第180話 アネス、覚醒【前編】

「あーう♪」

「今日もアネスはご機嫌ね♪」


 屋上庭園では今日も小さな子ども連れの奥様方で賑わっていた。

 その中にはエステルとアネスの姿もある。


「あまり遠くへ行っちゃダメよ」

「あーい♪」


 すっかり歩くことに慣れたアネスは他の子どもたちと一緒に遊ぶため元気に駆けていく。その間、エステルは銀狼族や王虎族のママ友と子育てトークに夢中となっていた。

 いつもの要塞村の様子。

 だが、異変はなんの前触れもなくやってきた。


「ママ!!」


 銀狼族の女の子が大慌てで母親のもとへ走ってきた。


「どうしたの!? 一体何があったの!?」


 青ざめた表情で母を見上げる女の子の姿を目の当たりにしたエステルとママ友たちは、子ども同士の間で起きたいざこざが原因ではなく、何かもっと尋常でない事態が起きたと察し、子どもたちの方へと視線を移す。

 そこにはママ友の子ども計六人が誰かを囲むようにして立っている。

 囲まれていたのは――アネスだった。


「アネス!?」


 今度はエステルが血相を変えてアネスのもとへと走る。

 ――が、アネスに目立った外傷はなく、表情にも変化は見られない。ただ目を閉じて眠っているように見えた。

 最初こそ安堵したエステルだが、すぐに事態の異様さに気づく。

 これだけ周囲が騒がしくなっていても、アネスが起きる気配はない。

 

「ど、どうしちゃったの……アネス」


 エステルからの呼びかけにも応じず、アネスはただただ静かに目を閉じていた。



  ◇◇◇



「参ったわねぇ……さすがのあたしも精霊は診療したことがないわ」


 エステルが駆け込んだのはケイスの診療所だった。

 備え付けのベッドに寝かせた後、ケイスはいろいろと診てくれたが、人間や獣人族など異種族を多く診てきた彼でさえ、精霊を相手にするのは初めてのことであったため、正確な治療法は分からないのだという。


「とりあえず横にしましょうか。アシュリーちゃん、ベッドの用意をお願いね」

「分かりました」


 ちなみに、診療所には冥鳥族のアシュリーがケイスの助手としていろいろと手助けをしている。


 診療所の外はいつの間にか喧騒に包まれていた。

 アネスが目を覚まさないという噂はあっという間に要塞村中に伝わり、それは村長トアの耳にも入っていた。トアはすぐさま農場にいる大地の精霊たちのもとへ走ると、事態を説明してすぐに診療所へと呼んだのだった。


「これは~……」


 大地の精霊のリーダーを務めるリディスは、いつものようにのんびりした口調であるが、その端々にはいつもはのぞかせない緊張感が漂っていた。

 診療所には事態を聞きつけたローザやシャウナ、それにクラーラにマフレナにジャネットにフォルなど、いつものメンバーが集結していた。


「リディス……アネスは一体どうしたんだ?」


 トアが代表して尋ねると、リディスは「ふぅ」と息をついてから語り始める。


「成長が始まるのだ~」

「成長?」

「そうなのだ~。成長した精霊になる儀式なのだ~」


 リディスの説明を耳にした一同はホッと胸を撫でおろす。

 だが、リディスの話はそれで終わりではなかった。


「アネス様自身に問題はないのだ~。でも、それ以外にちょっと問題があるのだ~」

「え?」


 やっぱりか、と思いつつ、トアはその問題とやらについて詳細な情報を求めようとした――まさにその時。

 


