ブラーミンモスの幼生

@saki-yutaro

ブラーミンモスの幼生

「ブラーミンモスの幼生」

咲 雄太郎


 目の前がフラッシュしたのは一瞬のことで、すぐに真っ暗になった。体が重力に従い落下する。殴られることはわかりきっていたが、想像と本物とではやはり違う。リアルのこぶしを振るわれた頬は燃えるように痛かった。それでも僕が声を出さなかったのは構えていたからという理由だけではない。声を出せばまた殴られることを知っていたからだ。いつものことさ。誰かが心の中でささやいてくる。よかったじゃないか、もうすぐ終わる。そうだ。痛みは続くがこの時間はこれで終わる。きのう殴られた右目も、おとといのあごも、三日前の脇腹もまだ痛みは残っていたが、それがどうした。この時間が続くよりは痛みのほうがまだましだ。無言のままアスファルトに倒れている僕に向かって片柳はこう言った。

「今日のところはこれくらいにしといてやるよ。次またしくじってみろ。こぶし一発じゃすまねえぞ」

 まただ。同じセリフをよくも毎日言えるものだ。同じ口調に同じ抑揚。レコーダーにでも保存しておけば楽だろうに。

「いいか明日も来いよ。逃げたりしたらどうなるかわかってんだろうな」

 そう言って僕に背中を向けると片柳たちは去って行った。しばらく地面に伏していた僕はようやく目を開けられるようになったため起き上がった。しかし途端に立ちくらみが僕を襲う。まだ足元がふらつくことに気が付いてしおしおとその場に座り込んだ。

「逃げないよ」

 小さく小さくつぶやいてみる。のどの中で空気が震えた。

 たぶん明日も殴られるとは思うけど。

そうつけたそうかとも思ったが誰も聞いていないし、ほとんど声も出なかった。僕は自分が合理的な選択のできる人間だと自覚していた。片柳たちのように感情だけで行動する野蛮なサルとは違う。相手を倒した回数が強さの度合いだと考えている奴らに対して、最善策はたった一つだ。それは殴られないことでも殴り返すことでもない。殴られる回数を減らすことだ。そのためにおとなしく言うことを聞き力に従う。仮に殴られたとしても奴らはたいてい一発で満足してしまう。なぜなら僕が抵抗しないからだ。倒れこんだまま声を押し殺し石のように不動を貫けば奴らは僕を石とみる。殴られはするがすぐに終わる。だから僕は気にしなかった。

どうやら口の中を切ったらしい。唾液でしみる頬をさすりながら、僕は起き上がる。はたから見ればその動作は旧型のヒューマノイドのように遅かったことだろう。飛んでいった鞄と散らばった鞄の中身を拾い集めながら、僕はぼんやりと考える。

今日はまだましだ。小便をかけられることもなければライターで耳たぶをあぶられることもなかった。やはり僕は間違ってはいない。黙ってやり過ごせばそれでいい。

先端が天を衝くように上にひん曲がったハンドルをつかんで僕は自転車にまたがる。これは片柳たちが力自慢だなんだといってやったことだ。ほかにも効かないブレーキや、雨の日に水や泥が背中にはねるような仕組みのフレームは全て奴らのせいだった。しかし僕にとってそんなことはどうでもよかった。毛ほども気にしないでいられた。自分の体が殴られたわけでも蹴られたわけでもない。物には替えがきくだなんて殊勝なことを言うつもりはない。ただ僕は自分だけが大切なのだ。

錆びたチェーンがギリギリとうなる。僕はいつものように帰路へと急いだ。


家に着くと僕は黙って玄関を通り過ぎ自分の部屋へと歩みを進める。両親はこの時間にはまだ帰ってこない。というよりも僕はいつ両親が帰宅するのか知らなかった。気がつくといつの間にか夕飯が部屋の前に置かれている。それは冷めていたり、まだぬくもりを保っていたりと日によってまちまちであったが、扉を開けると必ずそこに置かれていた。

両親は朝早くに、僕がベッドから起きる前に家を出てしまう。そして夜はいつの間にか帰っている。朝と夜に扉の前に置かれた食事とそれを平らげた後の空のお盆とが、お互いがお互いの存在を知らせるための定時連絡だった。そういうわけで僕ら家族の関係は希薄だった。

部屋の前には今朝僕が出ていく前と同じ状態の食器が置かれていた。どうやら彼らはまだ帰ってきてはいないようだ。部屋に入ると鞄をその場におき、机に向かって腰を下ろした。救急箱を取出しキュアスプレーをしびれた頬へと吹きかける。患部の炎症は次第におさまり、ものの五分で腫れは引いた。しかし僕は残った傷跡にスカーパッドを張っておくことはしなかった。そんな目立つものを張っていたら、明日また同じところを殴られてしまうからだ。平然と傷を残す。それが合理的なやり方だった。

手当てが一通り終ると、僕は机の上に置かれた長さ一〇センチの立方体に向かって手をかざした。その瞬間、かんなで木材を削るような音が鳴り響く。僕はいつものようにウェーブドライバーを起動させた。黒曜石のように黒光りするそいつの表面を赤や黄色や青のビームが飛び交っている。ビームは幾何学的な模様を描きながら立方体の側面をまるで生き物のように動き回っていたが、五秒後に一つの面に収束すると「Welcome」の文字を浮かべた。

続いて携帯を取り出してウェーブドライバーの端末アプリケーションを起動させる。それが始まるまでの間、僕はバイサーとイヤフォンを装着してベッドへと寝転がった。僕にとってこれら全ての動作は日々のルーティーンであった。意識せずとも次に何をするかはわかっていた。

携帯の画面に映し出されたニュースチャンネルを選択する。その瞬間バイサーによって遮光された真っ暗な視界が晴れる。やがて目の前には白くて広い空間(僕は勝手に「ホワイトベース」と呼んでいる)が現れた。ベッドの上で寝ていたはずの僕は気付くと誰もいない誰も知らない場所にいた。雪のように白く永遠とも思えるほど広いこの空間に僕が存在することを僕は少しも不思議だとは思わなかった。ヴァーチャルは時に現実よりもリアリティを生む。違和感を与えず世界と僕とを切り離す。

 しばらくすると下の方からバブルが現れた。もちろんこの世界に地平線は無い。したがってどの方向が「下」かを定義するのは意味のない事だが、わかりやすく換言するならば僕の足元からという事だ。気が付くとあっという間に僕の周りは泡だらけになっていた。僕の頭ほどある大きさのバブルが僕を取り囲む。それらはまるでひとつひとつがスクリーンのように、コマ送りの映像を映し出していた。そのうちの一つに手を触れる。その瞬間バブルははじけ、代わりに溢れるほどの情報が僕の脳内を駆け巡った。今のはどうやらスポーツ系のトピックだったらしい。例えばメジャーリーグに行ったなんとかっていう選手がひじを怪我して一時休止するという報道が各国のメディア機関を通して僕の脳へと伝えられた。それはまるでテレビの向こう側でしか見たことのないニュースキャスターが僕に直接話しかけてくれているような感覚に近い。全ては一瞬の事である。

その後僕は次々にバブルを壊し、今日の分のニュースを消化していった。この作業は毎朝テレビでニュースを見るよりも短い時間で済み、その一〇〇倍もの情報が得られる効率的なものである。特に注目している話題があるわけではなかったが、それでも僕は毎日バブルを破壊せずにはいられなかった。これを怠るとうなじのあたりがちりちりと痛痒くなるような気分に襲われるのだ。それは歯磨きをし忘れて寝入ってしまった時のような居心地の悪さに似ていた。

僕は一度ウェーブドライバーを停止させ(と言ってもバイサーとイヤフォンを無造作に外しただけなのだが)ベッドから起き上がると部屋を出た。そのままキッチンへと直行し、冷蔵庫から炭酸飲料を取り出した。そしてふたを開けておもむろに飲み始めた。半分くらいまで飲み干してから一息つく。やがて冷蔵庫にそれを戻すと再び部屋へと戻った。

お楽しみの前にはいろいろと準備が必要なのである。

僕がいつものように炭酸飲料をがぶ飲みするのはお楽しみをより楽しくさせるためである。すべてが終わった後、僕はひどくのどが渇いているだろう。きちんと水分補給をしたはずなのに、だ。さらに言えば強烈な尿意が僕を襲い、そのせいで手や脇から汗が噴き出すだろう。漏らすか漏らさないかの瀬戸際のところで僕は現実へと連れ戻されて用を足す。これこそが僕の最大の娯楽であった。

