顧みる影
三笠は波を掻き分け、北を目指す。いちど静かになったと思った波がまた細かくなるのは、黄海に差し掛かったからだろう。黄河上流の砂を含む黄土を運ぶためにその名のついた大河が注ぐこの海は、喜市郎にとって二度目のものであった。
はじめ、旅順へ。そのときは水兵といってもあたふたと甲板上を右往左往するばかりで何をすることもなく戦いは終わったのだが、三笠の乗組員となった今回は違う。
彼の持ち場は、甲板外側の四十口径安式十二斤速射砲のひとつであった。舞鶴に戻った五月に配置換えによる新たな配属が言い渡されたとき、見たこともない立派な軍装の男がせわしなく働いている四等兵どもを訪ね、安東喜市郎はおるか、と声高に呼ばわり、
「貴様はなかなかに見所のある奴だと聞いているから、砲を任せる。よろしく励むように」
と言い渡してきた。それには周囲もわっと沸き、
「やったな、喜市っちゃん」
と口々に喜市郎の抜擢を喜んだ。
砲の操手というのは海兵の憧れの的である。四十口径安式十二斤速射砲は補助砲とはいえ接近する敵の水雷艇などを攻撃するために無くてはならぬ速射砲で、三笠の両側を二十門据えられたそれの一つを任されるというのは大変なことである。
八月十日の海を同じ色の瞳で睨みながら、喜市郎はその前に立っている。
情報漏洩阻止のため、兵卒にまで作戦の詳細が下達されることはない。ただ敵が来たら上官から号令があり、それに従ってそれぞれの働きを夢中でするのみである。ゆえに、各々は非常に緊張した。いつ敵が来るのかはおろか、自分たちがいつ何をするのかその瞬間にならないと分からないのだ。
そして、その瞬間というのは、突然やって来る。敵艦視認を報せるラッパの音が、乗組員の背骨を弾く。
喜市郎は砲に飛び付き、また海を見据えた。
「来襲、来襲」
太陽が右にあるから、北を向いているのだ。その視界の向こうから、影。迫ってくる。大型艦ではなく、もっと小型の。
「視認。敵水雷艇」
上官の号令に喜市郎のいる左舷の兵は緊張した。
どんどんその姿を濃くしてゆく影に砲を向け、固い唾を飲んだ。
「速射砲、用意──」
指が、震える。急ごしらえとはいえ、三笠の速射砲を担うことを任じられてからこの八月までの間、訓練に訓練を重ねてきた。
はじめの一発。それが、
なにかを乞うようにして船首を高く上げる豆粒のような水雷艇。徐々に、尻から海に引きずり込まれてゆく。
沈むのだ。今から。音もなく、ゆっくりと。喜市郎は、呆然としてそれを見ていた。
「何をしている。撃て、撃て」
発せられる号令に気を取り直し、砲弾を次々に放つ。
アームストロング社製のこの砲は毎分12発の発射速度を持つとされるが、それは砲手の熟練具合による。無論はじめての砲手に大抜擢された喜市郎にその速度を保てるはずはないが、それでも夢中で撃った。五発撃ったあたりで、何発撃ったのか分からなくなった。もう五発撃てば、自分が何をしているのか分からなくなった。
はじめの一発で撃沈した一艘のほか、数艘に弾が中ったらしい。しかし、どれが自分の弾のために沈む船なのか、まるで分からなかった。
ふと見ると、眼前の海には、黒々とした船の群れ。
──あれが、敵。
目当てと定めた、ロシア旅順艦隊。これを追い立て、殲滅しなければならぬことくらい一兵卒の喜市郎にも分かる。
陽が、傾きかけている。おそらく、午後六時を回っているのだろう。ひょっとすると、午後七時近いのかもしれない。不思議とそんなことは分かるらしく、妙な気分になった。
この時分というのは日清戦争大勝利の空気に国家全体が満たされていて、ロシア何するものぞというような気風のもとに彼らはこの巨大な艦隊にそれぞれ乗り組んでいるわけであるが、じっさいの戦闘の場というものはこのようなものであったと後年になって喜市郎はその妻に述懐している。
このとき彼が鮮やかに記憶したのは、はじめの一発で船が一艘沈んだこと、それにロシア人が何人か何十人かは知らぬが確実に人間が乗り組んでいたこと、あとは無我夢中で砲をぶっ放すしかなかったこと、そして傾きを見せる陽の中で、ロシア太平洋艦隊、当時の彼らの呼び方で言えば旅順艦隊の旗艦ツェサレーヴィチの姿を目にしたことであった。
