第一部 1 ロリータ・ケミストリー
「マホロバコヒーレント」
咲 雄太郎
第1部
1 ロリータ・ケミストリー
アンドリュー・スピネルはこの日を待ち望んでいた。彼の人生のルーツにまつわる重大な決着がなされるはずの日だった。彼がこの日を待ち望んでいた、あるいは待つことしかできなかった期間は、驚くほど長い。それは彼が幼少期に世界というものを認識し始めた頃から、現在に至るまでの時間と同等だった。そのためだろうか、あまりにも長い期間この日を待ち望んでいたせいで、実際にその日が訪れても彼の心は実に単調なものだった。
「ドクター、ドクター・スピネル。そろそろ“解凍”のお時間です」
エミッタはそう声をかけた。彼女はアンドリューの助手で、この病院では数少ない同僚のうちの一人だった。
「もう、そんな時間か」
患者のカルテを眺めていたアンドリューはふと顔を上げる。
「その前にどうです?コーヒーの方も温め直しましょうか?」
エミッタはアンドリューの片手に握られたコーヒーカップを眺めてそう言う。それは随分と前に冷めてしまったらしく、アンドリューはそのことに言われてようやく気が付いた。それからエミッタが口にした冗談に思わず苦笑する。
「コールドスリープ患者が目覚める過程で死亡する原因の多くは、初めの凍結ではなく、解凍方法に問題があるからなんだ」
それからアンドリューはエミッタの提案を無視して、冷めたコーヒーを飲み干してしまった。
「イエス。三〇年前から解凍方式が変わっており、以前であれば一五パーセント。死亡率としてはかなり高い。しかしそれ以降大幅に改善され、今では一パーセントにも満たない数値です。しかも患者が死亡する理由の多くが現在では、遺族の契約解除による安楽死です」
「それも大分減ってきてはいるけどね。そう言う意味ではこの患者は随分と家族から愛されている」
「どういうことですか?」
この時エミッタは、表面上のカルテを眺めているだけでは決して理解できない患者の「内情」を、アンドリューがふと漏らした言葉の節々や、表情の変化から「無意識」のうちに「感じ」取っていた。
「今から“解凍”する患者は眠り始めてから丁度五〇年経過する。もしも“彼女”に残された遺族がいるとしたら、彼らにとってそれだけ待つ時間が長かったということさ。きっと君には理解しにくい部分もあるだろうけど」
「私にとってそれは保証期間の半分の時間ですね」
エミッタはとても気が利いているとも思えない冗談でアンドリューの失笑を買った。
「最後に確認しておきたいんだ。長期間の凍結による患者のリスクは?」
「解凍時における同様のショック死があげられます。しかし五〇年という長期間の解凍は初めてですのでデータ不足から断言はできません」
ある意味でそれが決断のスイッチだった。アンドリューはエミッタの方を向いて立ち上がった。
「行こう。凍結解除のアクセス権は僕にしかない、そうだろう」
「イエス、ドクター」
彼らは部屋を出て廊下を歩く。
アンドリューは窓の外に目をやった。
窓の外には大半の領域を占める暗黒と、それを打ち消すかのように光り輝く無数の星々が、まるで映像をコマ送りにするように右から左へ移動している。そして反対側の窓には、我らが母なる地球の表面が映っていた。
ここ軌道エレベータ「ヴィクトリア」で、アンドリューは主幹医師として一二年間勤務していた。ここには全部で九人の主幹医師が常駐している。医師といっても、彼のおおまかな仕事はむしろ管理者のそれに近い。例えば日々眠りから目覚めるコールドスリープ患者の凍結解除の認定と地球への帰還許可。あるいは「ヴィクトリア」自体の施設管理だ。もしも何か問題が発生した場合、アンドリューやその他軌道エレベータで働く職員がその責務を負うことになるのだが、そもそもそんな面倒なトラブルは全くと言っていいほどこの「ヴィクトリア」では起こらない。だから彼にとって、大半の仕事は、毎日山のように送られてくる従属機関の認定書に電子サインを書き込むのが専らだった。