すべての準備が整い、僕はウェーブドライバーを再開させる。またしても例の透き通るほど真っ白で、無限に遠い空間があたり一面に広がっていた。僕はおもむろに右手を挙げる。すると目の前に格子状のモニター画面が現れた。ビンゴカードのようなそのモニターの一番右上を選択する。その瞬間スクリーンに「WFC社ジャパンへようこそ」の文字が出てすぐにホームページへとリンクした。僕はいつものように「コード入力」のリンクを選択しようとしてその指を止めた。

「おっと、危ない。今日はセキュリティの更新日だったか」

 ホームページの一番下にあるインフォメーションタグを直視して僕は胸をなでおろした。もしこれを見逃してそのまま入力へと移っていたら危うくセキュリティに引っかかってしまうところであった。僕は気を取り直してモニターの左上と右下、それから真ん中を選択する。これはWFC社のセキュリティを突破するための侵入プログラムである。この手のプログラムは見つけようと思えばいくらでもネットに落ちているが、なかでもこれは足のつかない最も安全なものである。三つの相関したプログラムが互いに支えあいながらセキュリティを突破していく。一つが阻止されても残りのどちらかが突破できればあとの二つはそれを学習し突破する。個数と性能の関係から最も優れたプログラムの一つである。

 それら三つのモニター格子はビンゴカードの盤の上を、まるで一昔前にはやったパズルゲームのように進んでいく。一つの空いた格子にプレートを移動させて最終的に絵をそろえるというあれのことだ。そして右上のモニターを囲うような位置に定まると、そろって攻撃を始めた。

 まずはファイヤーウォールが阻害する。

 〇コンマ二秒で突破。

 次にデュアルファイヤーウォールによる阻害。

 突破。

 最後にパスワード入力だがこれも難なく突破した。

 すぐに新しいパスコードが画面に現れた。いよいよだ。僕は胸の高鳴りを抑えきれないでいた。再びホームページの「コード入力」の画面にリンクし、先ほど入手したパスコードを入力する。その瞬間白を基調にしたスクリーンはモンタージュのように暗くて陰鬱な黒へと変わった。

「裏コード入力画面への侵入成功だ」

 思わずそうつぶやいていた。毎回この作業には肝を冷やされる。まず失敗しないとわかっていてもこの画面が出てくるまでは安心できないのだ。

「さてここからがお楽しみだ」

 僕はそうつぶやいた。自然と笑みがこぼれる。

 あとはこれに好きな英数字八文字を入力するだけ。それだけで世界中のありとあらゆるフロートチャンネルを受信できるはずである。しかもWFC社が一般向けに配信しているような退屈なものじゃない。飛び切りディープで官能に訴えるようなチャンネルが僕を待っているのだ。さあ今日はどんなコードを入力しようか。

昨日は「BLACKJ21」と入力したら全身に猫の皮を縫い付けたレイプ犯の犯行現場をその男の目線から体感することができた。その男の陰茎部分が猫のそれに酷似していたことからきっと移植手術を施したに違いない。もう一度見る気にはなれないけど悪くないチャンネルだった。それとも先週の「BIRTHDAY」にしようか。あれは確か人体展示のための死体を職人が三センチ間隔で輪切りにしていくというものだったはずだ。すべての作業が終わった後で切り分けられた肉塊に糸を通していくさまは人形でも作っているかのようで実に刺激的だった。うんあれはなかなか悪くない。

でもそれよりは…。

そこで僕は今日片柳に左頬を殴られたことを思い出した。おもむろにモニターの辞書ツールを選択して「頬」の英訳を調べてみた。

「頬、CHEEKか。他にはJOWL。よしこれだ」

 僕は急いでコード入力画面に戻り、「LEFTJOWL」と入力した。その瞬間に画面が切り替わり、一つの検索が引っ掛かった。

ヒット。僕はこぶしを握り締め歓喜に震えた。普段ならば二、三回の「Not Found」が出てくるのだけど今日はどうやら調子がいいようだ。一発で、しかもこんな誰も思いつきそうもないような単語であたりを引くとは思わなかった。運がいい。これで中身も良ければ満足なのだけど。

僕は期待と緊張を感じながらもためらいなくそのチャンネルを選択した。

その瞬間僕は真夜中の戦場に立っていた。両手にはライフルとマシンガンを掲げ、目には闇夜の暗がりにも対応できるようにNVD仕様のレンズをつけているらしい。赤外線の放つ緑色の視界がより臨場感を醸し出す。僕らはまさに目の前の廃墟ビルへと行軍している最中であった。

右耳から煩雑な騒音とともに司令官らしき人物の音声が聞こえてくる。どうやら英語ではないらしい。何を言っているのか僕にはさっぱりわからない。僕が先陣を切っているということは部隊長の目線なのだろう。これから壮絶な夜襲作戦が決行されるのかと思うと、胸の動悸は増し、一気に尿意が強くなった。

ビルまであと一歩というところまで来て、突然銃声が鳴り響く。その瞬間僕の部隊は隊列を崩し、ビルの中へとなだれ込んでいった。目線が一度後ろへと移る。入口の手前で仲間が一人倒れていた。ビルの中にはどうやらスナイパーがいたらしい。夜目の効く優秀な奴だ。僕の視線は倒れた仲間の生死を確認することなく前方へと移っていった。

しばらく通路を進むと階段が手前と奥のほうに見えてきた。後方の二人が僕のわきを通っていき、ぴったりと階段のそばへと寄って上を確認している。その際に背中のロゴマークが目に飛び込んでくる。アルファベットの「S」と「T」を組み合わせたようなそのシンボルは肩や帽子に刻まれていた。外の景色から判断するにここは中東のあたりのはずだ。おそらく反政府軍の殲滅戦か、テロリストの撲滅であろう。

そこで再び司令官からの言葉が聞こえてくる。短く二言、三言を言い放ったその口調はやけに冷たく乾いたように聞こえた。「見つけ次第射殺」僕にはそうとしか聞こえなかった。

 やがて僕たちは二班にわかれ階段を上がっていく。もうとっくに敵も気づいているはずだ。きっと上の階で迎撃の準備を整えているのだろう。

 僕たちが階段を上がり、顔を出そうとしたその瞬間再び銃声が轟いた。敵が攻撃してきたのだ。そう気づいた時にはもう僕はマシンガンの引き金に手をかけて応戦していた。視界は悪かったが、向こうに三人隠れているのが確認できた。三階へと続く階段の前に机を並べ防御壁を作り、隙をうかがって攻撃している。相手も相当場馴れしているのか二か所からの同時攻撃にもものともせずに応戦している。持久戦になりそうだと思った瞬間、僕の弾丸が相手の一人の頭をぶち抜いた。そいつは机に倒れこみだらしなく腕を垂らした。

「よしいいぞ」僕は思わずガッツポーズを決める。

 しかし僕の期待に反して二、三分は銃撃戦が続いた。やがて僕は応戦するのを仲間の一人にいったん任せ後ろへ退いた。僕の視界に部隊長がリュックから何かを取り出す光景が映る。それが手榴弾だと分かった時には部隊長の手は安全ピンを引き抜いていた。

 部隊長が何か叫ぶ。おそらく「伏せろ」とか「攻撃止め」とかいったことだろう。その証拠に銃撃はぴたりと止み、隊は階段まで引き下がった。

 投擲。

 手から離れた手榴弾はまるでスローモーションのようにゆっくりと放物線を描きながら敵に死のリズムで近づいていく。その動きは時間が伸びたようにゆっくりと、本当にゆっくりとしていた。そこで僕の視界は一度途切れる。部隊長が伏せたのだ。そしてまもなく大きな音と建物の揺れが僕らを襲った。

揺れが収まり事態を確認しようと頭を上げる。敵がいたはずの付近はひどい有様だった。机で囲った防御壁は崩れ、そのほか壁をなしていたものはすべて吹き飛んでいた。近くに三体の倒れた人間を確認する。死んでいるのか、気絶しているだけなのか判断がつかなかったが、僕らの部隊は躊躇なく手持ちのマシンガンで倒れた彼らにとどめを刺す。それが終わると僕らは素早く最上階めざし階段を駆け上がる。

