非科学的な確信

 あの日、俺はそのまま家に帰り、気絶するようにして眠りこけた。夕方、メイドが何か声をかけてくれたような気がするが、それに応じた記憶はない。


 またその次の日、日曜日、俺はあの事件現場に赴いた。すでにその場の鉄骨は片付けられており、そこであんなことがあったということはもう、遠目からだとわからなくなっていた。しかし少し近づくと、歩道の端にひそやかな花束が、何束か手向けられているのを見ることができた。


 自分の目の前で、人の命が散った。いわゆる、死ぬ、というイベントが発生した。その当事者がどんな人物なのかさえ俺は知らないが、この事実はひどく、俺の心に衝撃を与えたようだ。


 花束が集まる場所に跪いて、ただ泣き崩れる女性がいた。


「あの時の……」


 ふと零れたその言葉。それが何を、何時を指しているのか、俺には理解できなかった。できないはずだった。

 家に帰って、俺はまた眠った。


 そして日をまたぎ、今に至る。

 家を出てから約五時間が経って、今はちょうど四時間目の授業前。


「喉乾いた……」


 本来であれば、俺の休み時間の過ごし方は自席での寝たふりと決まっているのだが、こういう時は例外だ。のろのろと教室を出て、俺は廊下を歩いた。

 休み時間の廊下はリア充どもの巣窟だ。彼らの間を縫うようにして歩いていくと、自販機へはすぐだった。


 五百円玉を投入して、甘いコーヒーのボタンへ手を伸ばす。


「じゃあわたしは紅茶でいいよ」


 と、その声に促され、俺の指は紅茶の下へ……って。


「あっ、ちょ……」


「サンキュー♪」


 後ろから聞こえた声の主は、俺のわきをするりと通り抜けて取り出し口からペットボトルを取り出す。

 ジト目でそれを見つめていた俺に、彼女は振り向くとふふっ、と笑った。


「矢代か……」


「うん、お疲れ様、圭人君」


 長いポニーテールを揺らして立ち上がった彼女は、ぱんぱんとスカートを払う。その間に俺は、さっき買うはずだったコーヒーを購入してから早速一口つけた。


「……何か用か?」


 その場で紅茶を楽しんでいらっしゃる少女、矢代遥へ俺は問いかける。


「あ、そうそう。圭人君さ、土曜日駅前あたりにいたでしょ?」


「え、あぁ」


「――かわいい女の子を連れて、ね」


 矢代のかわいらしい顔に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。

 ……ちょっと待った。嫌な予感しかしない。


「いや、あれは……」


「この色男めー、どこであんなかわいい娘を手に入れたのかな~?」


 こちらに一歩近づいてきた彼女は体を寄せると、俺に胸に人差し指を突き立てた。って痛い痛い近い近い近い顔ちっちゃいなこいつ。

 ……落ち着け、俺。俺はそうやって自分に言い聞かせて、矢代をやんわりと引き離した。


 土曜日俺がメイドと街に出ていたことを知っている、ということは、彼女もあの日あの近辺にいたのだろう。まぁここらで遊ぶとなればあの駅前ぐらいいしかない。別に矢代があの場に居たとておかしくはないはずだ。

 ……って、ということは……。


「……駅前にいた、ってことは」


 俺がそこで口ごもると、矢代は少し伏し目がちになって頷いた。


「うん、ちょうど見てたよ」


 何を、かは聞くまでのないことで、それはむしろ言葉に出してはいけなくて、だけどそれは俺たちにとってはっきりとした共通認識だったと思う。

 あの鉄骨落下事件。その現場に、彼女は立ち会っていたのだろう。


「……そうか」


「ねぇ、圭人君」


 矢代のまっすぐな瞳が、俺を見据えていた。それは鋭くて、どこか俺を糾弾しているようで、どうも居心地が悪い。しかし、目を逸らそうとしても彼女は俺を許しはしない。


「君は、どうして今生きているの?」


 瞬間、俺の心臓は掴まれた。滑らかな手つきで心臓をするりと撫でられているような、頸動脈をきゅっと締められるような。吐き気を伴うまでの息苦しさと痛みで、俺の意識はどこかへ飛びかけた。

