第9話 「ためらいがちにカエルは楔へ手をかける」

 未玖の母、風切日向かざきりひなたは混みあった電車の中で吊革につかまりながら外を眺めていた。


 目の前を流れ行く建物が時折途切れ、暗くなったガラス窓に自分の顔が写る。上から落ちる明かりが普段気にする程でもないしわをことさらに強調して時の流れを突きつけていた。


(ーーー13年・・・か。 背、高くなってた・・・。 声が彼に少し似てたな・・・)


 嫌いで置いてきた訳ではない、見れば当然辛くなる。 だから、離婚して数年はほとんどテレビを見ない生活をしていた。 日向の中で生き続けていた息子は、ずっと9歳の少年のままだった。もう、街ですれ違っても気づけないだろうな・・・と実感する。


 日向の目に見えた飛空の基本的なオーラの色は、母親を安心させるに十分な健康で穏やかな日々を送っている事が伝わる良い色をしていた。ただ、日向と対面している間に彼から発せられるオーラの迷いぶれる様は見ていて辛かった。


 寄せては返す波の様に、触れようと近づいては怖じ気付く。怒りや悲しみ切なさと思慕、それぞれの思いを飲み込もうと「許し」という慈悲が寄せる。せめぎ合い拮抗した思いの落とし所があの距離感に現れているのだろうと日向は考えていた。


 素顔を見せず母と呼ばず一定の距離を保って対峙する姿を切なく思いながら、当然だと受け止めてもいた。ただ気がかりがなくはなかった。


(あの子はどう思っただろう・・・)


 『あなたは・・・息子のことをよくご存じですよね』


 母だと名乗る事に怖じ気付き、彼が「お母さん」と口にしないことを良いことにあんなことを言ってしまった・・・と後悔の念がうづく。

 距離をとる息子に合わせて、近づき過ぎないようにしたことは彼に添うことになっただろうか?

 思い切って距離を詰めて話しかけた方が良かったのだろうか・・・、その方が彼の気持ちを和らげることになったのではないか?

 既に過去になった時間は変えられないと知りつつ、つい正解探しをしてしまう。


(また捨てられた・・・と、思われてしまったかもしれない・・・)


 そう思ったそばから責める思いが湧いてくる。


(そもそも通帳を渡すこと事態が縁切りと思われてもおかしくない・・・。 何にしても、エゴよね・・・)


 吊革を掴む手に力が入る。

 息子を捨てたと言うより日向はあの家から逃げた。結果的には同じ事なのだけれど。


 嫌がらせの電話や張り紙に落書き、人の投げかけるよこしまな感情が日向にはオーラとして見えていた。人の強い思いはペンキをかけるように家や体に張り付いてきて、必死に払って拭い取っても後から後から被さってきたあの日々。張り紙を取り去り落書きを落とし、飛空が帰ってくる頃には鳴り止まぬ電話の線を抜いた。 働かず子供の稼ぎで遊び暮らす夫と口論を繰り返し、それでも笑顔で飛空を迎える毎日。


 日向は首を振った。

 今更思い返したところで何が変わるというわけでもない・・・。突き返されてもおかしくないところを、飛空は黙って受け取ってくれた。今はその事に感謝するだけだと自分に言い聞かす。

 そして、約束を果たしてくれた胡桃くるみのことを思う。再婚をすると引き合わされたときに彼女は言ってくれたのだ。


「お金目的じゃありません、飛空君の母親になる覚悟はあります! 彼が死んだとしてもすぐに飛空しょう君をほっぽりだしたりしません! もし・・・もしも彼の死で別れて暮らすことがあったとしても、ちゃんと飛空君の為にすべき事をしっかり整えてからにします」