そこで見た光景は僕の想像を超えていた。

最上階には男が四人いてその近くには同じく四人の子供がいた。彼らは一様に縛られた状態で口をふさがれたまま男たちに銃を突きつけられていた。

「人質だ」僕は内心の声が思わず口をついて出てしまっていた。

 僕らの部隊は全員、男たちに銃口を向けNVDで狙いを定めているが、だれもその引き金を引こうとはしていない。室内には男たちのわめき声だけが響き渡る。少しでも打つ動作を見せれば子供を殺すに違いない。中には子供を盾にしているものさえいる。万事休す。張りつめた硬直状態が続く。僕は次の展開に目を離せないでいた。

 数秒後、狙いをつけたレーザーがゆっくりと男たちの脳天からはずれ降下していく。僕はこの時正義が負けたのだと悟った。幼い子供を人質にとり籠城を決め込む悪に対して人質を思うばかりに何もできず正義は敗北するのだと。しかし僕の予想は全くの的外れだった。

 ポイントは下がり続けることなくある位置で停止した。それは人質のつまり子供の急所を照らしていた。僕がまさかと思う前にトリガーは引かれた。

一発。

縛られた子供は男の手を離れ膝から地面へと落ちた。続いて三発。仲間がそれをきっかけに残りの子供も射殺した。犯人たちは一瞬呆然と立っていたが、人質を無効化されたことに気づき、怒りをあらわにすると応戦しようと銃に手を伸ばした。しかし初動は僕らのほうが一瞬早く、彼らに抵抗を許さず銃殺した。僕はこの一瞬を「遠い」と感じながら一部始終をあっけにとられて眺めていた。人質がいるから撃ってこないだろうと高をくくる犯人たちと、残忍なほど冷徹に任務を遂行する部隊とのその「一瞬」の差は埋まらない溝のように深かった。

 僕らは八人のそばへと近寄る。当然生き残った者などいなかった。銃殺された子供の生命の兆しを失った真っ黒な瞳に僕は吸い込まれそうになる。ここで僕は哀れな子供たちに対し少しでも同情の気持ちを表してあげることができればまだよかったのかもしれない。しかし僕の心は完全に麻痺していた。頭の中でさっきまでの銃撃戦を何回もリピートしては興奮し、体中の皮膚という皮膚が鳥肌を立てて小刻みに震えていた。

 僕の視界は途切れる。バイサーとイヤフォンをはずした。ぼんやりと部屋の天井を眺める。僕は現実へと帰還した。失禁していないことに安堵するものの、すぐに尿意が洪水のように襲ってきて急いでトイレに向かった。僕はチャックを下げ、それと同時に勢いよく放尿する。今までため込んできたストレスを開放するかのようにおなかに力を入れた。作業が進むとともに肩は脱力し、徐々に冷静さを取り戻した。

 部屋へ戻ると僕は途端にベッドへと倒れこむ。そして枕に顔をうずめながらゆっくりと思案する。子供を銃殺した光景が何度もフラッシュバックし、そのたびに手首の血管がぴくぴくと脈打った。

 いったい何を思って彼らは引き金を引いたのだろう。子供の命を代償にして殺さなければならないほど犯人たちは極悪人だったのだろうか。

僕の中で正義と悪の境目は日々わからなくなりつつある。毎日ロートチャンネルで世界の裏側をのぞくたびに僕は狂気の世界へと一歩近づく。そしていつの間にか世界のありさまは逆転してこれが真実だと確信するようになっていた。


杉山隆は近所でも有名な熱血漢であった。もはや現代では死滅したその言葉をまるで古代遺跡から発掘された土器のように体現していた。困っている人を放っておけず、自分の正義に忠実で、おせっかいなほど人に世話を焼く。

はっきり言って僕は隆が大嫌いであった。

昔から正義感だけは人一倍強く片柳たちの暴挙にも唯一異議を唱えることのできた人間だったが、そのたびに彼らに殴られていた。小学校の時分、近所の公園でよくいじめられている僕を助けようとして間に入ってきたことがあったが、僕としては迷惑きわまりないことだった。隆に片柳たちをやり込めるだけの力があれば話は別だが、力も人並みに弱く現状を打開できるほどの何かを持っているわけでもなかった。むしろ彼のせいで僕は余計に殴られた。仲間をよんだとか、調子に乗るなとか、いわれのない難癖をつけられ、そのたびに体の傷は増えていった。片柳たちは力のある馬鹿だが隆は力のない大馬鹿である。

そんな彼が僕と中学での偶然の再会を果たし、いまだに僕が片柳にいじめられているということをどこかから聞き出し、自慢の正義を奮い立たせ、余計なお節介を焼くのは至極当然のことであった。

「殴りたければ好きなだけ殴れ」

 もうすでに五発もの拳を入れられ、水分がなくなるほど絞られた雑巾みたいにボロボロになっても隆はまだそんなことを口にした。再び片柳に殴られるが負けじと必死に起き上がる。

やめろ。僕は心の中でそう叫んだ。そんなことをしても意味がない。どういうわけか片柳は隆を殴ると余計にいらいらが募るようだ。そして溜まったフラストレーションを発散する相手は決まってこの僕だった。つまり隆が殴られれば殴られるだけ僕もその分殴られる。だとすれば隆のこの行動には全く意味がない。双方にとって不利益を生じる。実に不毛なものだった。

隆が殴られている間僕は自分の心配だけをしていた。とばっちりを恐れ、いつも以上に石になって身をひそめた。そして隆に片柳以上の深い憎しみを感じていた。

お前さえいなければ。僕は内心でそう叫ぶ。

お前さえいなければいつもと何も変わらないのに。

そのあと隆は二発のパンチと三発のけりをくらって力尽きた。最後の最後まで無駄なあがきを見せていたが、体のほうはいうことを聞かなかった。

隆があおむけに寝ている間、僕は拷問を受けた。いつものように殴る蹴るの暴行だけでは片柳の気分は収まらなくなっていたのだ。

やり方は単純なものだった。片柳の頭ではその程度の拷問法しか思いつかないのだ。指の爪をはがすなど実に陳腐なものだった。僕はフロートチャンネルで数々の拷問を見てきた。実行する側の時もあれば拷問を受ける側の時もある。悲痛の表情を恍惚と眺めるときもあれば、恐怖におののくこともあった。しかしどの拷問にしたって爪をはがすなど序の口でしかなかった。僕の目は世界の裏側とつながっているのだ。そんな僕に対し安っぽい拷問などするな。僕は心の底から片柳を軽蔑した。

しかし僕の心情などお構いなしに片柳はどこかからペンチを取り出して、僕に見せびらかした。それは錆びた螺子を回す時に使うようなやつだった。僕は恐怖に声も出ない。

仲間の一人が僕の右手を引っ張り地面に押し付けその上から足で踏んでロックした。片柳は僕の人差し指をつかんでゆっくりとペンチを近づける。恐怖が体にしみこむには十分すぎるほどの時間だった。

 やがて二つの臼歯が僕の爪をとらえ奥深くまで食い込む。

 べりっ。

 次の瞬間カレンダーでもめくるかのような気軽さで爪がはがれた。

 この時ばかりはさすがの僕も声を出してもよかったかもしれない。いつもなら平静を装っている僕だが、それは片柳たちを満足させるためにやっていたことだ。片柳たちの力に屈して服従すれば大概一発で済むとわかっていたのだ。屈辱さえ味わっていればそれ以上殴られずに済む。しかし今度のはまるで話が違った。片柳たちはすでに屈伏している僕になど興味はなく、問題は自分の考えた遊びでどれだけ僕を恐怖させられるかにすり替わっていた。そういう意味では今の僕は非合理的な行動をとっていたと言える。痛いとわめくことも、悲痛に泣き叫ぶこともしない。だけどそれは決して我慢していたわけではない。僕はただ声を失い茫然と痛みに打ちひしがれていた。

 片柳の拷問は続く。

 もう八月か。どうりで暑いと思ったよ。

 べりっ。

 ようやく九月に入ったっていうのにまだ残暑が続くなあ。

 べりっ。

 僕のカレンダーは次々にめくられていく。そのたびに瞬間的な痛みが襲い、そのあとで痺れるような痛みと惨めさが追い打ちをかける。僕は下を向いたままだった。

 片柳の仲間の一人が僕の頭髪をつかんでその顔を拝んだ。片柳も僕の顔を覗き込む。

 あなたの期待した顔は見れましたか?

 恐怖におびえる顔へと加工されていますか?

