回想録1
彼女が段ボールから出てきたとき、ふいに昔のことを思い出した。脳裏に写し出されたその光景はやけに鮮明で、自分がそこに立ち会っているとさえ錯覚した。
そこは教室だった。その小さい箱のなかには小学生の俺が一人立ち尽くしている。窓の外から差し込む斜陽は俺のもとまでは届かず、ただ風が白いカーテンを揺らしていた。
俺が放課後の教室に残っていた理由はひとつ。無能な頭の軽い連中と同じタイミングで通学路を帰りたくなかったから。
何が面白いのか、いつもネジでも外れたように笑ってばかりいる同級生と、少しでも俺は顔を合わせたくなかった。そのころから、自分が“ずれている”という感覚があったのかもしれない。
だが、それは結局のところ人の輪に入っていくことができない自分を正当化しているだけのことで、また自分が特別であるという空虚な妄想を信じていただけで、残念ながら俺は周囲の人間と何一つ変わらない凡庸な存在であった。
調子のってる。クールぶっててうざい。それが俺の周囲からの評価だったと覚えている。
嘆かわしいことに、俺が住んでいた地域には少しばかり常識を欠いている人間が多く、また俺は彼らに比べると少しばかり優秀であったため、俺という子供は当然のように周囲を見下すようになった。
自分は特別な存在で、周りにいる馬鹿共は世界になんら利益を産み出さず死んでいく無用な存在だと、常に俺はそう信じていた。だから一人でいることは俺にとって一切の苦でなかったし、むしろそれを誇らしく思っていたところさえある。それが自分が特別である証明として。
だからこそ、彼女との出会いは俺にとって恐ろしいくらい大きなものだった。
放課後の教室。放課後の廊下。妙に静まり返っていて、妙に心地の悪い橙の色に包まれていて、どことなく世界と切り離されたような、そんな、空間。
まっすぐ伸びる廊下を歩いていた。ふいに何かに引き寄せられるように、俺はそこを見た。ある一つの教室。そこのベランダ。そこで少女は、ただ立ち尽くしていた。
白の手すりに細い指先を絡め、黒く長い髪を少しだけ風に流して、陰鬱そうな虚ろな目で、彼女は遠くの夕日を眺めていた。俺と彼女の距離は教室一つ分あり、また透明なガラスに阻まれていたというのに、俺はその彼女の姿がどうしようもなく近く感じられてしまった。
確か、危ないぞ、だったか。
俺が彼女にかけた言葉はそういう文言だったと思う。だけどそれは彼女に聞こえていなかったらしく、しばらく彼女はそのままそこにいた。俺も同じように、ただそこにいた。
ふいにこちらへ振り向いた彼女の瞳は少しだけ驚きに揺れた。だがすぐにそれは警戒の色に変わり、思ったよりもずっと鋭い視線を彼女は俺に向けた。
だれ。そう訊いた彼女に俺は、答える言葉がなかった。だからそれを誤魔化すために俺は何してたんだ、と聞き返した。
これが、俺が彼女と交わした最初の言葉だった。そいつは名前をアヤノと名乗り、また俺の質問に対しては時間を潰していた、と答えた。なぜ、と再び尋ねる俺に彼女は、あなたは? と心底興味なさげに聞き返した。
自分も時間を潰していたと短く答えると、彼女は少しだけ俺に興味の色を見せた。じゃあ、その目的は? そう尋ねる彼女の目は、心なしかこちらを強く見つめていた気がする。
なんとなく、だ。
俺はその時にすでに気づいていたのかもしれない。いやもしくは、その時からそうあってほしいと馬鹿な妄想を抱いていたのかもしれない。
放課後の教室に残り、何をするでもなく夕日を見つめる少女。彼女が自分と同じように周囲の人間から“ずれた”存在であり、俺たちは同じように思い悩んでいるのだと。
結論から言えば、それは正しかった。なぜ放課後に残っているのか、という彼女の質問に対して俺は答えをはぐらかした。すると彼女は、かすかな溜息を吐いた後、へぇ、とただそれだけ口に出した。
そこから続いたのは内容もなにもない不毛な会話だったと思う。だけれどもその時の俺にとってその会話は何物よりも輝いているように感じられた。
顔ではいかにも興味なさげでつまらないという風を装っていたが、心の中では目の前のこの少女が何者で、何を思っていて、そしてどういう運命があって今自分と話しているのか。このただの偶然に俺は少なからず理由のようなものを見出して、きっとそれは自分にとって素晴らしいものに違いないと確信していたのだ。
そのあと二言三言会話を交わしたあと、彼女は帰っていった。
次の日、またその教室に行くと彼女は変わらずそこにいた。その次の日、また次の日も俺たちは大して内容のない会話を重ねていった。
しかしそれにも少しずつ変化が現れた。特に内容のない問答ばかりだったその会話で、彼女は自分以外の人間について語り始めた。周囲の人間の愚かさに呆れたり、中身のない彼らの脳味噌を嘲たり、その内容は聞けば聞くほど、そっくりだった。何とそっくりかは、わざわざ言及する必要はないと思う。
要するに、俺たちは同じ穴のむじなだったらしい。
それから毎日俺たちは、くだらない他人どもを笑った。そして、唯一無二で何物にも代えがたい自分たちの特別性を闇に語った。
話し方や態度は互いに攻撃的だったし、こちらが何か言って相手が同意したり頷くことなんてめったにない、ほとんど一方通行な会話ではあったが、確実にその距離は近づいていた。
いずれ私たちはずっと偉くなって、きっとあいつらを見返すよ。
彼女は、その時“私たち”と言った。言ってくれた。それは俺にとって、心臓が爆発しそうなほどうれしくて、気恥ずかしかった。だからその時俺は、アヤノはわからないけど、俺はそうだろうな、なんていう軽口を叩いたのだろう。
もう一つ、彼女に言われて記憶に残っている言葉がある。
圭人にとって、私は特別なの?
圭人、というのは俺の名前だ。つまり、彼女は俺に、お前にとって自分は特別な存在かと尋ねてきたのだ。
その時俺は何と答えたのだったか。かなり昔のことだから忘れてしまった。いや、もしかしたら思い出すには気恥ずかしすぎることを言ったため、無意識中で思い出さないようにしているのかもしれない。
とにかく、俺は彼女にそういうことを聞かれた。今になってもたまにその言葉を思い出して、いったいそれにはどんな真意があったのだろうと考えることがある。
しかし、今となってはもう考えても詮無いことだ。アヤノは、その日からちょうど一週間後、俺に何も言わず消えた。
俺がちょうど小学校5年だったとき、『夜神綾乃』は転校したのだ。
それから連絡は取っていない。というより、手段がないからとりようがない。
なのに、どうしてだろう。
なぜ俺は今更になって、その少女――アヤノという名を思い出し、過去の出来事に思いを沈めているのか。
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