 20歳を過ぎたくらいの女の子が、日向の問いかけにしっかりとそう答えたのを覚えている。

 日向は一度あったきりの胡桃の顔をもう思い出せなかったけれど、心の中で何度も感謝の言葉を繰り返していた。どうか、この思いが届きますように・・・と念じながら。





「顔、見せなくて良かったのか? お母さんだったんだろ?」


 かけるに聞かれたことには黙ったまま、飛空はカエルを片付けていた。


「あれか、俗に言う反抗期が今来た感じか」

「そんなんじゃないです」

「意地悪?」

「何で着ぐるみ着るのが意地悪になるんですかッ」

「だって、ほら。 久しぶりに会うなら母親としては子供の顔みたいだろう? 元気かな? 大きくなったかな? ってさ。 あれじゃ、会ってあげるけど顔は見せてやらないぞ・・・って言ってるようなもんじゃないか?」


 翔の言葉に飛空は面食らった。そんな事考えてもみなかったのだ。ただ、どんな顔をして会っていいのか分からず、落ち着きやすいカエルの姿で会っただけのことだった。


「話し方もよそよそしい感じだったしなぁ」

「え?! そんな感じだった?」

「だった。 父が祖父が・・・とか言っちゃって他人に自分の話してるみたいだった」

「ぼ、僕はただ冷静にって思って・・・」


 自分の言動を思い返して、ふてくされた天の邪鬼な子供のように見えたなら不本意だと思った。

 小学生みたいに諸手もろてをあげてウエルカムという感じでなかった事は確かだったが、 拒絶するつもりはなかったし上手に大人の対応をとれていると思っていた。


「お前がお母さんって呼ばないし距離感だしてくるから困ったんじゃないか? 母と名乗るな、息子と呼ぶなって感じたんじゃないかなぁ~・・・」

「そ・・・そんなつもりじゃ」


 飛空は力なくソファーに腰掛けて、クッションを抱きしめる。


「息子をよくご存じですよね・・とか、息子に渡して下さい・・・って遠回しに遠回しに言ってたじゃん」

「言ってた! あれは、え? ーーーー僕がカエルの姿で出たからそれに合わせて『カエルさんお願いね』みたいなお芝居みたいに話してるのかと・・・」

「はぁ?」


 翔が呆れた顔をする。

 母と対峙するだけで精一杯だった飛空でも、微妙な違和感は感じていた。その違和感に翔の指摘が一つ一つ符合して、見えてきた全体像に後悔の念がふつふつと湧いて来るのを感じた。


「お前は馬鹿か・・・。絶縁状態の息子がカエルの格好で出て来るのも変なのに、それに乗っかるって・・・舞台女優かよ。すげえな」


 飛空はソファーに倒れ込みクッションに突っ伏してじっとしていた。


未玖みくちゃん、義理の妹にあたるんだな。ーーーーお前の好みに合いそうなのに逃げ腰なのはそのせい?」


「・・・幸せなんて、期待しちゃいけないんだ」


 顔をクッションで押さえたまま、飛空は小さな声で吐露した。何を言ったか聞こえず、翔が飛空からクッションを取り上げる。


「そこは気にしなくていいんじゃない? 義理だろ? 血の繋がりないし戸籍的にも何の問題もないし、気にせず挑め」


「勝手なことを・・・」


 ソファーに俯せになって飛空が小さく愚痴る。


(問題ないとか、そんな簡単に言わなくたって・・・!)


 未玖の繋げた母との縁に驚き、期待し、諦めて、自分なりに色々なことを考えて未玖と距離を取って接していたのに・・・と飛空は少し苛立った。

 しばらくして甘い珈琲の香りが流れてきて、目の前のテーブルにコップが置かれる音を飛空は耳にした。


「未玖ちゃんの未来樹を見てお前はお母さんを見つけ、未玖ちゃんと自分の関係性も知っていた。ーーーでも、俺には黙ってた」


 翔が話し飛空は黙っていた。


「お母さんは未玖ちゃんがお前に会ったことを知って、自分の存在を飛空が知っただろうと判断して会いに来た。ーーーそして、お前は1人であたふたして他人行儀な態度になった・・・。俺に話してたらもう少し良い緩衝材かんしょうざいになれたと思うが?」