 僕は内心でそう尋ねるように片柳たちを見た。しかし彼らの表情は僕の考えるようなものではなかった。少なくとも遊びに満足したような愉快な表情ではなかった。それはつまり片柳たちから見える僕の顔が彼らにとって期待していたものではなかったからだ。

 そこで僕は考える。

 僕は今いったいどんな顔をしているのだろう。どんな表情で片柳たちを見ているのだろう。片柳たちの目に映る僕の顔がどんなものか僕にはもうわからなくなっていた。

「何笑ってんだこいつ」

 片柳の言葉に僕ははっとする。

そうか僕は今笑っているのか。でもいったいどうしてこの状況で笑顔なんか……。

僕は困って片柳を見る。しかし僕以上に彼の顔は困惑に溢れていた。

「気持ちが悪い」

 そういって片柳は僕から一歩引き下がる。それと同時につかんでいたはずのペンチが彼の手をすり抜け地面へと落ちた。

「お前、気持ち悪いんだよ」

 もう一度そんなことを言うと彼は後ろを向いて走り去っていった。仲間たちも彼の後を追って姿を消した。僕には何が起こったのか理解できなかった。


そのあと僕は一応隆の安否を確かめ、彼が気絶しているだけだということを確認すると隆を置いてすぐに家に帰った。彼には散々迷惑をかけられている。介抱してやる理由などどこにあるというのだ。

部屋の前には今朝のままのお盆がある。いつものように両親は不在だった。部屋のドアノブに手をかける。爪の無い三本の指がギシギシと痺れるように痛い。すでに血は止まっていたが、どす黒い血痕がマニキュアみたいにこびりついていた。僕はいつものように机の前へと腰を下ろすが、いつものように傷の手当てはしなかった。もしもこの趣味の悪いマニキュアが爪の代わりとして役に立つなら、まあそれはそれで悪くないと考えたからだ。

僕は黙ったまま一人真剣に考える。指が七本も無事で済んだことに僕は不思議でたまらなかった。あの時の不本意な笑顔が片柳に一体何を与えたのだろう。奴の目はあからさまな不審を訴えていた。まるで飼っていたダルメシアンの斑模様の色が翌日には反転していたかのような薄気味悪さと混乱が宿った目である。これはよくない兆候だった。この奇妙な出来事は僕らの「いつも」に変化を与えた一つの分岐点になるかもしれない。これによって事態がどうなるかなんて僕の知るところではないけれどまず良くはならないという事は直観した。

とはいえ、考えても仕方のない事にいくら時間を費やしても無意味な事は明白だったので僕は僕でいつも通りの行動を取ることにした。少なくともその時はそうしようとしていたんだ。僕はウェーブドライバーを起動させた。

一連の動作を終えて僕はベッドへと倒れ込む。スイッチオン。ホワイトベースがいつものように僕を迎え入れた。しかし僕のいつもはここで終わった。

もし今日の出来事がなければきっと何もかもが不変なままだったはずだ。僕は変化を望まない。しかるべき時が来るまでいつもは続く。しかし皮肉にもそのしかるべき時を招いたのは僕自身であった。

告白すれば僕は動揺していた。そしてかつてないほどの動揺は僕から習慣を奪った。バブルを壊さなかった日は三年間で初めてだった。

無意識に格子モニターを出現させる。この時点で自分の過失に気付いていれば何かが変わっていたのだろうか。いやそうはなるまい。僕は右上のモニターにカーソルを合わせWFC社のホームページを開いた。すぐにコード入力の画面へと飛ぶ。打つコードは既に決まっていた。

「WORLDEND」

そう打とうとして右腕を上げる。その時ふと自分の指先へと意識が向いた。その瞬間先ほどまで少しも気にしていなかった指の痛みが僕を襲う。そして指先に目をやると現実同様に黒く変色していた。

これは認識の錯綜が引き起こす一種の相互作用である。基本的に視覚と聴覚の感覚を集中的に高めるウェーブドライバーは反対にその他の感度を著しく低下させる。そのため片柳に負わされた傷の痛みのような感覚を一時的にではあるが無視できるまで忘れることができるのだ。しかしそれは認識しないだけであって、ひとたびそのことが意識にのぼれば痛みは再び襲ってくる。そういう状態が今の僕に起きていた。

キータッチに触れようとした手がひくひくとこわばる。本来ならばここで文字盤に手を触れても痛みが誘発されるという事はないが、今やもうその情景を僕は認識してしまっている。しかたなく薬指を使いながら慣れない手つきで入力した。

この時僕は確かに「WORLDEND」と入力したはずだった。

エンター。

次の瞬間僕の視界は真っ暗になった。

「何が起こったんだ」実際にそう呟いたかどうかは定かではないが、この真っ黒な視界は人の声などかき消してしまうほどの深い闇だった。

まずはじめに僕の頭にはシステムの故障のことが浮かんだ。例えばWFC社との接続が何らかの理由で切れたか、そうでなければセキュリティプログラムが作動し強制的に接続を絶ったのか。もしそうだとしたらこちらのテリトリーへの侵攻を許したことになる。しかしその考えはすぐに消えた。なぜならば僕の意識はいまだにダイヴ中であったからだ。ウェーブドライバーに不慣れな人間であれば暗くて静かな空間がリアルのものであるのかヴァーチャルのものであるのかを判断するのは不可能に近い。ところが僕はこの世界に三年いる。だから視覚と聴覚のみが働く二感制限の世界と、五感が満足に機能する現実との微妙な差異を区別することができた。例えば地球にいるだけで万人が享受するはずの重力。その力は僕の体を上から下へと押さえつける。それがベッドに歪みを生み、わずかな反発が背中の感覚を通じ僕の神経に訴えるのだ。しかし今はそれがない。ということは僕はまだ現実へ戻ってきてはいないという事だ。

ゆっくりとまぶたが開く。見慣れない天井が僕の視界に覆いかぶさる。

そうか飛んだんだ。僕は飛んだんだ。あの甘美で刺激的な異国のフルーツのような世界に再び足を踏み入れたんだ。

目を覚ましたという事実に気付く前にフロートチャンネルが始動したことを僕は知った。

誰かの視界でまばたきが数回起こる。そいつはゆっくりとした動作で起き上がる。ここはどこですか。私は誰ですか。たとえ僕じゃなくてもそう尋ねておかしくないほどそいつは不必要に辺りを見渡していた。視界が左右へと揺れる。まるで寝ている間に自分の居場所を強奪されてしまったかのような奇妙な違和感を覚えているらしかった。しばらくしてそいつの焦点が部屋の扉へとあつまる。その扉はまるで派手な額縁で囲まれた絵画のようであった。扉の紙一枚が通るかというほどの狭い隙間からだいだい色の光があふれ出していた。その光は扉の輪郭を鮮やかに捉え、まさに扉が絵画そのもののようである。いやもしかしたらもっと原始的なものに近いのかもしれない。例えばそう版画だ。あふれ出す光線の妙な荒々しさはぴっちりと規定通りにおさまる額縁というよりは彫刻刀によって掘られた筋に似ていた。人の手によって刻まれた不安定な直線。しかしそれでいて扉そのものの存在をひときわ浮き彫りにする。

もし感性が豊かで美的感覚が鋭い者であれば、この光景に思わず惹きつけられるかもしれない。ある種の恍惚を抱き一つの芸術作品と相対したときの感動を呼び起こしてもおかしくはない。たとえそれが大袈裟であったとしてもまっとうな心の持ち主であればその扉に好奇心を抱くのは至極当然なことである。まあまっとうでない世界に三年も浸り続けている僕が言うのもおかしなことだが、少なくともこの状況では万人が同じような行動を取るに違いない。視界を共有するそいつも例外ではなかった。

そいつは扉へと近寄っていく。僕の視界は扉から漏れる光を捉えたまま徐々に扉との距離を縮めていった。そいつの右手がドアノブに触れた。

これから一体何が待ちかまえているのだろう。新しい世界への切符を手に入れたみたいに僕の心臓は高鳴っていた。そして扉が少しだけ開き、次に勢いよく全開した。

目の前には燃え盛る業火が辺り一面に広がっていた。炎はうねりをあげて来るものの侵入を阻むかのようだった。

そいつの左腕が咄嗟に顔を覆う。熱風か何かが襲ったのかもしれない。しかし五感を制限されている僕にはそれがどの程度熱いのかまるで理解できなかった。ただ腕の隙間から覗く炎の海とそれが起こす轟音が僕の頭を混乱させた。

