夜を研ぐ

上高田志郎

第1話

 九段の坂下から空を見上げてみれば、ちぎれ雲は川に浮かべた葉のように流れていった。その後を追って次から次へと雲が青空を流れていく。冬が終わってようやくやわらかくなった空を見上げているのは糸助だけではなかった。坂に座って先を急ぐでもなく皆がおだやかに陽の光を浴びて風にそよいでいる。まるで人々が草木のようであった。いつもなら糸助が坂にさしかかれば頼みもしないのに勝手に車を押しにくる連中も笑顔で手を振り、ある者は居眠りをしていた。天気のせいだけではない。今日の糸助の荷を見れば、助けがいらないのは明らかだった。糸助は力自慢だったからめったなことでは押しを頼まない。だいたいいつも機嫌が悪かった。まとわりつく連中には暴れ馬の後ろ脚のごとく言葉を浴びせて車に手を触れさせなかった。単純な男で機嫌の良さが顔に出る。押しを頼む時は荷物が重い時ではなくふところがあったかくなった時だった。そういう時は手伝わせてやって景気よく金を払っていた。糸助のふところがあったかくなる訳は謎だったが、押しの連中が訊いても余計なことをと怒鳴られて終わりだった。

 糸助は誰が見てもたくましい男でそこらの男とは体の厚みが違った。背は高く、腕も足も力瘤が鈴なりに見えた。以前、走ってきた男が立ち止まっている糸助にぶつかって悲鳴を上げて気を失ったことがある。仕事はとにかく評判がよかった。遅れたことも荷をだめにしたこともない。金には綺麗だったから、冗談でも値切るようなことを言わない方がいい。いっさい口をきかずに背中を向けておしまいである。頼む方は困り果てて勝手に値段を釣り上げるのだ。

 糸助は身分も後ろ盾もないが、恥ずかしくない己の仕事で立派に生計を立てていた。同じような生まれで食うもの着るもの住む所に困っている奴は大勢いる。糸助より上等な生まれでも困窮しているのも大勢いる。しかし糸助は困ることなく暮らしていた。何と言っても質素な男で、酒も女も賭け事にも手を出さなかった。仲の良い友人も作ることなく、人々はいったいどこに金をためているのか不審に思っていた。

 坂のてっぺんまで来て振り返ると、いつもより人々が行きかっている。春になっていそいそと顔を出すのは人間もいっしょだと道端の蟻を見ながら糸助は思った。その中に、糸助と同じように車を引いてくる者がいる。見るからに華奢な男が涼しげに苦もなく坂を上がってきた。顔つきは晴れやかで肌の色もよく、目の輝きは話さなくても利発なことが分かる。着ている物に思わずため息が出た。たった今染め上げてきたような鉄紺は冬の浅草川を思い出して寒気すらしそうだった。

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