第10話 ぼくらのおもいで
3人は階段を昇り特別室へと戻る。
カーペットの敷かれた室内に踏み入れると、そこにはオオミミギツネがいた。
心配そうな視線を送りながら、彼女は歩み寄ってくる。
「皆さんどうして特別室に? どうして鏡の中から……」
そう言うオオミミギツネの身体はどこか震えていた。
彼女の心の中で嫌な風が吹きすさび、溢れる感情を混ぜこぜにしている。
そこから生まれた波動が脳内へと行き届き、彼女の記憶をまさぐっていた。
「支配人…いや、オオミミギツネさん。実は、アナタに話したいことが」
オオミミギツネは今の自分と封印されていたであろう記憶に板挟みになっている。
ルーカスはそれでも真実を話すことに決めた。
とりあえず場所を映る。食堂だ。
「まず謝らせてくれ。俺がルーカスさん達をあの特別室に入れたんだ」
「ハブさんが? 一体なんのために」
「そこは僕が説明します」
ルーカスは鏡の中に隠されていたことを簡単に説明する(白骨死体のことは精神衛生上伏せておく)
ハブがこのホテルを覚えていたこと。
この鏡の正体をしっていたことを。
そして、このホテルに隠された秘密を解き明かす存在をずっと待っていたことを。
そして証拠の写真を見せる。
ピアノの前に座るオオミミギツネと隣にいるハブが映る
「このホテルに……そんな秘密が。こんな偶然があるの? このホテルを薄っすら覚えていた私がこのホテルを経営して、そこに常連だったハブさんが来て、関係者だったルーカスさんがやってきて……」
「事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだ。この鏡の奥で、きっとずっと待っていたんだろうね。僕等の失った記憶達は。さて、次はオオミミギツネさん。アナタの記憶を返さなければ」
「わ、私の記憶ですか?」
ピアノの前に移動してオオミミギツネに手招きするルーカス。
オオミミギツネは不安そうにしていたが、ハブが歩み寄りそっと手を握ってくれた。
「……行こう。アンタの演奏を聞かせてくれ」
「え、演奏だなんて。私には」
言い終わる前にハブに連れられてピアノの前に、ルーカスの隣に座らされる。
「え、えっと……これからなにを」
「僕が今からきらきら星を弾きますので、アナタも弾いてください」
「で、でも私は」
「大丈夫。この曲は……最初にアナタに教えたものだから」
「え?」
キョトンとするオオミミギツネの隣でルーカスはピアノを弾き始める。
穏やかな動きで叩かれる鍵盤から、あの美しいメロディが流れ始めた。
「――――――」
それをじっと見ていたオオミミギツネ。
彼女の心の中に強い光が灯り、ある一種の光景を幻覚のように現実に投影する。
賑わうヒトとフレンズ達。
笑顔で満ち溢れるなかの豪勢な料理の数々。
奏でられるきらきら星に乗って、オオミミギツネの記憶が蘇ってくる。
演奏しているのは、ルーカス・ハイド。
この曲は当時の彼に教えて貰ったのだ。
(あぁ、そうか。思い出した……私はピアノが、音楽が大好きで……この人に教えてもらったんだ。なんだ。そういうこと……そういうことなのね)
幻は消え、現実に引き戻されると、オオミミギツネは彼に代わるようにピアノを演奏し始める。
拙いながらも一生懸命に奏でられるきらきら星に、3人は聴き惚れた。
(そうなのね……私ったら……こんな大事なこと、すっかり忘れちゃうなんて、ダメな子なのね。そんなダメな子を、ハブちゃん……アナタはずっと見守ってくれてたのね)
昔の記憶を取り戻したと同時に、当時の口調も戻っているかのようだった。
今の性格と混ざり合って、自分でも違和感を感じているが悪い気分はしなかった。
そして演奏終了。
オオミミギツネは立ち上がり、静かに御辞儀をすると、3人からの盛大な拍手が。
「最高にいい演奏でした。僕なんかよりずっと心のこもった演奏だ」
「私、感動して涙が出てしまいました。こんなにもいい演奏が聴けるなんて。やっぱりこういうのも旅ならではですわね」
やりきったという満足感と思い出した過去の余韻に浸りながらもオオミミギツネがハブの方を見る。
「ハブ、さん……」
「やっと……アンタの音楽が聴けた。ずっと聴きたかったんだよソレ」
「ありがとう、ございます……ッ!」
オオミミギツネが涙を零しながらハブに抱き着く。
ハブはそれを優しく抱き留め、しばらくそのままでいた。
「ずっと、私を見守っててくれたんですね……。ずっと、ずっと」
口調は戻っていたが、心の中からあふれる思い出と感謝ではち切れそうになっているオオミミギツネの頭を、ハブは黙って撫でている。
こうして、ジャパリ・イン・ザ・ミラーに隠されていた秘密は紐解かれ、それぞれの過去を取り戻すことに成功し、この件は幕を閉じた。
――――その夜だった。
部屋のベッドで寝息を立てるリョコウバト。
ルーカスはというと部屋のイスに座ったまま、暗い中ずっと考えごとをしていた。
今日一日だけでとんでもなく膨大な情報を手に入れたせいで、記憶と心の整理がついていない。
眠れないままに時間はゆっくりと朝に向かって進んでいく。
ルーカスはリョコウバトを起こさないように、立ち上がり部屋を出る。