僕はふと昔見たチャンネルの一つを思い出す。それは麒麟の斬首映像だ。刃がタイヤほどある大きさの鎌を持った処刑人がうつ伏せになっている麒麟の首を切り飛ばす。その瞬間、麒麟の頭が乗っていたはずの部分から噴水のように勢いよく血が吹き出した。あの長い首を通過して頭部に血液を送りこむために麒麟の血圧は人間のそれを優に上回る。したがって首を切断すればホースで大量の水を撒くみたいに、辺り一面に麒麟の血液が飛び散るのだ。さらに切り捨てられた頭部が視界に映り、真っ黒な有機物としての瞳と目があったことは忘れたくても忘れることができない。視界を飲み込むほどの業火は噴射した麒麟の血液を彷彿とさせた。

そいつはしりもちをついて揺らめく炎に見入っていた。僕も見入っていた。そのせいで扉に燃え移った炎が部屋へと侵入してきてしまったということも知らずに。気付いた時にはもうすでに遅く、はじめに本棚へと引火した。続いてそっちに気を取られているすきに壁やら天井やらに火の手が伸びる。視界は煙で覆われ、もはや扉を閉めるどころではない。そいつは部屋の奥へ奥へと後退していく。出口は塞がれた。他に逃げるところは……。

そこでそいつが後ろを振り向いた。窓がある。煙を吸い込むまいと姿勢を低く保ったままそいつは窓までにじり寄っていく。そしてカーテンに手をかけると勢いよく引いた。窓に映ったそいつの顔を見て僕は驚愕した。

そいつは確かに片柳だった。あの忘れようもない、釣り上がった細目と大きな口、さらにその口を開いた時に見えるグロテスクな矯正器具。あいつの矯正器具が姿を見せるのはたいていひれ伏す僕を見て笑っている時だった。その顔が迫りくる炎によって恐怖へと歪んだ様子が驚くほど鮮明にガラス窓へと反射していた。そんな僕の心情など知る由もなく片柳は窓を開け、なんとかベランダへと這い出る。火の熱さと煙の息苦しさのせいで咳が止まらず身をかがめながらも更に先へと進んでいく。端まで来ると勢いよく欄干に身を乗り出した。そこから映る光景はまさに絶壁であった。片柳が今どんな表情で遠く離れた地面を見ているかを僕は見ることはできなかったが、それでもそれを想像するだけで興奮は止まらなかった。後ろから迫る火の手。このままここにいても炎に焼かれるか煙で窒息するかで死んでしまうのは明らかであった。かと言ってベランダから下へ飛び下りることもできない。それは自殺行為に等しい。視界が左右を行き来するが角部屋の孤立したベランダに逃げ場はなかった。片柳は怯えきった声で助けを呼ぶ。その声に僕を脅す時のような威勢は無く、不幸にも強風によってかき消されてしまう。いよいよ煙が肺へと充満してきたのか呼吸が荒くなり下を向いたまましゃがみこむ。もはや逃げられぬ選択。片柳のリミットはすぐそこまで迫っていた。

そして次の瞬間。意を決したのか、片柳は体を勢いよく起こし欄干に足をかけると躊躇いなく飛び下りた。


熱い。ひどく熱い。圧迫するような熱さと息苦しさとで体の内側までも焼け焦げてしまいそうだ。僕はどこの部屋とも分からない場所で炎に囲まれている。出口は燃え盛る炎によって塞がれていて逃げられない。振り返ると外へとつながる窓があった。僕は這い寄りながらも窓へと近づく。カーテンに手をかけ勢いよく引いた。そこに映るのは僕だった。顔の左半分の皮膚が焼けただれている。皮膚が水飴みたいに僕の顔から垂れ落ちる。皮膚の下には苦痛にゆがんだ片柳の顔があった。恐怖で腰のあたりがむずむずと、いやぞわぞわとする。自分の敏感な部分が星の最後を飾るノヴァのように爆縮した。

僕は自分が目を覚ましたという事に気付いて混乱した。なぜならそれは僕が眠っていた事を意味するからだ。考えるよりも先にバイサーとイヤホンを乱暴に外していた。時計を見ると四時であった。それが夕方を示していない事は考えるまでもなく分かった。しばらくぼうっと時計を眺めていたが体を起こそうと力を入れる。そこで下半身に違和感を覚える。腰のあたりの感覚が曖昧ではっきりしない。やがて僕は直感した。おもむろにパンツの中へと手を伸ばす。さきほどまでのそれが確信へと変わる。僕はどうやら夢精してしまったらしい。濡れた手が光を乱反射している。それを鼻のあたりまで近づけてにおいをかいだ。特異臭が鼻を突くが不思議と不快ではなかった。全身に震えが走るが寒さのせいではない。そして僕はシャワーを浴びようと起き上がった。


「片柳君が死んだんだって」隆は僕にそう言った。

僕はシャワーを浴びたあと、再び眠る気にもなれず、かと言って学校に行く時間になるまで部屋でじっとしているのも馬鹿らしいと思ったので、準備を済ますとそうそうに家を出た。それは普段よりも考えられないくらい早く、おかげで両親とも顔を合わさず出発することができた。本来ならば自転車で二〇分かからない道のりを徒歩で、しかも遠回りのルートでおよそ一時間半かけて僕は学校に到着した。それでも学校には生徒の姿はほとんど見受けられず、まるで世界に僕一人しかいないかのような錯覚に陥った。

僕は自分の席につくとモバイルで昨日のニュースを見始めた。軌道から外れかけた日常を必死に修正し元に戻そうとするかのように、僕は情報の消化に没頭した。世界と隔絶された場所で世界の様子を受信していた僕を戻りたくもない現実に引き戻したのは「おはよう橋場君」という隆の声だった。僕はモバイルから隆の顔へと視線を移した。しかしその顔はいつもと違っていた。その時は特に気にも留めず、ついでに隆の挨拶をことごとくスルーした僕であったが、今思うと隆のあの顔は大切な知らせがあるのにそれを打ち明けるべきなのか分からないといったものだった。しかし放課後、僕が帰宅準備をしていると隆は今朝と同じような表情で「ねえ橋場君、実は片柳君が死んだんだって」と唐突に言った。

「何の冗談?」僕はそう聞き返しながらもそれが冗談だとは微塵も思っていなかった。

「嘘じゃないよ。彼と同じ学校に通っている僕の友達の一人が今朝道端で会った時に教えてくれたんだ。夜明け前ごろに片柳君が死んだんだって」隆はもう一度その言葉を繰り返した。

「でも一体どうして?」

 この時すでに僕の頭には心当たりという新芽が芽生えていた。

「どうやら自宅のマンションから落ちたらしい」

「自殺?」

 隆は首を横に振る。

「家が火事になって逃げ場がなくなって……」

 語調から明らかに隆が動揺しているのが伝わってきた。しかしそんな彼を気遣っている余裕などこの僕にももはや無くなっていた。昨日のあの映像がフラッシュバックする。うねりをあげる業火の中を這いつくばりながらも逃げ場を求める片柳。行き着く先に地獄が待っているとも知らず最後の力を振り絞り落ちていった片柳。そして僕は気付く。あれはヴァーチャルではなかった。現実の「死」だ。そして恐らく原因は…。

 僕は無意識に立ち上がっていた。そして隆を押しのけるようにして教室を出る。背後から隆の叫び声が聞こえたが構わず走りだした。僕には確かめなければならない事がある。

 家の玄関を開け、靴を乱暴に脱ぎ捨てると、急いで自分の部屋へと向かった。部屋の前に置かれたお盆に目がとまる。昨日の夕食は綺麗さっぱり片付けられていて代わりに今日の朝食がそこには置かれていた。僕はどうしようもない虚しさに襲われる。両親は僕がいるかどうかすら関心がないのだとこの時になって初めて気付く。彼らにとっては全てがルーティーンなのだ。毎日決まった時間に料理を作り、部屋の前に置く。この時前の料理が残されたままでも関係ない。古いお盆を下げ新しいお盆を置く。ただそれだけなのだ。そこに僕は関与しない。僕は珍しく自分の血が熱くなっているのを感じた。そして怒りの命ずるままに今朝の朝食をお盆ごと蹴散らした。その瞬間さっきまでの燃えるような思いが急激に冷めていくのを感じた。それはストレスを破壊行為によって発散できたからではなく、そんなことをしても無駄だという事がわかったからだ。そう彼らにとっては空のお盆も、散らばったお盆も大して変りないのだ。彼らはなんともなしに部屋の前を掃除し、片付け、新しいお盆を持ってくるであろう。それが分かったから僕の心は冷めきってしまったのだ。

