三笠へ

 旅順と同時に奇襲攻撃を仕掛けていた仁川じんせん沖での作戦も望んだ成果は上がっていないという。結局、喜市郎は勝ったのか負けたのかよく分からぬまま、また舞鶴での暮らしに戻った。

 舞鶴での暮らしというのは単調さと刺激の織り混ざったもので、まず陸番と海番というのに分かれており、陸番の場合は朝六時のラッパと共にに起床して六時十五分に整列し、体操を行ったのち七時まで清掃、そしてそれが終わったら七時十五分までに朝餉を摂る。掃除が三十分で飯がその半分というのがなんとも軍隊らしくて喜市郎はおもしろがり、できるだけ早く、多く飯を食らう方法について工夫を凝らしたりした。

「青目の喜市郎」

 から、

「早食いの喜市郎」

 にあだ名が変わった、と冗談を言う者もあったが、それについても喜市郎はへらへらと笑っていた。

 朝食が終われば、停泊している船に乗り込む。そして持ち場の点検をし、船の上で過酷な鍛錬である。身体を鍛えるほか、ときには厳しい上官に海に放り込まれたりもして、それが着衣での泳ぎの訓練になった。そして日没ののちまた陸に戻り、夕餉を済ませて点呼、就寝。海番のときは船で寝起きをして調練のときだけ陸に上がるから、逆である。

 任官試験を通過した士官やのちの言葉で言う職業軍人──この時代では楽して飯を食らう者、というやや侮蔑的な意味で用いられていた──はずっと船の上にいたり陸の施設のおりをしたりという具合に過ごし、もう少し複雑な仕事もあるらしいが、四等水兵といういわば臨時雇いのような役割の者どもの日々というのは、概ねこのようなものであった。

 作戦など、事前に彼らが知ることはない。ただ非常ラッパが鳴れば駆け足、そうでなければ延々と毎日同じことをする、というだけのことである。

「えっ」

 と喜市郎が声を上げて驚いたのは、海軍のみならず陸軍も戦っていたことを上官からなどではなく新聞で知ったことである。彼らがちょうど旅順から引き上げたのと入れ違いの五月の頭、陸軍が朝鮮半島を経て満州を目指し、その途中にある鴨緑江という川を境に戦いを繰り広げたという見出しであった。佐々やほかの仲間が飛び付くようにして覗き込む食堂に据えられた新聞の記事を追うため、彼らの十五分しかない食事の時間はどんどん削られた。

「鴨緑江渡河作戦にて、我が国陸軍は火力をもって露国のコサック騎兵を撃退、圧倒的な戦果を挙げて進撃す」

 というような内容がつらつらと綴られているのを、誰もが固唾を呑んで黙読している。

 ちなみに、この当時というのは明治四二年に定められ、活性化する新聞紙法はまだなく、そのため新聞紙法によって特に保護された権利もなければ昭和に入ってからのような法の拡大解釈による激しい弾圧もなかった。

 讀賣や朝日といった新聞が創刊されてからまだ三十年ほどしか経っていないこの時期に彼らが目にしているものは、いわゆる自由民権運動を経て民衆のおそろしさを知った政府が定めた、発行を許可制にしてどこに住む誰がその記事を書いたのか分かるようにして違反の場合は発行差し止めや懲罰などを課すことで政府に不利な発言や犯罪の庇護や許可のない建白などを取り締まるという新聞条例という規制であった。

 それゆえ、あの海で何隻もの帝国海軍艦が沈んだことは報じぬし、鴨緑江の戦勝はロシアがもう国家ごと崩壊したかのような書き方をする。大平洋戦争の頃の虚構の報道とはまた違い、無邪気ささえある報道である。

「えっ」

 と喜市郎が思ったのは、舞鶴に戻ってきて過ごした時間の分だけ遅れてやってくるであろう戦局の報道が、旅順で敵を何隻沈め、味方が何隻やられたのかというようなことではなく、むしろ事実のある部分がそのまま無かったかのようにして鴨緑江の戦勝のことのみを持ち出し、塗り替えようとしていると感じられる点であった。

「鴨緑江でも、人死にが出てるな」

 佐々の確信めいた言葉に、喜市郎ほか新聞を覗き込む者が唸り声を上げる。

 実際、鴨緑江においてはロシア軍二万四千に対して千八百の損害、帝国陸軍においては四万八千に対して千の損害が出ていた。それを彼らは知ることはこの時点ではないのだが、報道とはこういうものだった。

「帝国陸軍、血河を渡る、か」

 これ見よがしに謳われる文句を、佐々が苦い声で読み上げる。その血の河というのはあたかもロシア軍の血で染められて出来上がったような描き方であるが、実際は互いに命を削り合って戦い、死んだ二千八百もの人の身体から流れ出た血であることをこの邪気のない新聞記事を通して察しているものらしい。


 喜市郎にとって、佐々とは妙な朋輩であった。長尾の地主の次男坊というだけあり闊達さとおおらかさを併せ持ち、いつもへらへらとしている河内者という具合のこの男は、同時に心配性であった。旅順に出ているときはいつも洋上で怖い怖いと眉を下げ、陸に戻ったら戻ったで新聞記事に味方の損害が一切載らぬことを不安がり、そうであるなら実際には多くの死人が出たはずだと声を震わせる。