「でかい」
自分達が乗っている三笠の巨体のことを忘れ、喜市郎やその周囲の者は息を呑んだ。このときの距離がどれくらいであったのかは分からぬが、一万メートルを切るような距離であったろう。もしかしたら、五千メートルくらいの距離でそれを目にしたのかもしれない。
ツェサレーヴィチというのはロシア語で皇太子という意味で、水線から上部を曲線で構成することにより構造体の重量を軽減した特徴的な船体を持ち、排水量は一万三千百トン。全長百十八メートルあまりと三笠よりやや小ぶりながら、馬力は一万六千五百馬力と三笠の一万五千馬力を上回り、速力もある。
連装砲に連装速射砲、さらに単装速射砲、単装機砲、五連装回転式機砲など多数の火器で埋め尽くされており、はっきり言って連合艦隊にとっては脅威であった。
それが、黒煙を上げている。
「弾を、食らわしたんか」
誰が聞くわけでもないのにそう呟き、また固い唾で喉を鳴らした。
遠くともはっきりと見える高々とそびえる司令塔に、続けて着弾。轟音と共に爆炎と煙が上がる。日露両国の艦がひしめき合っているこの海域の中、どの艦からの砲撃なのかは分からない。
艦内で何があったのかは分からぬが、その攻撃のためにツェサレーヴィチは船首をどんどん左に曲げてゆく。それが、喜市郎の位置からはっきりと見えた。そのまま別の艦に激突し、沈黙した。三笠はこれ以上接近をして被弾したツェサレーヴィチを援護しようとする艦や激突した艦に巻き込まれることから身を遠ざけ、回頭を始める。
そこへ、連合艦隊の戦艦どもが入れ違いになり、まるで浜辺で瀕死になっている鯨を仕留めにかかるように――じっさいにその光景を喜市郎は見たことがなかったが――群がり集まってゆく。乱れた艦隊を、一息に殲滅するつもりであるらしい。なぜか、その光景を見て、喜市郎は背中に粟が立つのを感じた。
何人、死んだのか。それを数えることはできぬし、今自分が人の死を感じることすらできていないということをぼんやりとした意識の中で知るにつれ、それが恐ろしくなったのかもしれぬ。
そして、最も喜市郎を戦慄させたのは、この次に起きる出来事である。
一艘の戦艦が、ツェサレーヴィチと同じくらいの巨体を連合艦隊に向けてきたのである。おそらく、全速力。ちょうど、日没。それを背負うようにして突進してくる光景は、異様と言うほかなかった。一旦、艦隊から背を向けていた三笠の甲板から振り返って見ると、それは自分の影がずっと長く伸び、海に吸い込まれてそれが黒く肥大化して迫っているように見えた。
陽が傾きつつあることは知覚していたが、いつの間にかそれが水平線に落ちようとしている。問答無用で迫ってくるその影がどんどん黒くなってゆくのが分かった。浴びせられる、集中砲火。突進してくるそれからも応射。喜市郎は自ら担う砲を船尾の方に向け、発射した。戦艦の巨体に速射砲を放ったところで致命傷にはならぬであろうが、損傷にはなる。どうしてもその接近を許してはいけないような恐怖が急に鎌首をもたげてきて、耐えられずに何発も放った。いくらかは中ったらしいが、雨のような弾を受けてもなお鉄張りの戦艦は真っ黒になって迫ってくる。
この突進は、有効であった。船というのは運動が鈍いため、すぐに方向転換をすることはできない。艦隊戦において理想とされる位置は自らの正面に敵の横腹を捉えるイの字もしくはハの字の配置であるとされるが、このときは連合艦隊に向かって真正面から突進してきた。だから、船体側面に据えられた主砲などからは狙いにくい。そうこうしているうちに傷付いた旅順艦隊は隊形を建て直し、逃走を始めてしまった。
「敵が、逃げよるぞ」
追撃すべく再び回頭する三笠の甲板上で誰かが口々に叫んだが、あれが敵で、それを追わなければならないという感覚はもはや喜市郎からは消えうせていた。それどころか、ただ、あれが自分から遠ざかろうとしていることに安堵さえした。
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