 僕は部屋へ入ると真っ先にウェーブドライバーを起動させた。その間に全ての準備を整える。これも日々のルーティーンであるにもかかわらず、この黒い立方体の箱が起動するまでの間、僕の心は落ち着かなかった。バイサーとイヤホンを装着。そして僕は飛んだ。

 お馴染のホワイトベースに到着し、やはりお馴染の格子モニターを出現させる。僕には確かめなければならないことがある。昨日のフロートチャンネルで見た映像と、その延長線上にある夢、そして突然死亡した片柳の一件。全てが無関係であるとは思えなかった。フロートチャンネルのコード入力へとアクセスする。そして検索履歴を選択し昨日僕が入力したコードを確かめた。

「やっぱりか」無意識にそう呟いていた。

昨日僕は確かに「WORLDEND」と入力したはずだった。そして本来ならばすぐに検索エンジンは該当するフロートチャンネルを割り出し、検索欄へと表示させるはずだ。僕が見たかったのは核実験によって廃墟と化すある孤島のヴィジョンだった。しかし実際はそうはならなかった。代わりに別のヴィジョンが映し出され気付いた時には朝だった。その原因は履歴を見てすぐに分かった。

「WOULDEND」一文字ずつなぞるようにその言葉を口にする。

 僕はどうやら打つ文字を間違えていたらしい。「R」が「U」になっている。これでは「WORLD」ではなく助動詞の「WOULD」だ。一体どうして入力ミスなんか……。僕は昨日の記憶をたどる。そして文字入力の際に一度トラブルが起きた事を思い出した。あの時片柳に潰された指の痛みが僕を襲ったのだ。そして慣れないやり方でコード入力をすることになった。恐らくあれが原因だろう。しかし入力ミスで別のチャンネルが引っ掛かったのは珍しい事だった。そのせいであんなヴィジョンを見る羽目になってしまったけれど。入力画面には「WOULDEND」という文字がまるで僕を誘っているかのようにそこに表示されていた。

もう一度やってみるか?僕は自問する。

でももしも見たくもない死が映し出されたら?僕の気弱な部分がそれにストップをかける。僕にとってそれが一番の不安だった。苦痛にゆがんだ片柳の顔。今度は僕自身がそうなってしまうかもしれないのだ。得体のしれないものへの恐怖が僕の好奇心をあと一歩のところで踏みとどまらせた。ウェーブドライバーを停止させ僕はベッドへと倒れ込んだ。


しかしその三日後、僕は再びそのチャンネルを開いてしまう事となる。そしてそれは丁度片柳の葬式が開かれた日でもあった。僕は片柳の死をこの目で確認したかった。奴が死んだという事実をもっと強固な物として僕は受け入れたかった。そうでなければ一体どうして敵の葬式などに顔を出すというのか。

霊柩車へと運ばれる片柳の遺体が入った棺桶と、それに必死にすがる片柳の母親と思われる人物の姿を見た時、僕の心は安堵で満たされていた。母親の顔はひどいもので、絶望に暮れる彼女を黒い喪服がさらに絶望へと追い込んでいるかのようだった。僕は片柳の母親に同情することはできる。最愛の一人息子を失った彼女を心底かわいそうだと思う。しかし片柳に対して、僕に同情の余地は微塵もなかった。何年間もいじめられ続けた人間が今ようやくこの世から去ったのだ。僕の心は母親に抱いた気持ちとは見事なまでに対照的だった。

ここには三種類の人間がいる。死を悲しむ者。悲しむふりをする者。そして僕。

奴と同級生だったものはほとんどが悲しむふりをしているにすぎない。女子の中には目元にハンカチをあてて肩を震わせているものもいるが、あれはポーズだ。たとえ本当に悲しんでいるのだとしてもそれは泣き崩れる片柳の母親を見て、もし自分がその立場だったらと考えた時にいたたまれなくなって起こる涙だ。本人に対しての涙ではない。そんななか僕だけが片柳の死を喜んでいる。悲しむのでも悲しむふりをするのでもなく。その実感が僕に優越感を与える。そしてわざわざ「悲しむふり」などという面倒なことをしている彼らに僕は辟易した。

帰る前にもう一度棺桶の方に目をやる。そこでふと片柳の母親と目があったような気がした。一瞬の事で間違いかとも思ったが、あれは僕をずっと見ていて僕と目があったから逸らしたというような感じだった。しかし僕は今日初めて彼女を見たし、まさか数多くいる群衆の中の僕一人に目を向けているとはちょっと考えられなかったので、僕は特別気にもしなかった。そう、その時は。

 

「おい橋場」

帰り際に自分の名前を呼ばれ振り返るとそこには片柳の仲間がいた。彼らの目には明らかな嫌悪と侮蔑が浮かんでいるのを僕は感じた。

「何か用?」僕はそっけなく返す。そしてなんとか相手と目を合わせないように下を向いた。

「なんでてめえがここにいるんだよ」片柳の一番の部下だったそいつは言った。

「えっと、それはその…」

 僕は返答に困り一歩退く。まさか奴の死を直接この目で確認しに来ましたとは言えない。

「元同級生の葬式だったから」そこでなんとか言葉を絞り出すが動揺は隠せなかった。

「嘘つくんじゃねえよ!」

 そいつはぴしゃりと言い放つ。

「どうしててめえをいじめてた相手の葬式に顔を出すっていうんだよ」

 まさに正論である。僕はニの句もつげない。

「どうせ内心では喜んでやがったんだろ。ようやく解放されたって」

 またもや正解である。僕は自分の気持ちを知られた恥ずかしさで今すぐここから逃げだしてしまいたいという衝動に襲われた。

「こいつ、本当にむかつくぜ」

 痛いほどの敵意を向けられて僕は困惑する。そして先ほどまでの衝動は何が起こるのだろうという恐怖のため、より一層強まった。

「おい、逃げようなんて考えるなよ」

 僕はその言葉で全身が氷のように固まる。そして次の瞬間そいつの仲間の一人が僕の首根っこを後ろから縛り上げた。僕は観念してなすがままにされる。この体勢のまま僕が連れて行かれた場所は人気のない袋小路だった。

 そして僕は殴られた。殴られ、蹴られ、潰された。痛みによって思い出すのは、なぜか死んだ片柳の顔だった。奴はいつも笑っていた。そして笑うたびに見える矯正器具が僕に終わりのない恐怖を与えた。朦朧とする意識の中僕は気付く。片柳はまだ死んでいない。苦痛と共に奴は記憶の中へと戻ってくる。僕にとって痛みそのものが片柳なのだ。

ようやく暴力の嵐がやみ、僕は息を整える。腫れあがった目のせいで視界がぼやけ上手く周りが見えなかった。ぼんやりと映る人影が僕の方に近寄ってくる。そいつは倒れている僕の胸ぐらを勢いよく掴むと壁に押し付け起立させた。

「てめえの一番気に食わねえのはな、常に無抵抗なところだよ。殴られるのが当然って顔で殴られやがる。片柳が死んだ前日の事覚えているか?お前、爪はがされて笑ってたよな。そのとき心底薄気味悪いやつだと思ったぜ。お前みたいなやつはぼこぼこにしてその平然とした面を苦痛に歪めないと気が済まねえんだよ。それでも許しを請わねえようなら更にぼこす。たとえ泣きながら謝ってきても構わずぼこす。そうすりゃもっとひでえ顔が見れるからなあ。いいか忘れるなよ。てめえは絶対逃げられねえ。俺たちがそうはさせねえ。一生な」

 そいつは最後にそう言い残し、ついでにお腹に一発蹴りを入れるとその場から立ち去って行った。僕はしばらく恐怖で動けなかった。三日前までは平気で片柳に痛めつけられていた僕が今では全身で苦痛を拒絶している。もうあの時のような生活には戻りたくない。僕は本心でそう思った。震える手で壁にもたれかかりながらゆっくりと起き上がる。そして牛歩のようにのろまな足取りでアスファルトを進んでいく。ふとカーブミラーに僕の顔が映る。よくみると僕の顔はひきつっていて、そのせいで口角が上がりいびつな笑顔を浮かべているようにも見えなくもない。あるいはカーブミラーの微妙な曲折がその笑顔を生んでいるのかもしれない。いずれにせよ、今の僕は心と表情があべこべだった。

