、五千を超える死者を出すことになる。
市民は、むろんそのことは知らない。陸、海がついに共闘を開始し、それぞれの攻撃によって敵艦を撃沈せしめたなどという報道ばかりがもたらされるから、皆その通りなのだと信じ込み、喜んだ。
違うのは、喜市郎たちである。彼らは実際に海で戦い、舞鶴に帰港してからもたらされた陸軍大敗の噂に戦慄を覚えたりもした。いや、喜市郎は性格からしてまだましな方で、
「そら陸軍が悪い。ろくに準備もせんと、要塞に手ぇ付けるしやんか」
と海軍の中に充満している陸軍を否定するような向きに倣っていたものだが、彼の盟友となっている心配性の佐々などは違った。
「喜市っちゃん。そら、ちゃうで。大きくて強いロシアに俺らが勝ってるんは、たまたまや。相撲で言うたら、俺らは小兵の幕の外や。それが横綱に勝とう思たら、今こそ陸も海もなく力を合わせて戦わんと。どっちみち小兵でも、二人掛かりなら横綱もひっくり返るかもしれん」
それを、海軍も陸軍も自分がたとえば大関くらいの地位にいるものと思い込んでいるのが、あぶない。それが佐々の言うところであった。
いや、陸海を問わず当時の日本の軍事力というのは間違いなく世界的水準にあったことは確かであろうが、佐々の言う「幕の外」というのは、どうもそういうことではないらしい。
分からぬまでも、何となくその機微を喜市郎は察した。
「ほな、負けるんか。このままやったら」
「いや、分からん。実際、どうなんのか」
局地的な戦いで勝ったり負けたりしても、最終的にどうなるのかは分からない。ただ、陸軍嫌いの海軍内部においては陸での負けは新聞などよりもより精密に報せがもたらされるから、彼らは功を焦った陸軍が五千もの死者を出し、結局作戦中止を余儀なくされたことなどは知っていた。
だが、この戦いがいつまで続き、どうなったら勝ちなのかは誰にも分からない。
喜市郎や佐々が所属していた隊の四等水兵は、いっとき軍役から解放された。別の補充兵がやってくることになり、次の招集までそれぞれ故郷に戻るのだ。本来ならば徴兵とは三年の兵役が課せられるものであるが、扱いとしてはまだ喜市郎らは訓練中であり、それが終わったら一旦帰宅することになっていたから、その都合であろう。
上官から、
「お前はなかなかに見所があるから、士官に向けて試験を受けてみてはどうか」
と勧められたりもしたが、
「お盆にも、帰ってませんので。母親が心配です」
と言って断った。
父母のこともそうであるが、辰子さん、と彼が呼ぶ女性に会いたいのが本音であったろう。辰子は彼の家からそう遠くない
舞鶴で過ごしていた数ヶ月が振り返れば短く、なおかつ舞鶴から京都までの道のりが本来よりも長く感じるのは、もう喜市郎の思考が日露のどちらが勝つのかというようなことよりも辰子が驚くだろう、ということに偏っているためであろう。
あえて、手紙などでは知らせていない。いきなり帰って驚かせるつもりである。そういうところが、この時点での喜市郎にはまだあった。
河内枚方へと向かう、今で言うところの国道一号線で佐々と別れ、喜市郎は碁盤の目の街路に戻った。なんだか、久しぶりという感覚であった。そのまま四条の呉服屋の並ぶ界隈に足を踏み入れると、海に出ていたことが嘘のように思えた。
今年はじめての
「辰子さん」
と勢いよく声をかけた。
「わっ」
と、
「辰子さん、俺や、俺。喜市郎が帰ったで」
「なんで――?」
辰子は箒を拾うこともなく、大人しい目を真ん丸にしている。
「訓練が終わって、一旦、帰ってきたんや」
「九十日て聞いてたのに戻って来いひんし、海では船がぎょうさん戦ってるて新聞でも毎日言うてるし、もう三年は戻って来いひんのやと思ってた」
「そやろ。お盆も終わった半端なときやけど、戻って来れたんや」
