第8話 「カエル鳴き 雨の降る夕べ」

 飛空の言った通りに客足が止まり、潮が引くように客が帰ってしまった店内は静かだった。


 手持ちぶさたにかけるが本へ手を伸ばしかけた時、女性客が一人来店した。女性は店内を見渡して少しためらいながら、ゆっくりと翔のいるカウンターへやって来た。


青柳飛空あおやぎしょうさんは、いらっしゃいますか?」


 そっと、静かにその人はそう言った。


「・・・ええ。 どうぞ、お掛けになってお待ち下さい」


 スカイの姿はないがこの女性が来ることを飛空は知っていたのだ。黒猫の案内がないと言うことは未来を知るためではなく飛空自身に会いに来たのだろう・・・と翔は推測する。


 自分と同じくらいの年頃に見えるその人と、どこかで会ったような感じがして翔は首を傾げた。会ったことがあれば思い出す自信があるが、思い出せない。人の顔と名前の覚えがいい方だと自慢にするくらいだったから何か腑に落ちぬものを感じた。


 翔がバックヤードへ向かうのと同時に飛空がカエル姿で現れたのを見て翔は少し驚いた。スカイの紹介の時でも翔が声をかけるまでグズグズしているのがそれまでの常だったから・・・。


 カエルの格好を見て女性は少し驚いた顔をした後、納得したような表情で微かに頷いた。

 翔はいつも通りにカエルの座るスツールをカウンターの前に置いてから、まだ立っている女性に「どうぞ」と声をかけ、彼女は飛空の正面のスツールに腰掛けた。


 その頃になってスカイが出遅れた!とばかりにカウンターへ飛び乗ってきて、飛空に一鳴きし女性をじっと見つめてから下がった。

 飛空は黙って俯き、女性も黙ったままカエルを見つめていた。翔がそっとメニューを差しだすと、女性は軽く目を通して「これを」とブレンドコーヒーを指さした。メニューを下げた翔は2人から少し離れた所で珈琲を淹れ始める。


「床は張り替えたんですか?」


 女性の唐突な質問に翔が目を向ける。


「壁や天井は昔のままなんですね」


 ゆっくり周りを見渡して高さのある天井を見上げる彼女の眼差しは懐かしげだった。


「昔・・・何度か来たことがあるんです。 本屋さんだった頃に」


 翔がこちらに顔を向けているのを知って、彼女は翔へ話した。その間もカエル姿の飛空はただ黙っている。


「古本屋だった時ですか?」


 黙りこくっているカエルを横目に見ながら翔が彼女の言葉を受けた。


「あの方は古本屋をしてたつもりはなかったようですけどね」


 そう言って彼女は笑顔を見せた。落ち着いた風を装いながら、彼女も何とわなしに飛空へ向き合うことをためらっているように感じられた。


「自分が好きな本を若い人達にも読んで欲しいからって取りそろえていたのが、結果的に古本屋の様な品ぞろえになったようですよ。ーーー書店での本の回転が早いから、新刊から外れた好きな本は置いていたようです。 ず~っと奥の方に・・・」


 ドリップされた珈琲が落ちるように、時にするすると時に雫が落ちるようにぽつりぽつりと彼女は語った。その間も飛空は黙ったままだった。

 翔は軽く「へ~、そうだったんですか」と受けた後に、少し気になっていた事を聞いた。


「骨董品も置いてありましたよね」

「ああ、そうでしたね」

「それも趣味の拡張枠ですかね」


 彼女はまた笑顔になった。


「蓄音機とか昔の壁掛けの電話とか・・・」

「そうそう、あのクルクルって回して話すタイプの置いてありましたね。僕も昔の映画で見たくらいで初めて現物見て驚きました」


 翔が映画で見た使い方を再現するように右手を回して左手を耳に当てて笑い、彼女も一緒に笑った。


「確か・・・。昔の本を勧めても若い人には馴染みのない物が出てくる事があって、口で説明するのも疲れるからって置き始めたら集まってしまったって言ってましたよ」


 珈琲を女性の前に置きながら「なるほど、そう言うことだったんですね」と翔が相づちを打った後、言葉を継ぐ者が現れずしばらく沈黙の時が訪れた。





 未玖は母親を追って来てはみたものの喫茶店には入らず、入り口の直ぐ側で聞き耳を立てていた。しかし、声は聞こえるものの内容がつかめずにジリジリとしていた。もう少しよく聞こえないか・・と顔を覗かせた途端に翔と目があって未玖は慌てて隠れた。