 横になったままの飛空は顔を横に向けて、チロリと翔を見やった。翔はコップの置かれたテーブルを人差し指でコツコツと叩き、飛空に飲むよう促す。


「カフェモカ」

「・・・言われなくても分かりますよ」


 ソファーに再度顔を埋める飛空へ翔が言葉を投げる。


「反抗期」

「違います」

「ピエロ」

「何なんですか?ピエロって」

「1人相撲の王様」

「訳分からないしッ」


 たまらず起きあがった飛空は、ふてくされた顔で珈琲を一口飲んだ。甘く暖かいチョコとほろ苦い珈琲の香りに包まれて、大きく深呼吸をひとつ。体からりきみが取れて自然と溜め息もこぼれた。

 翔も飛空の顔を見ながらゆっくり珈琲を口へ運ぶ。時計の音が聞こえるかと思うほど静かな珈琲タイムを味わって、翔がおもむろに口を開いた。


「決断は他人に任せるな。ただし、1人で悩むな」

「・・・矛盾してない?」

「相談をして人の意見を聞いたうえで、自分で取捨選択するんだよ。1人で考えると堂々巡りになりやすいし、人に話すことでヒントを見つけたり自分の本心に気づける事もある」


 飛空は「ふ~ん」と鼻を鳴らした。翔に話していたらどうなっていただろう?


「ーーーもっと人に頼ってもいいと思うぞ。恐れず人と関われ、俺はお前の付属品じゃないんだからな」

「・・・・・・僕に関わった人は、消えて行くんだ・・・」


 ぽつりと飛空が言った。

 母親は消え父親は死に胡桃さんは去った。翔は癌になり祖父は再会して間もなく死んだ。自分に近づく者はみな側から離れて行くばかり。未玖の未来樹に見た自分の幸せな未来が確定されていない事も知っている。


 繰り返し見る夢が目の前をよぎって行く。

 差し出した自分の手を握ってくれる人は誰もいない、皆遠ざかって行く。地面へ引き込む黒い腕だけが飛空を捕まえている。握りしめて欲しいと願う手ほどすり抜けていく・・・。


「皆、消えた・・・か?」


 幸せのおもてへ浮かび上がることを諦めて、その身を水底へ落ちるに任せようとする飛空の心に、翔が小石を投げる。


「お母さんは戻って来た」


 伏し目がちな飛空の顔を翔が見つめる。


一度解ほどけたひもを結び直そうとしてくれてる・・・。それに・・・」


 噛み砕くように話す翔の言葉が途切れて飛空は目を向けた。


「俺は、生きてる」


 優しく笑って翔は続けた。


「お前があの時必死で食らいついて、諦めずに俺を説得し続けてくれたから今があるんだ。あの時、積極的に俺の人生に関わってくれた。ーーー飛空、お前が俺を生かしてくれた」


 独りぽっちで人生投げて飢え死にしたって構わないと思っていた自分が、人生どうとでもなれと自棄やけになっていた翔に拾われた。

 拾った犬に肉を投げてよこすように少し荒っぽくありながら、素知らぬ振りしつつちゃんと食べているか気にかけているような翔に安心した。まとわりつく様な優しさより嬉しく心地よかった。


 恩人を死に向かわせたくないという思いと同時に、この心地よさを失いたくないとも思った。


「・・・僕は偽善者だよ」


 そう言って飛空はまた俯いた。


「善人の顔して人を傷つける奴と比べたら、人を助ける偽善者の方がまだましだよ」


 俯いたままの飛空から表情が読みとれない。


「なぁ、飛空。罪を犯したから周りから人が消えたと思っているのか?」


 飛空は静かに首を振った。


「・・・分からない、分からないけど」


 飲み干したカップを翔はテーブルへ置いた。


「他人を傷つけたから幸せになってはいけないとか・・・思ってる?」


 飛空は黙っていた。


「ーーーー罪を償うことと、お前が幸せになることは別だと俺は思う」


 飛空にはその言葉の意味がよく分からなかった。


「 罪を償えたかどうかを自分で判断するのは間違っていると思うし、被害者以外の誰かが決めた刑を終える事で終了だとも思わない。・・・償いが済んだかどうかは傷つけられた人が決めることだよな」


