第一章 雲は北へ

安東喜市郎

 誰から得た知識かは分からぬが、そもそも鯨の啼き声がどのようなものであるのかを知っていたということは、安東喜市郎あんどうきいちろうはおそらく紀州かその辺りの出の者から、鯨というのは啼くものであり、それがどのようなものであるのかという知識を得たのだろう。どちらにしろ、内陸の京都盆地で育った喜市郎にはそれが生きて泳いでいるさまなど見る機会があったはずもない。その彼が、鯨が、鯨が、と言うようになったのは、日露戦争、当時の彼らの呼称に沿うなら明治三十七八年戦役から戻ったあとのことである。


 すなわち、明治十一年生まれの彼が召集に応じたこの明治三十七年二月の時点では彼はまだ鯨のことを知らぬ。その青い目には、舞鶴の冬の薄濁った空から降る雪だけが映っていた。

 先にも触れたが、彼はその目の青さのために幼い頃はずいぶんいじめられたりもした。近所の子に異人などと言って石を投げつけられるくらいならまだいいとして、親戚などに会ったときにそれがひっそりと、

「お前の目が青いのは、お前の母親が異人とひそかに通じたためだ」

 と耳打ちしたりするのには閉口した。

 もう文明開化を迎えてから時間が経ったとはいえ、彼が生まれ、育ち、青春を過ごした時期における日本のもっぱらの運営方針は西欧列強や清国を凌駕する軍事力と経済力を手にして国際国家ネイションステートとしての発言力を高めるということであり、なおかつまだ尊王攘夷の頃の激烈な思想の持ち主がなお健在で国家や社会や、あるいは家庭の上座にいるような時代だったから、異人という言葉にはやはり侮蔑の意味を含むことがほとんどであったのだろう。折りしも、富国強兵策も盛んな頃で、国民全体に外国何するものぞという勝ち気な雰囲気がある頃である。


 異人ではないのに。目が青くとも、流れる血は赤なのに。そういう思いが、喜市郎にあったかどうか。そう想像するのは、喜市郎という人間が当時の気風とは少し違う形をしているように思えるからだ。

 彼は、強くあろうとした。武道を修め、身体を鍛え、誰に何を言われようとも己の二本足で立つことができるようにと努めた。彼自身、のちにそれは己の弱さを克服するため、なにか手段はないかと必死になっていただけであると述懐していたが、しかし彼が武道を修め、腕を上げてゆくにつれ近所の者も親戚も彼に対して彼が異人の子であるとかは言わぬようになったが、やはり内心どう思っているかということについては従前と変わりなかったという。

 彼が帝国海軍四等水兵になったときにたいそう喜んだのは、その延長線上のことなのであろう。

「船に乗れる、船に乗れる」

 そう父母や兄――当時、家督相続予定の長男は兵役を免除された――に言い、京都盆地を旅立ってこの三年前に開庁したばかりの舞鶴鎮守府に向かった。

 平時から軍人として暮らしていたわけではない彼に召集が来たということは、明治三十七年二月の日本は平時ではなかったということである。


 その前年から、日本とロシアは朝鮮半島や満州地域の利権についての折衝を行っていた。日本が朝鮮半島を、ロシアが満州を保持するという満韓交換論を持ち上げたりしていたが、朝鮮半島の利権がすでに増大していたロシア側により半ば拒絶され、その代わりに北緯三九度を境に中立地帯を設け、それより北では日本は軍事的活動、利用をせぬようにという要求を投げかけてきた。日本側としてはそれではロシアに有利すぎるとして反発が起こり、その実行を待たずして戦いを仕掛けてしまえという論が優勢となった。

 年が明けて二月になると六日に国交断絶を日本側から言い渡し、その二日後には連合艦隊司令長官である東郷平八郎を筆頭としたロシア帝国海軍第一太平洋艦隊に対して攻撃を始めた。

 余談ではあるが東郷平八郎というのは幕末の薩摩の生まれで、まだ十代の頃に水兵として春日丸という軍艦に乗り込んで旧幕府海軍と戦った、この時代で言う「戊辰以来の英傑」であった。当時まだ彼も若かったから艦隊を指揮したりはせず砲にへばりついているだけの水兵であったが、戊辰戦争のうち幾度か繰り広げられたある戦いで、当時世界的水準にあった旧幕府海軍の船の戦闘力に春日丸が海上で口を閉ざしていたとき、彼が担当する砲たった一門だけが旧幕府海軍の船を狙える位置にあり、その弾が見事命中して春日丸は苦境から脱することができたという逸話があったりする。