 気にせず中へ入り声をかけて会話に加わる・・・という事も考えたが、家からずっと後を付けてきた様に思われるのは嫌だった。それに・・・と未玖は思う。


(やっぱり、私に聞かれたくない事なのかもしれないしな・・・)


 それは当たらずとも遠からずではあったけれど、それを知る由はなかった。

 未玖は家で何食わぬ顔で母を迎えようと思い帰途についた。前に未玖が口を滑らせたように、母がカエルについて尻尾を出してくれればこちらのものだ。ーーー帰ってきた母をどう迎え撃つかと色々考えながら未玖は駅に向かった。





 翔は戸口からチラリと未玖の顔が見えて忘れ物でもしたのかと気になったが、未玖が入って来る様子がないので大したことはないのだろうと流す事にした。それよりも、率先して降りてきた割に黙ったままの飛空の方が気になっていた。


 自分が居ると話しにくいのかもしれない・・・と、軽くカウンター周りを片づけてバックヤードへ行きかけた翔を飛空が黙って引き留めた。カウンターの向こうの女性に目を向けると、その眼差しは「どうぞ、居て下さい」と言っているようだった。黄緑色の手は翔の服をしっかり掴んで離しそうにもなく、仕方なく翔は自分のいつものポジションへと戻り、しばらくして女性が先に口を開いた。


「ーーー私は風切・・・今は風切と言います」


 カエルの首もとか胸辺りを見つめながら彼女は言った。


「風切って・・・」


 つい口を開いてしまって翔は「しまった!」と思った。


「はい、娘が何度かこちらに遊びに来ているようですね。有り難うございます」

「あぁ、いえいえ。こちらこそ贔屓ひいきにしていただいて有り難いです」


 つい会話に加わってしまった翔は「黙っていればよいものを!」と心の中で自分を叱った。


「場所をはっきり教えてもらった訳ではないんですけど、話してくれた大まかな景色が似てるなって思って懐かしくなって・・・来てみたら本当に喫茶店になってて、驚きました」


 時折笑顔を見せて話す仕草が未玖と似ていた。それで最初に感じた事に合点がいった。


「お祖父様のお葬式に出席できなくて、ごめんなさいね」


 彼女の言葉に飛空は首を振る。


「お父様の時も行かなくて・・・」

「大丈夫です」


 飛空が少し堅い声でそう言った。


「父の時は胡桃くるみさんが全部やってくれました」


 翔は記憶の中から名前の主が誰だったか思い返していた。確か飛空の義理の母親の名前のはずだった。


「お祖父さんの時は翔さんが」


 そう言って飛空がカエルの顔を翔に向けると、彼女は翔へ軽く頭を下げた。それから、少し迷いながら彼女は飛空へ質問した。


「その・・・。胡桃さん? とは今は?」

「父が亡くなって一年くらいしてから、それぞれに生きましょうと言う事になって・・・。負の遺産が多くて・・父さん馬鹿かと思ったけど・・・」


 そう言って飛空は乾いた声で笑った。


「女性を見る目は確かだったみたい・・・です。ーーー胡桃さんがそっちは持って行ってくれて、家は僕に残してくれました。今はもう売ってしまいましたけど・・・」


 飛空の話を聞いて、珈琲に目を落とした彼女は小さく「そう」と言って何度か頷いた。


「僕、神様から罰を受けたんですよ」


 おもてを上げた女性の目は驚きに見開かれていた。


「罰?」

「はい、とても苦しくて大変だったけど・・・。その間、胡桃さんが食事やら色々としてくれてたみたいで、彼女には感謝しかありません。ーーー認知症の人の徘徊よりヤバかったかも。薬で幻覚を見てる人みたいに見えたかもしれないな・・・自分でも何処で何をしたかさっぱり覚えていません」