 その点については飛空も同じ考えを持っていた。だから、飛空は頷いた。


「身勝手に償った、はい終わり・・・って線引いて幸せになろうとするのは間違ってると思うだろ?」


 また飛空は頷いた。


「未玖ちゃん幸せそうだよな」

「え?」


 唐突に未玖の名前が出て飛空は翔の顔を見つめた。


「お前の母さん、未玖ちゃんの良いお母さんしてるんじゃないか?」


 翔が何を言いたいのか読めず飛空は黙っていた。


「未玖ちゃんが幸せでお母さんは不幸って事・・・ないと思うんだ」


 飛空のコップと自分のを手に取って、翔は流し台へと向かった。


「好きな人と出会ってその人の娘と3人暮らしをしてきて、お母さんは新しい家族と幸せに暮らしてきたと思う。ーーーーでも、お前のことを忘れたことはなかった。そう思うだろ? ーーー息子を置いて出て行った母親は不幸でいなくちゃ駄目か?」


「そんな事ッ!」


 飛空は思わず立ち上がった。


「あの通帳・・・。 手切れ金のつもりじゃないと俺は思う。償いの第一歩だとは思わないか?」




 償いの、第一歩・・・?


 ーーーーーああ・・・。


 飛空は心の中で、小さく声を立てた。


 あの時、母親が自分を思ってくれた歳月の切なさに涙がこぼれた。でも、会えなかった時間の切なさだけじゃなかった。そうだ、もうこれが最後かもしれない、二度と会えなくなるのかもしれない・・・心の隅で感じた悲しみが混ざっていた。


 あれは最後ではなく、始まりのバトンだったんだろうか? そう思っていいんだろうか? 涙が勝手にこぼれて頬を伝った。


「なぁ、未玖ちゃんと上手いこと行って結婚できたら4人家族になるんだぞ。子供が産まれたらその数だけ家族が増える。・・・楽しいだろうなぁ。 俺、結婚式に新郎の親父役してやってもいいぞ」

「ポジティブ過ぎ・・・」


 振り返った翔の笑顔に、飛空も笑い返そうとしてまた涙がこぼれた。


「おいおい、もう結婚式の練習か? 親父代わりだからって泣かせる手紙書くなよ」


 翔は楽しそうに笑った。


「人生からも恋からも逃げるな」


 飛空は苦笑いしながら小さく「うるさいなっ!」と言ったが、また涙が頬を伝った。


「自分の罪には真摯に向き合え。不幸でいることで償えてると思うな」


 止め処もなく流れる涙を拭う飛空を、微笑みながら翔が見つめる。


「・・・幸せになれよ。 飛空」


 飛空は袖で涙をぐいっと拭くと、コクリと頷いた。


「よしっ! じゃあ、これから恋愛対策会議だ」


 早速、翔が飛空の肩に腕を回す。


「そ・・・それは、ちょっと」


 首を捻りながら飛空が腕を解いて距離を取った。


「先輩が助けてやるって」

「離婚してるくせに」

「あっ、言ったな」


 少しマジ顔になった翔から飛空が逃げた。


「離婚してるって事は、一度は恋愛を結実させたという重要な証拠だぞ」


 翔が追って飛空が逃げる。


「僕は翔さんじゃないし、風切さんは瑠璃さんじゃないんだから」

「おいおい、俺の恋愛遍歴が一個だけだと思ってるのか? 俺のデータベースを軽く見るなよ」


 肩を組もうとする翔と逃げる飛空、テーブルの周りをぐるぐると回りながら走ったり転んだり笑い合って子犬の様にじゃれ合って、屈託なく笑いあう。




 今、僕の未来樹も光り輝きながら広がってたりするのかな?




 風切りさんの未来樹で見た幸せの未来に、手を伸ばして良いって本当にそう思っていいのかな?


 笑い疲れてソファーに転がる飛空に、スカイが飛び乗ってきて顔を舐める。


「よせよ、スカイ」


 喉を鳴らす黒猫は何やらもごもごうにゃうにゃと鳴きながら笑っているようだった。

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