アンドリューはこの閉ざされた空間における自分の仕事について、おおむね満足していた。恒常的な管理によってもたらされる平穏と刺激の少ない毎日。自分のコントールできる範囲を十分に理解し、全てはその領域内にある。
だからこそ、本来医師としての責務であるはずの患者とのやりとりは無論、億劫な作業の一つだった。自分にコントロールできないことを彼は嫌った。患者に寄り添ってリハビリテーションの類を実施するなど、もっての外である。当然やるべきことはやる。例えば彼らが地上に戻った時に新たな生活するために必要な手続きや、説明と言ったルーティーンワーク。しかし目覚めた患者のメンタルケアに力を注ぐほど、やる気もなければ、暇もない。それに大抵患者の多くは、地球に戻ってからの方が面倒を抱えるものなのだった。
「宇宙じゃあ季節は分かりにくいけど、イングランドはもうすぐ夏だ。そろそろ僕にはバケーションが必要だと思う」
アンドリューはふと何気なくそんなことを口にした。外から見える母星の風景は、初めこそ大きな感動と郷愁を彼に与えたが、それも一〇年以上も前の話。後者はあっても前者はとうに薄れていた。
「休暇申請を行いましょうか?」
気の利いた最も身近な奉仕者(モストサイダー)が口を開く。
「この仕事が済んだらね。きっと彼女にもそれが必要だ」
「彼女とは?」
「無論、ロリータ・ケミストリーさ」
そこで初めてアンドリューは患者の名前を口にしたのだった。
「ミス・ケミストリーは随分長い間休暇を取っていたとも言えます」
「悪くない冗談だ。けど残念ながらスリープ中は夢を見ないんだ。たとえ世界が半世紀過ぎていようと彼女にとっては一瞬さ」それからアンドリューは思案を巡らせるように続けて言った。「エミッタ、目覚めた彼女は最初になんて言うかな?」
止まったままのオルゴールでは次の旋律は分からない。ゼンマイを巻き直してやったその後で、再び奏で始める最初の音色をアンドリューは知りたがった。あるいはそれこそが自分自身の役目だと信じ、今日という日を待ち望んでいたのだ。
エミッタは少しの間沈黙し、それからもう一度口を開いた。
「覚醒した患者の認識は、最後に見た光景の延長線上にあります。また、凍結前の患者の多くは感情的に不安定なことが知られています」
「何が言いたい?」
「もしも患者がパニックに陥るようなら早めに鎮静剤を打つべきです」
そこでアンドリューはため息をつく。最も身近な奉仕者(モストサイダー)が自分の身を案じて言ってくれているのだとしても、少々無粋な発言に嫌気がさす。
「そんなこと言われるまでもないさ」
彼らは凍結室の前に着いた。ここにはおよそ二〇〇体を超える数の患者が収容されており、未だにその多くは解凍のめどすら立っていない。彼らは実情にこそ違いはあれど、現在に希望がなく、不確定な未来にコールドスリープという形で一縷の望みを託すしかなかったのだ。アンドリューはそんな彼らを少しだけ哀れだと思っていた。
「ドクター」エミッタが言った。「ロリータ・ケミストリーの解凍に立ち会わなければならない理由を教えていただけませんか」
彼女の声に抑揚はない。それが単純に最も身近な奉仕者(モストサイダー)特有のものなのか、それとも本当に「心」からアンドリューを心配して言ってくれているのか彼には未だに分からない。
「彼女は、ロリータは特別なんだ」
凍結室の中へ入ると、一台のモニターが真ん中に置いてあり、その周囲は真っ白の壁で覆われているだけだった。アンドリューは慣れた手つきで画面を操作する。普段であればデスクの上からリモートで操作するのだが、やることはそれと変わらない。真っ白な解凍室の壁の中心がおもむろに開き、一台のカプセルが現れた。
「ナンバー〇〇一」
アンドリューはカプセルの外壁に印字された数字を見てそう呟いた。それからそばへ近寄ると、中の「患者」を見下ろした。目の前には口から吐き出される冷気よりも真っ白なほどの髪と肌をした女性が眠っていた。死人のようだと彼は思った。
アンドリューの脳裏には患者のプロファイルが蘇っていた。ロリータ・ケミストリー。女性。年齢は三七歳。しかし目尻の皺を除けばその表情は二〇代でも通りそうなほど幼く見えた。
