鯨の啼く海

増黒 豊

「ほんまはな、知らん方がええねや。知らんと生きていけるなら、そんなにええことはない。ええか、それはよう覚えとけ」

 祖父の目は、どういうわけか青い。それがぎょろぎょろと動き、酒の入った小さな器を静かに置き、幼い私が嫌いだった液体の臭いが満ちた息をひとつ吐いた。だが、幼い私にとって無骨で無口で無表情な祖父がたまにこうして何かを話してくれるということはまたとない機会であったから、その膝の上から移動してその臭いから逃れようとは思わなかった。

 いつもは大抵、他愛もない話であるのだが、このときは、なぜかこんな話になった。

「船乗ってたん?船乗って、戦ってたん?」

「そや。敵の船が来たらな、船の上の機銃やら大砲を撃つねや。バンバンバン言うてな、耳おかしなるか思うほど大きな音でな。そら怖いで。機銃の音も、大砲の音も」

 その声の色には自らの武勇伝を語るような響きはなく、むしろ、幼い私を怖がらせようとするような意地悪なものがあった。

「何人も死んだ。兄弟も、同い年の友達も、家に赤ん坊残して来た人も、病気の親がいる人も」

「爺ちゃんは、死なへんかったな。よかったな」

「そや」

 祖父は、このくらいの時点で、明らかにこの話題を持ち出したことを後悔しているようだった。だが、幼い私は、純真無垢な眼差しをもって容赦なく祖父を何十年も前の船の甲板に縛り付けた。

「なんで、死なんで済んだん?」

 今の私なら、絶対に訊かない質問である。だが、幼かったのだから、仕様がない。

「――なんでやろな。神さんが守ってくれはったんか、運が良かったんか。なんでなんやろな」

「爺ちゃんが、強かったから?」

 子供の価値観など、所詮そんなものだろう。だが、そのときの祖父の青い目に戸惑いの光が一瞬よぎったことを、今でも記憶している。

「それは、ちゃう」

「でも、そのときは日本は勝ったんやろ?」

「勝ったんかどうか、わしには分からん。それを決めることは、誰にもできひん。ほんで、結局今は負けたやろ」

 少し、言葉を切った。またあの臭い液体の臭いのする息を吐くのかと思って身構えたが、いつまでたってもそれは来なかった。

「もう、寝ぇ。お父に、怒られんで」

 代わりに、全く別の言葉が来た。私は、拍子抜けする思いであった。しかし、明日になるとラヂオの放送がまた聴けると思うと楽しみでもあり、祖父の言うことに従うことにした。


 祖父は、結局、それ以来、一度もそのときのことを語ることはなかった。だから、私は、独力でそのことについて色々な調査をし、祖父があの臭い液体の臭いと共に吐いた言葉と、その目に映していたものを知ろうとした。


 祖父は、その目の青さのために、幼い頃などは異人の子などといじめられたりもしたらしい。

 それに負けたくなくて武道をしたり身体を鍛えたりすることに専心していたという話を聞いたことがあったから、年齢と共にわずかに白く濁りつつあったその目が三十を幾つも回った今の私よりもずっと明るい輝きを持っていたであろう歳の頃に海の青を映していたのも、もしかしたらそれと関係があるのかもしれない。それは、たいした問題ではないが。


「ほんまはな、知らん方がええねや。知らんと生きていけるなら、そんなにええことはない。ええか、それはよう覚えとけ」

 祖父がそう言ったのは我が国が大東亜戦争、いや、太平洋戦争の敗北を受け、そこから立ち直る兆しが僅かに見えつつあったころであり、今はほんの二、三十年前にそのようなことがあったとは思えぬほどの回復を見せ、それどころか目覚ましい発展の軌道敷にその車輪を載せ、それがこの先も続いてゆくのは紛れもないこととなっている。我が国がこれほどまでに早くこのようなものになるとはGHQも当時思わなかったであろうが、大人になって様々なことを知った今、祖父の言葉の意味がよく分かる。


 痛みを忘れた人はまたあらたに痛む。痛みを知らぬ人は、そこに痛みがあると思わず荊を踏む。自らの血をそのとき目にせぬ限り、それを人が知ることはないのだろうか。

 願わくばこの痛みが痛みとして深く人に刻まれるべく、これを記す。

 祖父がそんなだから、もっぱらあの海、あの戦いのことについて触れることになろう。

 少なくとも、あの海には今の我々が感じているのと同じ種類の痛みがたしかにあったのだ。

 私は太平洋戦争には無論出てなどいない。それをするには幼すぎた。しかし、祖父が語りきらなかった痛みがたしかにあり、それにもかかわらず我が国はまた戦いをした。

 痛み。そこから眼を逸らすことは、私にはできぬのだ。乗り越えてゆくのと忘れるために眼を背けるのとは、違うと思うからだ。

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