その笑顔が意味するもの。そうあの時と同じだ。僕はすぐに察知した。三日前、偶然にも体感することになったあのヴィジョン。僕はもう痛みから解放されたかった。

「WOULDEND」

 ウェーブドライバーを起動させ、コード入力にこの言葉を打ちこむことにもはや迷いなど無かった。このチャンネルがホンモノであることは確信している。僕にはこの言葉が用心棒よりも心強く、核兵器よりも強力なものに思えた。僕はこれに賭けるしかないのだ。たとえそのせいで死んでも、生きて苦痛を与えられ続けるよりはましなのかもしれない。そんな諦めのような覚悟で僕は飛んだ。


 前回よりも僕はずっと冷静だった。だから今いるこの場所がこの町一帯を通っている地下鉄の線路の上だという事がすぐに理解できた。プラットホームに掲げられた駅名を見てさらにその確信を強める。そいつに何が起こったのかはわからないが、周囲の人間の悲鳴を聞く限り故意に下に降りたのではなさそうだ。そして全ての音は前方から迫りくる電車の轟音によってかき消された。


 再び夢を見た。僕は向かってくる鉄の塊から必死に逃げていた。誰が見ても追いつかれるのは必然で、はねられるのは時間の問題だった。ところがその時間がいつまでたってもやってこない。僕は時間が引き延ばされている事に気付く。極限まで時間が経過しても極限まで追いつかれることはない。終わらない追いかっけっこはすなわち終わらない恐怖を意味していた。まるでアキレスと亀のようである。アキレスは永遠に亀に追いつくことはできない。しかし現実にはその瞬間はやってくる、不可避の事象だ。僕は体がぞくぞくと反応している気がした。もちろん二感制限によってあくまで「気がした」だけなのだが。永遠とも思える時間が経過した後、僕は目覚めた。

 前の時と同じだった。死のヴィジョンを見た後に今度は僕が夢の中で死を体感する。どこまでがチャンネルでどこからが夢なのか僕には区別がつかなかった。ただ前回と違うのは夢精をしなかったという事だ。目覚めた時に強烈な尿意を感じただけで、体が麻痺しているような状態にはならなかった。僕はやはり前回と同じようにシャワーを浴びようと脱衣所へ向かった。

片柳の仲間の死を僕が知ったのはその日の夕方であった。彼らとは片柳のような直接的な接点はなく、そのため彼らに関する情報は入ってこない。彼らのうちの誰かは確実に死んでいる。僕がそのヴィジョンを見たからだ。しかしその確認が取れないせいで僕は焦燥に駆られていた。ところが思わぬところで僕はそのことを知った。バブルだ。まさか世界各地の情報が飛び交うバブルの中に自分の街の事件が含まれているとは思わなかった。この事件がどれほど重要視されているかはわからないが確かにあったのだ。チャンネルの中のアナウンサーが淡々と述べる記事の中に、僕の知っている場所と知っている人物が現れた。そしてそいつは地下鉄の人身事故に巻き込まれ死んだと報道されていた。

僕はいよいよ例のチャンネルの力を思い知った。あのチャンネルは人の死を映す。そして過去二回の経験から、恐らく本人に強烈な印象を与えた者、あるいはそのチャンネルを見る直前に意識に上った者がその対象となる。なぜならば片柳の時は僕がコード入力の際に偶然指の痛みを認識し、それと同時に爪をはがされた時の情景も思い出していたからだ。その時真っ先に浮かぶ人物と言えば無論片柳である。そして二回目の時も片柳の仲間と別れた直後に衝動的に例のチャンネルを開いた。もしこのチャンネルに映す人物をコントロールすることができれば僕に殺せない者はいなくなる。たった八文字のコードが死を招く。僕にはこれが神様にも死神にも見えた。


翌日と翌々日には片柳の仲間を二人殺した。これでようやく僕は片柳の呪縛から解放されたことになる。

そして次の日には学校の担任を殺した。奴は前々から僕を気に入っておらず、面談の度に「お前の将来が心配だ」とか「お前はそれでいいのか」と見下すように説教を垂れるろくでもない人間だった。やたら「夢」や「希望」という言葉を強調し、それを持っていない人間を排除するような姿勢を取る。さらにその夢や希望にも奴独自の基準があるらしく、格の低い夢はそうそうに排除される。僕にしてみれば奴もまた敵の一人だった。無責任な善意で人を縛る、傲慢で支配欲にまみれた汚い大人だ。だから殺してやった。奴は自宅への帰り道を歩いている途中で通り魔に刺された。あとで知ることになったのだがその刺した犯人は奴の元教え子だったらしい。夢や希望といったまやかしの言葉で人を縛り、他者の進路を強制し矯正してきた奴にとってはいい末路である。

そうやって僕は気に入らない人間を次々に殺していった。前の担任のように僕を縛る教師はみんな殺した。クラスでリーダー気どりになって人を支配する奴らも殺した。そして遂には隆も。

隆には片柳の件でさんざん迷惑をかけられてきた。奴が僕をかばうせいで僕は更に殴られる。爪をはがされた日の事だって根本をたどれば隆が原因だった。奴にとっての善意は僕にとっては悪意そのものだった。だから僕は隆を殺した。今までの報いというわけだ。

しかしそこで奇妙な事が起こる。奇妙というか違和感を覚える出来事だ。隆は確かに死んだ。雨の中自転車で走っていたところを前から接近してきたトラックにはねられた。まさに僕がチャンネルで見た通りの死に方だった。しかしその時間帯がおかしかった。隆の死は翌朝のニュースで報道されたのだが、それを見て僕は首を捻った。死亡した日付が昨日になっていたのだ。そして時間も僕がまさにチャンネルを開いた時刻と同じであった。隆が死ぬとすれば今日である。なぜ一日早まったのだ?そんな疑問が頭をよぎる。しかし隆が死んだというのは紛れもない事実だった。だからこの時僕は大して気にとめてはいなかった。この意味を深く考えようとはしなかった。せめて杞憂に終わればいいなと無責任に思っていたんだ。


両親に敵意を感じたのは隆が死んで数日が経ってからだった。その前日に僕は警察から事情聴取を受けた。と言っても学校のほとんどの者が受けており、その原因は連日続いた死亡事故および事件のせいだった。偏った地域であまりに人が死に過ぎたのだ。このことに警察が何らかの関連性があるのではないかと勘ぐっても無理はない。しかし死亡した者のほとんどが事故であったため事情聴取などしても無意味な事は明らかである。そしてやはり何の収穫も得られぬまま警察は帰っていた。しかし問題はその後だった。僕が警察に取り調べを受けた事が両親に知られたのだ。どうやら学校の方から親に連絡を回したらしく、しかもその説明が悪かったせいか帰ってきた両親は予想以上に取り乱していた。彼らと久しぶりに顔を合わせるのがまさかこんな形になるとは思わなかった。リビングに家族がそろい、重々しい空気の中話が始まった。

「警察が来たそうじゃないか。いったいどういうことなんだ、勤」

 そう切り出したのは父親の方だった。

「別に」

 僕はそっけなく答える。

「答えになってないぞ」

「だから、最近うちの学校の奴らが結構死んでるだろ?それで不審に思った警察が生徒一人一人に話を聞いているんだよ。僕もその中の一人だって」

「クラスメイトのことをそんな風に言うんじゃない!」

 父親はそこで怒鳴った。僕は不快感を顔で表す。

「お前はいつもそうだ。自分以外の人間のことを考えようともしない」

「……」

「そんなんだから警察に疑われるんだ」

「……」

 しばらくの沈黙が訪れる。気まずそうに話を再開したのは母親の方だった。

「ねえ勤君、聞いて。お願いだからよそ様の迷惑になることだけはしないでね」

 僕はその言葉に体のあらゆる水分が蒸発するほどの怒りを感じた。その場で勢いよく立ちあがるとリビングを出て自室へ戻る。後ろから両親の叫び声が聞こえたが構わず鍵をかけた。

 僕は奴らに幻滅した。警察以上に実の息子を疑っている父親と、僕が迷惑をかけないかどうかという心配しかしない母親。僕の怒りは収まらなかった。

 殺してやる。僕の心に殺意が芽生える。そして今や僕はそれを叶えるだけの力を持ってしまっている。たった八文字、WFC社のコード入力欄にたった八文字打てばそれで終わりなのだ。