 そういう者が、この時代の軍部には山ほどいた。彼ら戊辰以来の英傑達はその時代を知らぬ者とは別格であるとされ、同時にあの激烈な時代をくぐり抜けてきたことによる並ならぬ胆力と戦闘指揮者としての能力、そして実戦経験による作戦力があった。

 その帝国海軍がロシア側を攻撃したことにより十日に両国は互いに宣戦布告をし――当時の国際法では攻撃前に宣戦布告をしなければならないという規定がなかった――、その結果喜市郎のもとにも召集が届くことになったわけである。


 ともかく、喜市郎は喜んだ。船に乗り、憎たらしいロシアをやっつければ、人はもう自分を異人とか西人(西洋人という意味)とか言わぬようになるだろう、と思った。このとき、彼は二十六歳。生家は何か稼業をしていたというが、それは彼の兄が継いでいたことであろうし、彼がそれまで何をしていたのかは分からない。おそらく、次男坊としてある程度気ままに暮らしていたのだろう。

 その彼は、戦役から戻ったあと、変わった。

「戦争に行く前はね、ちょっと大人しいけど芯のしっかりとした、明るい人やったんよ。舞鶴に行くいうときもえらい喜んで。船で戦ってロシアを懲らしめたる、言うて。それが戻らはってからは、ぐっと何かを辛抱するような顔をときどきしはるようになって。たまに、鯨が、鯨が、てよう分からんことも言わはるようになったわ。うちも戦争の話なんか怖ぁてよう聞かんやろ。それでも、ええ人であることに違いはないし。仕様がないやろ、傷つかはったんや。どうしようもないくらい」

 のちに彼と結婚することになる女性は、はるか後になってからこの時期の彼のことを思い返し、このように語る。そして、

「それでも、辛い思いしても生きて戻らはったんやし、立派やわ」

 と戦争の勝利ではなく彼の生還を最も喜んでいたことが印象的であった。


 当時、まだ新兵に教育を施す下部組織である海兵団はない。それゆえ、喜市郎は京都から直接舞鶴にゆき、そのまま薫陶を授かって四等水兵となり、調練の日々に入った。よく父母が恋しくなって夜眠れぬようになる者がいるとかいう話を聞くが、そのようなことはなかった。二十六歳という年齢のせいもあろうが、それ以前にこの従軍経験によって、より晴れやかな生を過ごすことができるのだという期待の方が大きかったのだろう。

 彼の妻になる女性は、辰子たつこさん、という。旅立つときにも、

「辰子さん。ちょっと船乗りに舞鶴行ってくる。ロシアをやっつけたら、すぐ帰るわ。待てるか?」

 というようなことを言い、笑っていたという。待てるか、と問うあたり彼の人柄がよくあらわれているように思い、辰子は思わず同じ調子で笑い、

「船と一緒に沈んだら、あかへんえ」

 と答えたという。

「あほなこと言いな。そうなったら、日本海泳いで帰ってくるわ。水練や水練」

 そんな調子だから、罵詈雑言が飛び交い、樫でできた棒で打たれるような海軍特有のシゴキと通称される仕打ちにも動じず、打たれるたびに、

「ありがとうございます!」

 と威勢良く声を発することができた。

 上官からも貴様は気骨がある、よろしく国家のために励むようにと声をかけられたりもしたらしい。

 むしろ、軍の方が彼にとっては居心地がよかった。目の青さを上官に揶揄されても、

「ロシア人をやっつけることばっかり考えてたら、気ぃついたらこんな目になってました」

 と真顔の大声で答えたりして思わず上官が吹き出してしまうほどで、舞鶴にあって彼の目の色のことをとやかく言う者はいなかった。むしろ、身体頑健で上背もあり、厳しい仕打ちにも音を上げずにいつも真面目に、ときにへらへらとしている喜市郎を舞鶴は愛した。


 そして、はじめの出艦命令。

 衝突を避けて旅順港に展開するロシア軍を、その港湾入口を旧船舶を沈没させて塞ぐことをもってして運動の自由を阻害する。

 連合艦隊、水進。舞鶴に来て生まれてはじめて海を見た喜市郎も、生まれてはじめて軍艦に乗り込んで舞鶴港を出た。

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