 カエルは俯いてしばし黙った後、ぽつりと言った。


「ーーーでも、父の死に目には間に合いました」


 良かったねと言いたいのか、よく話してくれたと言いたいのか・・・女性は強く何度も頷いた。カウンターがなければ彼女は飛空を抱きしめているのではないか?と翔は思った。


「お祖父さんにも会えた。スカイが会わせてくれました」


 呼ばれるのを待っていた様に、スカイがカエルの肩へ飛び乗ってきた。


「・・・金色の猫。珍しい」


 彼女は黒猫のスカイを見てそう言った。

 スカイは彼女を知っていると言わんばかりに一鳴きして、カウンターへ跳び降りて行き彼女に頭を撫でられて喉を鳴らした。前にもそうされていたのかと思うほど親しそうに身を委ねていた。


「私・・・。生き物を包む光が見えるんです」

「え? オーラとか後光とか言うやつですか?」


 飛空と出会ってから不思議な事に興味を持つようになっていた翔が、やや食いつき気味に聞き返し彼女は黙って頷いた。見えないものは信じない、科学で証明されている物意外は全て嘘だと言って疑わなかった会社員時代が今では嘘みたいだった。


 彼女の言葉に飛空も少なからず驚いていた。身近にそんな力を持つ人がいたなんて・・・と。


「見えるだけです。声が聞こえてきたりとか何かが見えたりとかそんなことは全くなくて、相手の心の変化が分かる程度。大したことはないんですよ」


 珍しく翔が話題を膨らませず、しばらく静かな時間が流れた。止まった流れを動かしたのは飛空だった。


「・・・未来、見ますか?」


 女性は笑顔で首を横に振った。


「あなたは・・・息子のことをよくご存じですよね」


 少し迷って出された質問に、黙ったままのカエルがコクリとひとつ頷いた。


「・・・息子に、伝えて下さい。気が向いたら遊びに来てって」


 飛空は黙っていた。


「義理にあたるけれど妹が出来たのよって、あなたは独りじゃないって伝えて欲しいんです」


 彼女の口からこぼれた何気ない「妹」と言う単語が、飛空の心にそっと重みを持って落ちて行った。


「それから・・・これを」


 鞄から取り出した物をそっとカンターに置き、飛空の方へ少し寄せてから彼女は手を離した。それは通帳と印鑑だった。


「・・・息子に、渡して欲しいんです。 受け取ってくれたら嬉しいんですけど・・・」


 飛空は思いもかけぬ物に戸惑い困惑した。


「前の夫は散財する人で・・・、気前が良いというのかねだると何でも買ってくれる人でした。人の中心に居るのが好きで人を喜ばすことが好きで・・・」


「結婚しても子供が出来ても変わらなくて、どんどん酷くなって喧嘩別れになってしまいました。その時持ち出した物を全部売ってお金に換えたものです。ーーーーあの子が頑張って稼いだお金の、ほんの一部。 これだけは本人の手元に返してあげたいんです」


 ほんの少し変色した通帳は、一切手を着けず大切に保管されていただろうと思われた。 ちらりと見える表紙に、青柳飛空と印字されているのを見て翔は目を見張った。


 

 飛空はカエルの緑の手でそれを手に取り、じっと名前を見つめていた。しばらくして、おぼつかないカエルの手で一枚一枚めくってしばし眺めていた。引き出されることなく置かれた金額に、少しずつ増えていく利息と入金の記録が月日の流れを伝えていた。そして、挟まれた小さな紙片に目を留めて、そこに書かれた短い文章に飛空の目が潤んだ。




 置いて行って ごめんなさい




 対面を拒まれた時のために、せめて伝えたいと添えておいたのだろう紙片の文字に、郷愁をかき立てられて咄嗟に手帳を閉じた。


 ぎゅっと閉じたまぶたの裏に、毎日持たされる弁当に添えられていた手紙が次から次へと思い出された。


『今日も頑張って!』

『笑顔でね』

『元気を出して、お母さん見てるからね!』


 やがて、明るい黄緑色のカエルの中でポツリポツリと音がして、静かに雨が降っているのを翔は耳にしたのだった。

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