旅順口攻撃
明治三十七年二月八日、佐世保から出航した主力と舞鶴から出航した補助隊からなる連合艦隊は第一から第五まで編成した駆逐艦隊のうち、第一、第二、第三艦隊を朝鮮半島におけるロシア軍の拠点となっている旅順港へと繰り出した。その入り口という意味で、旅順口攻撃作戦と記録される。
そのとき喜市郎は海には出たものの駆逐艦隊には乗り組んでおらず、補助隊の巡洋艦の上で夕焼けの空に滑り出してゆくそれらを見送るのみであった。
「いよいよやな」
ひととおり見送ったあと、喜市郎の傍らにある者が声をかけてきた。自分は洋上待機であるとはいえ、やはり緊張しているのかもしれない。
「さっきまで明るかったんが赤くなったと思ったら、真っ暗や。今、何時なんやろ」
喜市郎も、答えてやった。
「お前、安東喜市郎やろ。青目の」
「それが、なんや」
喜市郎は、灯火に揺れる闇の中で少し身構えた。青い目のことを言われることについての身構えをするのが、癖になってしまっているらしい。
「えらい気張ってる奴がいるて聞いてな」
それが、青目の喜市郎。声をかけてきた男に他意はないようであったから喜市郎は気構えを解き、少し頬に皺を寄せてみせた。
「俺は、
「よろしくな、佐々君」
「武ちゃん、でええ。地元の連中は皆そう呼びよる」
舞鶴でなんとなく顔は見たことがあるが言葉を交わすのははじめてというこの男をいきなり親しげにそう呼ぶのは憚られたが、陸の上にあって目のことをとやかく言うような連中の相手をするよりはましだと思い、喜市郎は佐々が求めるままに呼んだ。
「武ちゃんは、どこの出ぇや」
「俺か。俺はな、長尾(現在の枚方市)や」
「長尾か。聞いたことはある。ええとこなんか?」
「古臭いだけのとこや。せやけど、さいきん関西鉄道の駅もできたし、電話もある。便利はようなった。喜市っちゃんは?」
佐々の言葉はなるほど河内者らしくひょうきんな弾みがあり、きいっちゃん、と喜市郎を呼ぶのにも自然さがあった。
「京都や。御所の近所」
「うわ、出たで。人にええとこなんか、て聞いといて、自分はごっついええとこの出ぇやんか。京モンは酢かけても食えへんとはよう言うたな」
そう言って笑う佐々のことが、喜市郎はなんとなく好きになった。
「まあ、おんなじ四等同士や。仲良う気張ろや」
「おう」
喜市郎が八重歯を見せると、佐々の顔は逆に曇った。
「なんや」
「いや、よう笑ろてられるなと思って」
佐々は、溜め息をひとつ緩やかに上下する闇に流した。
流して、やがて、怖くないんか、と再び口を開いた。
「怖い?そら怖い言うたら怖いけど」
「ロシアと戦って、勝てるんかな」
「大砲当てたら、勝てるやろ」
佐々が吹き出した。喜市郎のこういう性格というのは上官にも愛されるところではあるが、それが佐々の里を離れて日本海の上に漂う孤独と世界的大国であるロシアとの交戦についての不安とを和らげたものらしく、さきほどまでとは違う笑みをもたらした。
その眼が、遠く駆逐艦隊の消えた先の夜をじっと追っている。
ロシアの極東地域における重要な拠点となるこの旅順港の攻略の成否が、今後の作戦の進行に直結してくる。冬場でも使用できる港で、朝鮮半島や日本近隣地域における活動には無くてはならぬものである。しかし地形的な特性により港の入り口は浅く、そこを塞がれてしまえば船を出すことも入れることもできぬようになる。
駆逐艦隊はそのまま進んで目標とする旅順港外にて敵影を発見。そのため灯火を消して航行したために衝突事故を起こしてしまうが、それでも進行して接近、十キロメートルの距離から魚雷攻撃を行う。それが三隻のロシア艦に命中し、駆逐艦隊は意気軒昂と引き上げる。
さらに夜が明けてから再度第二次攻撃を仕掛けるも、荒天により期待された戦果は上がらず。それでもロシア艦にまた損害を与えることができ、船の上は沸いた。
「ロシアをやっつけたんや。ほらな、武ちゃん。なんも怖いことないやんか」
喜市郎は単純にそう言って喜んだ。
「勝って兜の緒を締めよ、と言う。慎め」