 僕は翌日一日かけてチャンネルを二度開いた。一日に二回死のヴィジョンを見る事は初めてであったが、どうしても奴らを二人一緒に葬り去りたかった。初めは父親の死であった。奴は運転中にトンネル内の岩盤崩壊の下敷きになって死んだ。その横に女の姿、すなわち僕の母親の姿を確認できたことから、もしやと思い二度目にチャンネルを開くと彼女もまた同じような死に方だった。僕は奴らが二人同時に死ぬ事が無性にうれしかった。そして夢から目覚めた時すでに翌朝になっていた。僕は着替えを済ませ家を出る。その時に駐車場を確認すると両親の車は消えていた。きっともうすでに出発しているに違いない。僕の心は途端に晴れやかになった。


 僕は学校までの道のりを歩く。

邪魔者は消えた。敵は滅びた。

怖いものなど何もない。

この八文字が僕を守ってくれるのだ。

僕は浮かれていたせいか後ろから迫る人影に気づくことができなかった。急に肩を叩かれ思わず後ろを振り向くとそこには見知らぬ女性が立っていた。

いや違う。

ごく最近に見かけた事がある。僕はパズルを合わせるみたいに記憶の切れ端を集めてその女性を特定しようと努力する。四、五〇代の年季の入った顔と何日も寝てないと思われるほど目の下にくっきりと浮かんだ暗い隈。そして気分を重くさせるような真っ黒な喪服。そうだ。そこで僕の固まった記憶が溶解する。この人は片柳の母親だ。僕は葬式の日、涙を流しながら息子の入った棺桶にすがりつき、悲しんでいた女性の姿をぼんやりと思い出す。

「あのう、橋場勤さんよね?」

 目の前の女性はゆっくりとした口調で僕の名前を口にした。

「はいそうですが……」

 僕は生唾を飲み込む。一体どういうわけでこの人は僕の名前を知っており、僕に会いに来たのだろうか。

「片柳の母です」

 目の前の女性は一度お辞儀をすると猫背の姿勢のまま上目遣いに僕を見つめる。僕は片柳の母親と目が合う。この時葬式での帰り際の出来事がふと甦ってきた。そうあの時も僕はこの人と目があった気がした。そしてそうと気がつく前に目を逸らされたのだ。

「突然で悪いんだけどあなたに見てもらいたいものがあるの」

 片柳の母親は重く沈んだ声でそう言うと喪服に不釣り合いな買い物バッグから一冊のノートを取り出した。

「ええっと、これは一体?」

 僕はそれを受け取るとすぐ聞いた。

「死んだ息子の日記よ」

 僕は母親の予想外の言葉に目を丸くする。お宅の息子さんは日記なんてまめな物を常日頃から書くような人間だったんですか。そう聞こうとして僕は口をつぐんだ。ただ曖昧に「日記ですか、はあ」と言ってもう一度そのノートを眺める。

「日記と言っても最期の一週間くらいの出来事がただ乱雑に記入されただけのものなのだけど……」

「それをどうして僕に?」

 僕は一番の疑問を彼女にぶつける。

「実はあなたにどうしても見せたい部分があって…」

 母親はそう言うなり付箋の貼ってあるページを開いて行の初めを指さした。

「ここよ」

「読めば、いいんですか?」

 本来ならば読んでもいいんですかと聞くべきだったのかもしれない。しかし母親は無言のまま僕を見つめていた。僕はその日記を読み始める前にもう一度目の前の女性を眺める。片柳の母親はノートが入っていた買い物バッグに右手をいれたまま立っていたがその表情に色は無かった。

僕は状況の整理がつかないまま母親が示した部分に視線を移す。タイトルは無くいきなり日付と曜日が書かれている。その日記はこんな書き出しから始まっていた。

『今から思い返してもあれが現実に起こる事だったなんて信じられない。夢か幻のようなものに騙されているみたいだ。あのチャンネルを見てから約二週間後の今日、横溝の野郎が死亡した』

 僕はそこで驚きのあまり目をみはる。呼吸すら忘れるほどの勢いでこの日記を読み進める。

『偶然発見したチャンネルが人の死を映すものだとは思わなかった。横溝は警官の鏡と言われるほど正義感が強い。あの日だって俺の万引きを検挙し、一時間以上も説教を垂れたうえに親や先公にまでちくりやがった。そのことにむしゃくしゃしていたのは確かだがまさか死ぬだなんて思ってもみなかった。あのチャンネルはただ気に入らない奴の疑似的な死を映し、体感者を満足させるためのものだとばかり思ってたんだ。だけど実際にその死は起きた。しかも死に方すらその通りに。俺は今とても混乱している』

 僕は思わず声をあげそうになる。日記に書かれた「チャンネル」と「死」という言葉が頭の中に響いて来る。身に覚えがあるどころの話ではない。

 僕はノートのページをめくり次の日の出来事へと移った。

『また人が死んだ。隣に住んでいる中年のおばさんだ。そして一つ分かった事がある。あのチャンネルを見た一三日後に死は起こる。一三日前、隣人が犬の鳴き声がうるさいと文句を言ってきた。丁度家には俺一人しかいなくてその対応をしなければいけなかった。前々からそのおばさんとはいざこざがあって俺はほとほとうんざりしていた。だからストレス発散のためにあのチャンネルを開いた。ただそれだけだったんだ。まさかこんなことになるなんて。このままいけばまた人が死ぬ』

 僕はここまで読んでようやく深いため息をついた。未だに信じられないが片柳は例のフロートチャンネルの存在を知っていた。しかも翌日に死が起こる僕のやつとは違って一三日というタイムラグがあるヴァージョンらしい。でもいったいどうやって片柳はそのチャンネルを見つけたのだろう?僕みたいに入力ミスかなんかだろうか?それに他にも死を映すチャンネルがあるのだろうか?そもそもあれはなぜ未来の事が分かるのだろう?

 疑問が疑問を呼び、深みにはまってしまう一歩手前で自分の心を抑え、僕はノートの閲覧に気を取り直した。そして次のページをめくると日付は三日後に飛んでいた。

『今日は杉山隆の死を見た。奴とは小学校の時に同じクラスになったが出会った始めから気に食わなかった。だから俺は死を与える。杉山は一三日後に交通事故で死ぬ。雨の中自転車を漕ぎ、滑った拍子に前方から来たトラックにはねられる。それがやつの死に方だ。避けられない運命だ。

俺はずっと怖かった。あれが死を呼ぶ事と、偶然俺がそれを開いてしまった事が。そして今も怖い。あのチャンネルを手放せなくなってしまった俺自身が一番怖い』

 僕はその日の日付を見て得心がいった。この日の一三日後に隆は死ぬ。そしてその日は僕が隆の死を見た日でもある。つまり奴の死は重複していたのだ。片柳の見たヴィジョンによって隆の死ぬ日は確定されていた。その結果隆は僕がチャンネルを見た翌日ではなくその日に死んだ。そして僕が見た隆の死は、片柳が見た死そのものだった。僕は一つの謎が解けた事に若干の満足を覚えていた。その背後にある無数の謎の存在に気付かぬふりをして。

 片柳の日記にある「俺は怖い」という言葉が僕には印象的であった。あのチャンネルに依存する片柳。それではまるで今の僕と同じではないか。

 僕はいよいよ最後のページへとさしかかった。日付を確認する。そこで僕はあっとなる。片柳の死の前日、つまり僕の爪が無残にもはがされた日の事である。そしてそれは丁度一三日前の事である。

『俺はついに橋場の死を見た。今日あいつがあんな顔をしなければ見ることもなかっただろう。しかしこのヴィジョンを見て俺は驚いた。橋場はある女に包丁で胸を刺され死ぬことになるのだが、その人物は俺がよく知る人間だった。黒い喪服で買い物バッグに刃物を仕込んでおり、呆然と立っている橋場を刺したのは、他でもない俺の母親だった。俺はあのヴィジョンが何を意味しているのか分からない。なぜ橋場を刺した人間が俺の母親なのか、またどうして喪服を着ていたのか。思い出す度に背筋が寒くなる。無表情で目の下に隈を浮かべ包丁を握る俺の母親の姿を……』


FIN


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ブラーミンモスの幼生 @saki-yutaro

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