廊下は明かりで多少薄暗いといったところ。
彼は歩き、階段を降りた。
最初に向かったのは特別室。
もう一度鏡の中を見てみようかと思ったが、どうやらすでに鍵が掛けられているようであり、再度見ることは出来ないようだ。
見落としはなかったとは思うが、それでももう一度中の雰囲気をと思ったのだが…。
しかたなくまたブラブラと歩くと、気が付けばジャパリ・バーの前に来ていた。
こんな深夜の時間ともなれば流石にやっていないだろうと思ったが、試しにドアノブを回すと。
「あれ、開いてる……?」
中へ入ってみると、ほんのりと明かりがひとつだけついていて、その下にはハブがいた。
「……来るんじゃないかなって思ってたよ」
「ハブさん……バーまだ閉めてなかったのかい?」
「いいや、もう店じまいなんだが……今日は特別さ。アンタの為に」
「僕の為に? サービスがいいね。じゃあ、頼んじゃっても?」
「あぁ。さぁそんなとこ立ってないでこっちこいよ」
ルーカスはハブの真ん前の席に座る。
酒が飲みたい気分だった。
なので思い切って頼んでみる。
「美味いお酒ある?」
「あるよ」
「バーボンも?」
「バーボン、――――あるよ」
「じゃあ、ターキーをロックで2ショット。これ出来る?」
「ハッハッハ、俺を誰だと思ってやがる。待ってな」
そう言って準備にかかるハブ。
その間ルーカスは自分のここまで手に入れた記憶を整理していた。
バーの雰囲気と仄かに漂う酒の匂いに、ルーカスの頭脳は鮮明になっていく。
「おまたせ。俺の奢りだ。ゆっくりしていってくれ」
「ありがとう」
ロックグラスを軽く揺らすと氷の音と共に鼻腔をくすぐる香り。
この久々に味わう大人の時間という雰囲気を楽しみながら、グラスの中の深い琥珀色の液体を口へと流し込む。
余韻の残る心地良い甘さとコク。
思わず笑みが零れるルーカスを見ながら、ハブは自分の分の酒を注いでいた。
「ホント濃い一日だ。記憶は大方取り戻せただけじゃなく、こうして美味い酒も味わえる」
「どうだい? ハブの日記念にゃもってこいの味だろう?」
「あぁ、ハブの日……。ハハハ、冗談かと思ってましたよ」
「おいおいひでぇな。いいか? 今日はアンタだけじゃなく、俺もオオミミギツネも目覚めた日なんだ。最高の記念日だぜ?」
「そうですね。アナタも、僕達とはちょっと状況が違うとはいえ、過去の記憶を取り戻そうとしていた。……えぇいいでしょう。ハブの日に乾杯だ」
「あぁ!」
お互いに一気に酒を飲み干す。
凝り固まった心が解きほぐれるようで心地良い気分になった。
しかし、こんなときでも、彼自身の不安は水を差すようにやってくる。
「なんだ、悩みごとか?」
「いや、ちょっとした違和感なんだ。自分自身に対してね」
ルーカスは話し始める。
ここまで記憶を取り戻したのはまぎれもない僥倖。
しかし同時に違和感を密かに覚え始めたのだ。
「経歴は思い出せたんだ。僕がどんな大学を出て今までにどんな研究をしてて、どういう経緯でサンドスター研究所の所長になったか」
「うん」
「だけどそれだけなんだ。それらは全て外面的な記憶に過ぎない。例えば、僕はどんなものが好きでどんなものが苦手だったか。子供時代はどんな性格の子供で、このジャパリパークに来るまでにどんなことに夢中になったのか、このジャパリパークに来てからどんな気持ちで暮らしていたのか。そういった内面的なものが思い出せないんだ。――――これじゃあカルテを眺めてるのと一緒だ」
自分のことなのに、まるで他人の人生をテレビや映画のドキュメンタリー物かなにかで見ているかのよう。
子供の頃は覚えていても、それは表面的な情報でしかない。
子供時代の嬉しい思い出や悲しい思い出が曖昧で、なんの感慨も湧かないのだ。
ピアノだってそうだ。
曲は覚えていた。ピアノの弾き方も。
だが、その曲に対する情熱や想い等は思い出せない。
弾いていて楽しいといった感情は湧くのだが、それが思い出や輝きとして残っていないのは、ルーカスとしては不自然に感じられた。
「ほうなるほど。新しい課題だな。だけど大丈夫さ。アンタならきっと上手くいく。だってたった一日でここまで思い出せたんだろ? じゃあ大丈夫さ」
「そうかなぁ」
「ホレ、景気づけにもう一杯いれてやるよ。ソレ吞んでぐっすり寝りゃ気分も良くなるさ」
「……そう、かな。そうかも。じゃあ、お言葉に甘えてもう一杯」
ハブとの時間を過ごした後、ルーカスは部屋へと戻り、言われた通り眠ることにした。
瞼が重くなり、眠気が襲う。
彼は眠気に身を任せ、眠りについた。
明日になればまた新しい場所へと向かわねばならない。
その為にはまずは休むことだと。
(大丈夫だ。僕なら出来る。……リョコウバトさんにはまた迷惑かけちゃうかもだけど、僕は必ず真実をつきとめてみせる)
心の中の独白を最後に、彼の意識は睡眠の向こう側へと堕ちていった。
窓際に置いてあるリョコウバトのキャリーバッグは少し開いていた。
その中から古びたハンカチが、少しはみ出している。
『Martha』と書かれたハンカチが。
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