第2話
男は目が合うと丁寧に頭を下げた。表情に厳しいところはなく、自然と気を許してしまう。
「そんなにかしこまらんでくれよ、どこまで行くんだ?」
「私は目黒まで」
「それは大変だな。仕事で引いてるんじゃないだろ?」
「いいえ、仕事でございます」
この男への興味から自然と問い詰めるようになってしまったことに糸助は気付いた。そもそも同業なら知らないはずはないと思っていたのが間違いで、最近は特に人が増え続けている。それだから仕事も増えているのだと納得することにした。しかしこれだけ目立つ男なら噂の一つや二つも届きそうなものではあるのだが…。
「あんたみたいのが車を引いてたら目立ってしょうがないだろ、今日が初仕事かい?」
「いいえ、実は申せば夜の仕事が多いのです。昼間はあんまり、…寝てばかりで」
「夜っておまえさん」糸助はそれ以上は何も言わなかった。すでにこの男が油断ならないと感じていた。気をつけなければ足元をすくわれかねない。「そうかい。忙しいところ邪魔してすまん。悪かったな」
「いいえ、いいえ。旦那の名前は知れ渡っていますから。一目でそれとわかりましたよ。今日はどちらまで?」
「冗談はよせ。俺はすぐそこだ。近いところばかりだ。今日は暖かいからゆっくりやるさ」
「それでは…またお会いすることもあるでしょう」そう言って男は再び丁寧に頭を下げると坂を下って行った。糸助はその後ろ姿からすぐ目をそらした。振り向かれるのが嫌だったのだ。またすれ違うこともありそうだ。悪い男ではなさそうだが、ちょっとまともじゃないかもしれない。糸助は己の度胸の無さを自覚して時には恥じていた。体格や人相に心が伴っていないことは若い頃よく悩んだものであった。今となってはどうでもいいことと思えるのだが、こんな穏やかな日にふとさまざまなことが心に甦ってくることもある。楽しかったことよりも、失敗や苦しいことの方が鮮やかなのはなんとむごいことだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます