ハウスメイドのいる日常
まどろみの中、俺は少女の声を聞いた。
その声はまるで雨音のように寂しげで、尚且つどこか恍惚としているようでもあった。
体がゆっくり揺すられる。ぬるま湯に浸かっているような心地よい状態から、次第に意識が引き上げられていく。だが、それも決して不快なものではなく、俺は何の抵抗もなく自然と瞼を開いた。
「お目覚めですね。おはようございます」
そこには、穏やかな少女の微笑があった。白磁でできた人形のように、それは美しく整っている。
はらりと落ちて俺の頬に触れたその髪を、彼女は後ろへ優しくはらった。
心なしか、遠くから鳥のさえずりが聞こえた気がする。いつもとほとんど同じ角度で差し込む陽光も、普段より今日は、どこか暖かみを帯びていた。きっとそれは気のせいに違いない。だが、それらが目覚め直後の俺を、清々しい気持ちにさせてくれたのは確かだ。
「あぁ、おはよ」
「もう7時になります。起きて支度をなさってくださいね」
起き上がった俺のブランケットを彼女は楚々とした仕草で畳むと、ベッドのわきにそっと置いた。そしてこちらを向いて、「今コーヒーを淹れますね」と微笑むと台所のほうへ去っていく。その歩く姿には一切の穢れがなく、このつまらない俺の朝は、彼女の存在だけで大層麗しいものとなっていた。
ふと、彼女はちゃんとベッドに寝たのだろうかと思った。まだ彼女の性格について言及できるほど俺が彼女について知っていることは多くないが、今のところ見る限り、どうやら彼女はかなり生真面目な性格らしい。
寝る前は散乱としていたこの部屋だが、いま見回すとほとんど完璧に片づけがなされている。尚且つ、物の配置は一切変わっておらず、彼女の配慮に俺は心から驚いた。
そんな彼女が、俺が言ったからとておとなしくベッドに寝ただろうか。答えはきっと、ノーだ。彼女は俺と同じ床で寝たか、もしくは一睡すらしていないかもしれない。そう思うとどこか申し訳なくなり、俺は立ち上がって台所へ向かった。
この後、彼女に「いってらっしゃいませ」と送り出されるまでの時間は、悶絶しそうなほど平和な時間だった。また同時に、俺はその瞬間まで彼女がアンドロイドである、という事実すらも忘れていたのだ。
つまる話、そのくらい「美少女にモーニングコールをされる」という状況は俺の心に響いたらしい。
* * *
「で? どんな感じなのかい?」
可笑しくてたまらない、そういう感情が目の前の顔にありありと描かれていた。それに俺は少し面倒くささを感じながら、「まだ何もわかんねぇよ」と答える。
弁当を友達とともにつつく女子たち、購買へ全力へ駆ける男子たち、昼食もそぞろに昼錬へ向かう部活生。そんなどこにでもある昼休みの教室で、三山はまた俺のもとにやってきていた。
「しっかし、信じられないなあ。圭人にこんなことが起きるなんて」
それはこっちのセリフだ、なんて言葉は口に出すまでもないと判断して俺は昼食をバックから取り出す。いつもなら昨晩の残りなどを弁当に詰め込んでくるのだが、今日はあいにくそれもできなかったのでコンビニで弁当を買ってきた。
「おーい、啓介ー! 学食行くぞー」
「あ、りょーかーい。圭人、はいこれ。昨日のお礼ね。んじゃ、また」
遠くから呼ばれた三山はその相手に手を振りながら、俺の机に紙パックのカフェオレを置いた。ちょうど飲み物を買い忘れていたので助かる。小声でサンキュと返すと、三山はウィンクしてその場を去っていった。……やっぱウザイ。
そうしてまた俺の席のまわりは人口密度が下がった。実に快適である。風通しが良すぎて少し困るくらいだ。
ぼんやりと周りを眺めながら昼食をとっていると、実に楽しそうに笑う人間の姿が次々と目に入った。彼らは何を話して、なぜそこまで楽しげなのだろうか。俺もあの輪の中にいれば、彼らと同じように笑うことができるのだろうか。
その彼らの中には、矢代遥の姿もあった。
「……やっぱ外階段行くか」
そうして俺は、人のいない外階段で昼食を済ませた。
やる気のない教師の授業を聞き流して放課後。視界の端で三山がこちらに目線を送っているのに気づき、俺はあえて早く教室を出た。別に、避けているわけではないし、どうして自分がそうしたのかはわからないが、廊下を歩く俺の胸には小さなわだかまりのようなものがあった。
そのまま階段を下り、靴箱を抜けて、ふと顔を上げると校門前に何か人だかりがある。
……どうして学生は、妙なものに集まりたがるのだろうか。それにその中心にあるものは大したものじゃないことがほとんどだし。
少しだけ呆れの気持ちを抱きながら、俺がその集団を通り抜けようとした時だった。
「圭人様!」
一瞬でその人だかりが割れた。例えるなら、かつて海を割ったモーゼのよう。いや、それは少しオーバーか。
しかしながら、その割れた先に現れたものは、神話に登場する女神を例に挙げたとて文句はつかないほど、優麗だった。
「は……? なんで……」
「お迎えに上がりました。さぁ、帰りましょう」
クラシックなメイド服を可憐にまとう少女は、にこりと微笑んで俺のほうに歩み寄ってきた。当然、周囲の生徒たちの目線はこちらに集まる。
「だれ?」「知らないよ」「金持ちのお坊ちゃんなんかな」「うらやましい……」「というか、あのメイドの子ちょータイプなんだけど……」「いや、だれでも一瞬で惚れるって……」
そんな言葉が周りでささやかれる。……これはまた面倒な。
ふと、その人だかりの奥。反対車線に立つ男の姿が目に入った。黒いパーカーを着て、フードをかぶり、両手を上着のポケットに突っ込んだ、そんな立ち姿で、そいつはじっと、こちらを見つめていた。顔は、見えない。
その男は、俺に近づいてきた人影に隠れ、一瞬で姿を消した。
「えっと、浅井圭人君だよね? 彼女は……?」
一歩踏みこんで話しかけてきたのは、確か同じクラスの池内だ。クラスメイトに名前を確認されているあたり俺の残念さがうかがえるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「すまん、急ぐから。メイド、行くぞ」
「えっ――」
俺は耐え切れず、メイドの手を取って走り出した。普段人目につかないよう端っこで生きている人間が衆目に晒されるなど、苦痛でしかない。突然のことにつまづきそうになるメイドを何とか支えながら走ると、すぐに生徒たちの目はなくなった。
激しく上下する肩とうるさい心臓を押し付けて、俺はメイドを正面に見据える。
「なんであんなとこいたんだよ」
「圭人様をお迎えに、ですが。何か問題がありましたか?」
「……問題しかねぇっての……」
こてりと小首をかしげるメイドに文句を言う気もうせて、自覚せず一つ溜息が出た。
「買い物して帰る。スーパー寄っていくぞ」
「わかりました。お荷物お持ちします」
学生鞄を取ろうとするメイドに「いいって」と断って、俺は再び歩き出した。
うっすらかいた額の汗を風が冷やし少し心地よかったが、ふくらはぎの倦怠感にすべては上書きされ、最終的には疲労感が全身を支配した。
ちなみにこの日の晩はメイドが食事を作ったが、なかなかに旨かったので料理は一日おきに交代制ということになった。
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