「――――」



 それまで眠っていたアネスが突如目を覚ましたかと思うと、体がふわっと浮き上がって発光し始めた。


「な、何が起きたんだ!?」

「いよいよ始まるのだ~」


 アネスの全身から放たれる光に目を伏せていたトアたち。その光が収まってくると、アネスは診療所の窓から外へと出ていってしまった。


「た、大変! すぐに追いかけないと!」

「行くわよ、エステル!」

「……大丈夫だ、ふたりとも」


 診療所を飛び出そうとしたエステルとクラーラを止めたのはトアだった。


「アネスは神樹のもとにいる」

「神樹じゃと?」


 真っ先にトアの言葉へ反応を示したのはローザだった。


「そういえば、精霊女王アネスは元々神樹の魔力目当てにこの要塞村へ侵攻してきたのじゃったな。まさか――」

「……いえ、たぶん違うと思います」

「なぜそう思うのじゃ?」

「あの時は神樹がアネスを拒絶していました。でも今は……むしろあの時と逆。神樹がアネスを自分のもとへ呼び寄せています」

「なんじゃと?」


 神樹と魔力供給でリンクしているトアには分かる。

 神樹自体がアネスを呼び寄せている――そして、アネスもそれに応えている、と。


「そこまで分かるなんて……本当にここっていろいろと規格外な村ね」

「私も時々凄すぎて自分がここにいて大丈夫なのか心配になります……」


 初めてトアと神樹のつながりを目の当たりにしたケイスはもちろん、長くこの村で暮らしているアシュリーでさえ、その力に驚きを隠せないでいた。


「とにかく急いで神樹のもとへ向かいましょう。リディス、問題点についてはそこで聞くよ」

「分かったのだ~」


 アネスに関する問題は一旦保留とし、トアたちは神樹のもとへと急いだ。




 神樹の周りは多くの村民たちで騒然となっていた。

 光に包まれたアネスは神樹の根が浸かる地底湖の前まで来るとそのまま空中で停止。神樹とにらめっこするような形で宙に漂っていた。

 しばらくしてトアたちも到着。

 金色の魔力が粒子のように舞っている神樹の前に、光り輝くオーラをまとうアネス。それは実に神秘的な光景といえた。


「す、凄い……」


 思わず見惚れるトアたち。

 だが、ここでアネスが予想外の行動に出る。

 おもむろにその小さな口を開くと――そこから大量の糸を放出し始めた。


「なっ!?」

「ど、どうなってんのよ!?」


 エステルとクラーラは驚愕の声をあげる。それは何もこのふたりに限ったわけではなく、声には出さないが、駆けつけた全員がまさかの事態に開いた口がふさがらない。


「これはまた驚いたのぅ……」

「ああ……」


 これまで数多の戦場を生き抜いてきた八極のローザとシャウナでさえ、目の前の光景に口数が少なくなる。


 アネスの口から放出される糸はやがて彼女の全身を隠しきる――が、その勢いはとどまるところを知らず、神樹の根にまで到達した。


「まるで繭じゃな」


 ボソッとローザがそう呟く。

 トアも第一印象はまさにそれだった。


「ふむ。あれが繭だとすると、あそこから出てきた時……アネスは劇的な成長を遂げているという認識でいいかな?」

「そうなのだ~」


 シャウナの問いかけに、リディスはいつものテンションで答える。その会話を耳にしたトアは、先ほど途中で切り上げた話題を振った。


「リディス、さっき言っていた問題というのは?」

「それなのですが~……村長~、何か気づきませんか~?」

「え?」


 リディスに言われて、トアだけでなくその場にいた全員が辺りを見回す――最初に反応したのはマフレナだった。


「わふっ! なんだか甘い匂いがします」

「甘い匂い? ……俺は何も感じないけど……エステルはどう?」

「私も特には……」

「マフレナ様は嗅覚の優れた銀狼族ですからね。僕たちよりも敏感に感じ取ったのでしょう」

「そうなのだ~。マフレナの言う通り~、アネス様は繭からはとても甘い匂いが漂ってくるのだ~」

「へぇ……でも、それの何が問題なの?」


 クラーラが素朴な疑問を投げかける。

 確かに、この程度ならば特に何も問題はなさそうに思えた。

 しかし、事態はそう簡単なものではないらしい。


「この匂いはヤツらを呼び寄せるのだ~」

「ヤツら?」

「大型昆虫モンスターなのだ~。この匂いはヤツらの大好物の果実の匂いと同じなのだ~」

「!? てことはつまり……この要塞村にその昆虫モンスターが――」

「大量に集まってくるのだ~」

「そんな……アネスが繭から出てくるのにどれくらいかかる?」

「今がちょうどお昼過ぎだから……明日の朝には出てくると思うのだ~」

 

 その場にいた全員が顔を見合わせる。

 大型の昆虫モンスターが集結すれば村民に危害が加えられる可能性が高い。おまけに繭の中にいるアネスは無防備状態。このままではアネス自身も危ない。


「……すぐに防衛体制を整えよう。クラーラとジャネットは他のみんなに声をかけて要塞村周辺の守りを固めてくれ。あと、子どもたちを外へ出さないようにとも伝えてほしい」

「分かったわ」

「お任せください」

「マフレナは足自慢の銀狼族数人を使いとして、近隣のエノドアとパーベルの町長のところに送ってもらいたい。もしかしたら、そっちの方にも大型昆虫モンスターが出現する可能性があるからね」

「わふっ!」

「シャウナさんも防衛組に回ってもらっていいですか?」

「害虫駆除か。いいだろう。たまには思いっきり体を動かさないとな」

「エステルとローザさんはここでリディスたちとアネスを守ってください」

「分かったわ」

「いいじゃろう」

「了解なのだ~」

「フォルは俺と一緒にモンスターを迎え撃つぞ」

「腕が鳴りますね!」


 トアは全員に指示を出し終えると、すぐさま行動を開始。

 要塞村の長い夜が始まろうとしていた。

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