「お
まだ旅装のままの喜市郎を見て、辰子は問うた。こういう物言いを、よくする女であった。
「これからや。その前に、辰子さんの顔を一番に見に来たんや。いはるかな、と思ったら、ちょうど門掃きしてるとこが見えたから」
「うれしい」
辰子は片方だけ生えている八重歯を見せて笑った。本人は気にしているらしいが、それが見えると喜市郎も嬉しい気持ちになった。自分の青い目などよりもよほど愛嬌があり、可愛らしいとさえ思えた。また、自分の感情をこうして素直に言葉にして表現する物言いも、よくする。そこも、喜市郎は好きだった。
「あ」
辰子が箒を拾い、それを後ろに隠すようにしてかしこまって立った。
「お帰りなさいませ」
大東亜戦争の頃ほどではないが、この頃も兵役から帰還した者をこう言って迎えるのが普通であった。いや、そういう価値観が芽生えはじめた日清戦争の勝利のあとの頃だから、この手のことの黎明期と言えるのかもしれない。
「ただいま、戻りました」
兵役が明けたわけではないのに、喜市郎もそう答えた。
「大人しくて優しかった喜市郎さんが、水兵さんやなんて。ああ、よう焼けて。ちょっと逞しなった?」
「おう、そらそうや。海でロシアの奴らをむちゃくちゃにして来たからな。ごんた(わがまま)ばっかりの兄貴より、よっぽど逞しなったで」
辰子の八重歯が、唇に隠れた。喜市郎の明るい冗談にわずかな
「あんた、帰ったんかいな」
「手紙くらいよこさんかい」
喜市郎の両親もやはり驚いて迎え、ゆくゆくは店を継ぐため兵役免除となっている兄も血相を変えて出てきた。
「びっくりさそ思て、黙って帰ってきはったらしいですよ。ほんま、仕様のない人」
くすくすと笑う辰子とは違う反応を、喜市郎の家族はした。
「兵隊に出て、ちょっとは根性ついたかと思たら、相変わらずしょうもないことするなあ」
兄である。まるで喜市郎が帰ったことが迷惑とでも言わんばかりの顔をしながら言う。
「無事で、なによりや」
父も、それだけを言い、兄とともに奥へ引っ込んでいった。
「喜市郎。よう戻らはりました。もう兵役はええの?また舞鶴戻るん?」
父と兄が去ってから、母は優しげな色の声をかけた。
「ええ、しばらくは京都にいます。また召集があるし、そしたら舞鶴戻ります」
「新聞で、見てたえ。よう戦って、立派やね。ロシアをやっつけて、偉いなあ。あんたは、どの船に乗ってたん?」
母も息子が訓練中の扱いの四等水兵であることを知らぬわけはないであろうが、まるで艦隊を率いて戦ってきたとでも思っているようなことを言う。
「途中からは三笠いう船に乗ってました。急遽、砲手を任されたんで、正直荷が重かったです」
「三笠。あんた、旗艦やないの」
三笠というのは日清戦争後、ロシアを仮想敵とする軍事的施策の一環として立案された六六艦隊計画の中核であり、この当時まだ竣工後二年しか経過していない最新鋭の戦艦として列強に対して国民が勝利を確信するための材料として喧伝されていた。喜市郎が出た黄海での海戦の際にも二十数弾を受けてもびくともせず――そのうちの一弾は自身の砲身の中で砲弾が爆発する事故であったが――悠々と舞鶴に帰還し、そののちに
「三笠は、すごい船です。でも、そんなええもんやありません」
興奮を隠しきれぬ様子の母を、このときどう扱ってよいのか分からなかった。と後年になって喜市郎は辰子に語っている。なにか、自分のしていることと、人が外から見るそれとの
だが、このときの喜市郎にはそのことを言葉にすることはできない。
「また明日、お
と辰子に声をかけて眉を下げ、旅装を解くため自室に入っていった。
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