上官の怒鳴り声がしたので慌てて二人は持ち場に戻ったが、喜市郎の目には佐々の浮かびきれない横顔がいつまでも残っていた。
連合艦隊はさらに第三次攻撃として旅順港の入港部に戦艦を突入させて自沈させるという荒業に乗り出したが、それはさすがにロシア側の猛攻によって不十分な結果となって終わったが、洋上の喜市郎のもとには士気の高揚のためにもたらされる誇大化された戦果の下達のみであったから、その度に喜んだ。
そして洋上で一月を過ごした頃、なお浮かない顔をする佐々に、喜市郎はまた話しかけた。寝台も別、寝室も別、持ち場も別であるから、気易い仲間と言葉を交わすというのは洋上の二人にとってこの上ない娯楽になっていたらしい。
「まだそんな顔してんのか。心配性やな、武ちゃんは」
「いや――」
「勝ってる。実際、勝ってるんや。そんな浮かない顔してたら、お前だけほんまに沈んでまうで」
「勝っとるとは言うても、いつまで続くんや」
「やり返されるんか?」
喜市郎は、素直である。佐々がそう言うと、そういうことがあるのか、と急に心配になってきた。
「いや、分からん。せやけどな、喜市っちゃん。俺はな、ずっと怖いんや。こんなばかでかい船が何隻も寄り合って水雷をぶつけ合ったり、あほみたいに大きい口した大砲が陸から射かけられたりするようなことがほんまにあるとは、未だに信じられん」
「何言うてんのや――」
喜市郎が馬鹿なのではない。むしろ、佐々の価値観の方がこの当時の、ましてや実際に日本海の上にいる人のそれと異なる位相に存在すると言った方が適切である。
顔を合わせる度に、喜市郎は佐々を励ますようになった。佐々もふだんは河内者らしく明るく振る舞っているようだが、喜市郎の前では心のうちの不安を吐き出すことが習慣になったらしい。
三月十日、二十二日、二十七日、四月七日と攻撃は続くも、目立った戦果はない。しかし、やはり同じように洋上には誇大化された報せばかりがもたらされる。
「やっぱり、おかしいと思わんか、喜市っちゃん」
佐々が、いよいよ眉を暗くして声をかけてきた。彼が言うのは、これほどまでに重ねて攻撃を仕掛けておきながら、まだ旅順港は落ちないのは変ではないかということである。さらにそのあと四月十四日にも攻撃を仕掛けたが、それはロシアが帝国海軍に恐れをなして応戦せず戦果なし、というようなものであった。
「おかしい。何を待っとるんや」
そう言う佐々をなだめる喜市郎も、不安は大きくなってきている。これはこの二人の間のことではなく、なんとなく洋上にあっても何かがおかしいのではないかと考える者がこの頃になると現れはじめていた。
そして五月になると、喜市郎らが乗り組む舞鶴から出航した補助隊は撤退することになる。ただ海の上に浮かんで過ごすだけで、戦いは終わったのだ。なんだか拍子抜けするような思いもあるが、佐々があれほど不安がっている姿を見ていたものだから、安堵の思いが強かった。
舞鶴に戻り、揺れない陸に上がってふわふわする足をどうにかしようと足掻いているとき、荷を負った佐々がみじかく声をかけてきた。
「やられたそうや。敵の機雷で。宮古も、吉野も、龍田も、大島も、暁も」
ここに挙げた軍艦の中には味方同士の事故によって沈没したものもあったが、喜市郎の表情はこれまでにないものになった。
「ロシアをやっつけるんとちゃうんか――」
「そらそうや。向こうも死にもの狂いや。こっちもやられることもある」
「武ちゃんは、これを怖がってたんか」
「分からん。自分でも、分からんのや。俺が、何を怖がっとるんか」
「まあ、陸に戻ってきたんや。どうもない」
「知ってるか、喜市っちゃん」
このあと佐々がこぼした言葉は、喜市郎が忘れられぬものになった。
「船が沈むときはな、鯨が啼くみたいな音がするらしいで」
振り返ったままの喜市郎の視界には、佐々が負う荷越しに舞鶴の海が黄色く浮かんでいる。その黄色が彼の目の青に混ざり、これまでにない色に染めている。
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