第3話

 糸助はその場で一休みすることにした。あの男にあてられたとは大げさだが、この陽気には似合わない冷たさや、夜のような暗さを感じた根拠がなんなのか探り当てたいところではある。

 もう四年も前になるだろうか、夏の盛り、ちょうどこの坂を上っていた時のことだ。まぶしくて目を細めながら車を引いていた。太陽が頭の真上で光っていたが、気力は充実していた。暑さが理由とはいえ、人っ子一人いない通りを進み坂に差し掛かると前を一頭の牛が歩いている。そんなことはあるはずがないのに、思い出すときはいつも周りに誰もいない、そして音もない。あるのはただ自分と牛だけだ。いや、確かに誰もいなかった。牛が目に入る少し前から、誰一人いない通りを薄気味悪く感じていたのは間違いない。畑から逃げてきたにしてもどれだけ歩いてきたことやら、もうだいぶ歳を取っているようだ。犂でも轢いているかのような足取りはほとんど哀れと言ってよかった。糸助はなぜか申し訳ない気持ちがこみ上げてきた。人間の身勝手さに怒りすら覚えた。休め休め、そうつぶやきながら糸助は牛の後ろを見つめていた。牛は糸助の声が聞こえでもしたように脚を折ろうとしていた。いったん牛が動かなくなったらてこでも動かない。しかしそれでいいのだ、人間の言うことなんて聞くんじゃない、休め休めと糸助は歌でも歌うように言った。牛の脚は、見えない刀で切りつけられたかのように崩れた。あっ、と思った時には三本の脚でこらえようとし、体勢が乱れ、何者かと取っ組み合いでも始めたように転げて坂から堀に落っこちていった。糸助はその時の牛の目が忘れられない。目が合ったのだ。その目は、怒りと祈りと、悲しさとあきらめと、他に何が混ざっていただろうか? 牛の表情は、ほとんど人間と言ってよかった。小さな頃から今日までの間に、あんな顔をした誰かに会ったような気がする。あるいはこれから先、五年後、十年後、それとも明日、あんな表情をした誰かにどこかでふと出会ってしまう日がくるのではないか。

 さっきの男はそうではなかった。

 そういえば、俺は堀に落ちた音を思い出せない。いや、思い出すというのは実に難しいことだ。煙よりももっと確かでないものだ。

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