「船が沈むときはな──」

 喜市郎の福々しい耳朶を、洋上の佐々の声が再び揺らす。船が沈む音が鯨の声なら、小銃で撃たれて死ぬ人間はどのような音を立てるのだろうか。

 そこで、ラッパの音。結局飯を食い損ねたという思いが喜市郎の頭の中で鳴りつつある何かしらの音を遮り、代わりに腹の虫の音に換えた。


 報道のことに触れたが、彼らが目にした記事が陸軍のことに偏っていたことには理由がある。

 陸軍と海軍の確執が、すでにこの頃あった。いや、この頃というよりももっとその根は深い。そもそも帝国陸軍というのはその創設において明治維新の際の薩摩、長州、土佐など雄藩出身の者がその中核となっており、この日露の時代においてなお盛んであり、維新の頃の志士の気風というものを我こそ受け継ぐものなりという気概に溢れる面があった。それに対して帝国海軍というのはその前身は旧幕府海軍であり、それに各藩が保有していた艦船と志願兵をくっつけたものからはじまる。

 旧幕府海軍というのは当時世界的水準にあり、明治政府の前身となる薩長土などの保有するそれとは比にならぬほど高い武力を持っていた。明治政府というのはその出現の特異性から、陸軍兵士というのは各藩のさむらいなどで賄うことができたが船乗りという専門職において旧幕府がフランスなどの力を借りて構築したそれを流用せざるを得なかった。早い話が、はじまりの時点において、その出自が別であるというわけである。この頃すでに、というような言い方をしたのは、それぞれがそれぞれの主張を掲げ、別個に思考を持って行動するというような向きのことであると解釈していただいてよいかもしれない。

 そして、大日本帝国においては、陸軍は陸軍省、海軍は海軍省とそれぞれ管轄が別であったことがさらに問題を深くする。いや、これももともとあった問題がそういう形で発現したと見るのが妥当であるが。

 陸軍省は長州出身の大村益次郎が、海軍省は川村純義と旧幕府の勝海舟が中心となって創設した。一見、ともに維新を成し遂げたように見える長州と薩摩であるが、その直前までは政治的立場の違いから互いに反吐を吹きかけたいほどに嫌い合う仲であった。そんな両者が坂本龍馬らの仲立ちのため、共通の目的と利害のために手を結んだというのが明治維新であるという背景から、それを経たのち両者がずっと手を取り合って歩んでゆくはずがないことは明白である。

 徳川幕府の頃の遺恨が、この時代においては陸軍省、海軍省という姿になってあらわれているというわけである。

 だから、旅順海戦の際には海軍は独力で作戦を完遂しようとし、朝鮮半島や満州地域一帯の要と言える陸上の拠点である旅順要塞の攻撃や海戦の支援については、

「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」

 と頑なな姿勢を示し、受け入れなかった。

 陸は陸で勝手にやれ、海だけでロシアを叩き潰す。そういう姿勢と互いの齟齬とが、今朝喜市郎らが飯の時間を犠牲にしてまで見た記事となってあらわれている。


 陸は陸、海は海。

 それならそれでよいが、そうならば、海の連中、とくに上層部というのはこれからひときわ慌てねばならないということになる。

 その衝撃が、この舞鶴で調練をしたり船の世話をしたりして待機している喜市郎らにも伝わってきた。

「バルチック艦隊、就航」

 バルチック艦隊というのは、ロシアのバルト海域に展開する主力艦隊のことで、もちろん当時の最先端の戦艦が配備された、文句無しの世界最高水準の艦隊のことである。それを、二月に開かれたこの戦いの場である極東ヴォストークにわざわざ遠く長い航路を辿って差し向けてくるという報せである。

 首脳部においてははじめから想定はしていたような向きもあるが、無論喜市郎などが知るはずもない。世界最強の艦隊がやってくる、というので、舞鶴鎮守府で待機する連合艦隊の一部はたいそう沸き立ち、また狼狽もした。

 強敵が来るというなら、それに備えた作戦というものが発令される。バルチック艦隊が到着するまでに、旅順の制海権を握ったまま木のに身を隠す虫のように旅順港から出てこない旅順艦隊を撃破し、応戦が可能な状態にするべきだということで決し、戦艦四、装甲巡洋艦四、防護巡洋艦十、駆逐艦十八、そして多くの水雷艇からなる連合艦隊が黄海に向けて発した。

 喜市郎はまた、海に出ることとなる。


 このとき、彼に配置換えがあった。それまで今から名を調べるのが困難なほど小さな、おそらく駆逐艦隊のうちのどれかであろう船付きの四等水兵であった彼の所属する隊が、舞鶴港を本籍とするある艦船付きとなったのだ。

 出航前にその配置についての告知を受けた喜市郎は、狂喜した。

 第一艦隊第一戦隊に所属するその艦名は、三笠。伊地知彦次郎大佐が館長を務める、花形である。

 彼は、とにかく狂喜した。当時の三笠といえば憧れの的であるから、それに乗り組めるということはほんとうに名誉なことであると考えたのだ。

 彼は、この戦いの間、この船に乗り組み続けることになる。

 そして、この甲板の上で、鯨の啼く声を聴くのだ。

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