 なぜ生きているのか、彼女はそう問いかけた。その問いの真意を俺はわかってしまった。なぜか、理解してしまった。

 あのただただ頭を空っぽにした日曜日。自分ではそう思っていたものの、どうやら無意識下ではずっとあの日のことを考えてしまっていたらしい。


「……意味がわからねぇな」


 どうしようもなくて、頭の中が整理できていなくて、俺は、嘘を吐いた。


「そっか。ごめんなさい。……少し意地悪だったね。それじゃ」


 彼女はもとの優しい目つきに戻ると、小さく手を振ってその場から立ち去った。

 ふいに、彼女は立ち止った。「あ、そうだ」そう呟いてこちらを振り返る。


「カギは、あのかわいいメイドさんだよ? 忘れないでね」


 三日月型に細められたその笑顔は、どこか寂し気で、俺は即座にその言葉を追及することができなかった。その隙に彼女は再び前に向き直り、歩き始める。

 人の多い廊下。その雑踏の中に入っていく少女の姿は、すぐに隠れて見えなくなった。


 その後、矢代と一緒にいたことを悟られないように少し間を開けてから教室に戻る。別に悟られたからとて何かが変わるわけではないと思うが、何となく俺の気分だ。間もなく始まる四時間目の授業前に数学教師が課題のプリントを集めていた。


「あ……」


 と、そこで自分がその課題を家に忘れてきたことに気づいた。出さずにしれっと誤魔化そうかと思った瞬間、教師とぴったし目線が重なり合う。


「おい、浅田早く出せ」


 スキンヘッドに銀縁眼鏡という一歩間違えばやの付く自由職の方にも見えてしまう数学教師。彼に睨まれてしまえばもう逃げ場はない。


 ――朝ちゃんと鞄に入れてればな……。


 別に叱られ指導を受けるのは何ともないのだが、この教師は忘れ物に対しやたら厳しく、明日の課題を二倍、などという悪魔のごとき所業を軽々と行うのだ。


 はぁ、と思わず吐いた溜息。覚悟を決めて顔を上げると――そこはもう、教室じゃなかった。


『忘れ物はありませんか?』


 そう俺へ尋ねるのは、誰でもない、うちのメイドだ。そして場所も変わっている。そこは教室ではなく、俺の部屋だった。ただおかしいのが、その色合いは全体的に薄く淡いこと。


 鞄に教科書類を詰め込んでいく中、俺は一枚の裏返しになっているプリントを一瞬見やった。しかしすぐさま教材の並ぶ本棚へ意識を戻す。


 ――ちょっと待った。


 俺は動き続けようとする自分の手を抑え込み、そのプリントに手を伸ばす。そして、それが何かも確認せずに鞄の中に突っ込んだ。

 刹那、世界は白い閃光に包まれる。


「……っ」


 視界を染めた白の光が消えたとき、俺は再び教室に立っていた。正面には例の数学教師。そして、俺の右手には、課題のプリント。俺はそれを教師に提出すると、すぐさま席に着き、机へ突っ伏した。


 ――もう、これで確定だな。


 たった一回ならば、勘違いであると自分をだますこともできた。無視して忘れようとすることもできた。だが、それに二回目があったとしたら?


 はっきり言って馬鹿々々しい。非科学的だ。だが、それとは対照にそれを確信している自分が、もうすでに出来上がってしまっていた。


 過去の回想のような数秒程度の時間逆行。それに伴う、現在の状況の改竄。つまりそれが、俺の体験したことらしい。

 一回目はあの鉄骨落下の日。落下してくる鉄骨に押しつぶされるはずだった俺はこの現象によって命を拾い、また――いや、なんでもない。

 そして、二回目は今。忘れたはずのプリントを、時間を巻き戻して持ってきていたことにした。


 あの日曜日、俺が脳内で立てていた仮説が、今の一瞬で立証されてしまった。

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