首元の蟲
「失礼します」
「――はぁ!?」
言葉の通り、そこにはメイドが失礼してきていた。しっかり言うと、バスタオルを体に巻いたメイドが浴室に入ってきていた。髪を上にまとめているせいでいつものチャームポイントであるツインテールが失われているが、またそれはそれで――じゃなくて。
「ちょっと!? メイドさん?」
「たまにはお背中をお流ししようかと。ご迷惑でしょうか?」
いや迷惑というか恥ずかしいというか恥ずかしくないのか、っていうか突然のことで驚いたというか。
とにかく俺の心臓は今世紀一の速度で脈を打っていた。もちろん俺の顔は彼女の反対の方向へ。直視できたのはほんの一瞬だった。
「なんだか……今日はお疲れみたいでしたので。ずっと考えこんでいらっしゃいましたよね?」
「……まぁ、いろいろと」
あなたのおかげで考えていた内容なんて一瞬で爆散しましたが。……というか、本当に背中を?
「そうですか。圭人様のことです。きっと私にはわからないすごいことをお考えなのでしょうね」
「いや、そんなこと――っ!」
妙なことを言うメイドに照れ半分恥ずかし半分だった俺。その肩のそばに彼女は体を寄せて、壁際のボディタオルを取った。……もう少し距離を、できればそのフローラルとかフレグランスみたいな匂いが届かないくらいには離れてもらいたい。そうしてもらわないと、いろいろと大変なのだが。
「それじゃあ、さっそく……」
そう小さく呟くと、彼女はタオルで俺の背中をこすり始めた。思ったより強い力に驚くが、その力加減は絶妙で、くすぐったいながらとても心地がいい。……まぁ、そのすべてがかき消されるほど心臓バックバクなわけだが。
時々首筋に感じる吐息と、後ろから聞こえる「んっ……」みたいな声が身悶えするほど居心地悪い。というかこの背徳感は何だ。ちょっとくせになりそうじゃねぇか。……落ち着け。
しかし、こうやってただ背中を流してもらうのは初めてだ。後ろにあの格好でメイドがいるのだ、ということさえ意識しなければきっと心地良いに違いない。
そうやって、ただタオルがこすれる音だけがしばらく浴室に響いた。
「あー、せっかくなんだが、もういいよ。ありがとう」
「もうよろしいのですか? 前の方はまだなのですが……」
「ばっ、お、何言って――!」
「ふふふっ、圭人様はリアクションがかわいいですね。普段の態度からは全く想像できませんよ」
彼女が、実に楽しそうに笑っている姿は容易に想像できた。本当に、このメイドは……。というか、日本の技術力はすごいな。その技術をもう少し違うところに使ってほしかったという感想はあるものの、そのレベルの高さには感動すら覚える。
「……うるせ」
しかし、この彼女が憎たらしいのは変わらないわけで。俺はそんな悪態を一言吐いた。
「……あぁ、出るわ。お前も浴びるだろ」
「お気遣いありがとうございます。はい、これをどうぞ」
俺はメイドからタオルを受け取って、彼女と場所を入れ替わる。その一瞬、俺は彼女の首元に目を奪われてしまった。
彼女が作り物であるということを再認識させられるような、真っ白いうなじ。そこまでは見たことがあった。しかし、そこから下にいった首元から肩までの肌を見たのは初めてだ。だから、俺がそれに気づいたのはこの時だった。
「どうか、しましたか?」
「いや、それは……」
言葉を濁して尋ねるのは、メイドの首元から左肩全体へ広がる黒い斑点たち。いや、正確に言えばそれは斑点ではない。一つ一つが花のような、見方によっては機械の歯車のような、そのような一センチほどの模様がたくさん彼女の肌には貼りついている。
その不気味な模様の集合に、肌が粟立つのを俺は感じた。美しい白の肌を、その模様に汚されたように感じ、不快さえ俺は覚えた。
「あぁ、これですね……。わたしにもこれが何なのかはわかりません。いつのまにか、ここにあったのです」
「そうか……」
返す言葉もなく、俺はそのまま風呂場を出た。
あの模様の数は、優に百を超えていた。花、歯車などと表現を婉曲にしたが、今思えば、最も適切なたとえが一つあった。
虫。
黒く小さな虫が、彼女の肌には這っているようであった。その様子を脳裏に浮かべると、彼女の体中をその虫が悍ましく這いまわり、その肌を食い千切る様子さえ想像された。それでも尚俺に笑いかける彼女の表情が、あまりにも不釣り合いすぎて、俺はその時恐怖を全身で感じた。
わずかに、俺の腕は震えていた。強い心理的な衝撃はその体に強い影響を与える。恐怖に対する震えは、あたりまえに存在する一つの現象だ。
だが、俺にはそうと感じられなかった。むしろ、そうと信じたいとさえ思った。
その右腕の付け根あたり。肩骨から少し下へいったところ。
その模様は、三匹、いた。覚えず、乾いた笑いがフヒッと鼻から出た。
その日の夜、相変わらず床で寝た俺は、夜も深くに声を聴いた。優しくて、耳の奥を溶かされてしまうような、甘い声。
その声は、俺の名前を呼んでいた。多分、一回ではなく、何度も俺の名を呼んでいた。
ぺろりと、俺の頬が舐められた気がした。
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