彼はその表情をこれまで何度も見てきたのだった。彼が物心ついた時、初めて目にしたその時から、ロリータ・ケミストリーは今と変わらぬ表情で眠っていた。
「カプセルを開けるには起動スイッチを押さないと」
エミッタは立ち止まるアンドリューに向かってそう言った。たとえ最も身近な奉仕者(モストサイダー)でなかったとしても、アンドリューからどこか戸惑っている様子を感じ取ることはそう難しいことではなかった。それは彼自身にとっても意外なことだったらしく、スイッチに触れようとした指先が震えていたことに今になってようやく気がつく。もちろんそれは解凍室の気温のせいだけではなかった。
「起きるんだ、ロリータ」
自身への掛け声とも取れる独り言を合図にアンドリューはスイッチを押した。停止していた機械が再び動き出し、唸るような動力音を響かせる。それと同じくらいにもう一つの動力音がカプセルから飛び出してきた。
「っつ、ふはぁ」
次の瞬間、彼女の鼓動は再び動き出した。激しい呼吸がわずかに続き、一瞬にして全身に酸素を送り届ける。肌は依然として白いままだったが、一目見て違いがわかるほどみるみる血色を取り戻していく。そしてまばたきの瞬間に垣間見えるその瞳は、他に類を見ない鮮血の「赤色」だった。
アンドリューは感傷に浸る間もなく、頭の中でやるべきことをはっきりとさせる。患者の瞼を開き、ライトを当てて確認する。生者特有の反応が見られると、ライトをしまった。それから改めて彼女を見る。
目の前の患者は表情を失っていた。ただ静かに呼吸をし、眼球がブラウン運動のようにランダムに泳いでいた。
まばたきを繰り返す彼女の瞳が潤み、やがて涙がこぼれる。表情に変化はなかった。
彼女の頬を滴るそれが何に起因するのかを知らないアンドリューは、始めただの生理学的な反射だと、単にそう思っていた。
患者の口元がわずかに動く。同時に表情に変化が見られる。
顎ががくがくと震え、歯同士がカスタネットのように合わさる音がカチカチと鳴る。
何か言っている、アンドリューはそう思った。
しかし患者の声は空気を震わすことはなかった。
ヒューヒューという、風船から管を通って空気が抜ける音がする。
彼女はその言葉を繰り返していた。
アンドリューも釣られたように口の動きがリンクする。彼はその名を知っていた。
パトリック。
パトリック・スピネル。
八時間後、エミッタからロリータ・ケミストリーのバイタルが正常に回復したという連絡を受けて、アンドリューは病室へと向かった。
現在この施設には六人の患者が入院している。そのうち三人は治療を終えており、来週にも手続きを完了し、地球へ戻る手はずだ。他の二人も同様に、治療はすでに終わっていたが、コールドスリープ後の精神面に異常が見られ、まだ地球へ帰還できる状態ではなかった。彼らは地球を、環境の変化を拒否していた。
長年ここで働いていると、そういう事態がしょっちゅう起きることをアンドリューは知っていた。中にはもう一度コールドスリープを望む者も、多くはないがいるにはいる。しかしここにいるどんな患者も、最後には地球へ戻る。そういう決まりになっていた。
そして最後の一人はロリータ・ケミストリーである。彼女は目覚めた、とても深い眠りから。
「入ってもよろしいですか?ミセス・ケミストリー」
階段から一番離れた(彼女のためだけに用意された)部屋の扉のチャイムを押してアンドリューはそう聞いた。中から「どうぞ」というか細い声が聞こえた。
部屋に入るとロリータはベッドに座っていた。アンドリューはその赤い瞳と目が合う。彼女は正面からアンドリューを見つめていた。
「目覚めた時に、はじめにあなたを見て、それからまた眠って。そしてね、パトリックの夢を見ていたの」
ロリータの言葉は詩的だった。古風というか、趣があるというか、同年代の女性が決して口にしないような響きをアンドリューは感じていた。
「奇遇ですね。私もついさっきまで祖父の夢を見ていたんです。そんなに僕は祖父と似ていますか」
その瞬間彼女の瞳がわずかに動いたのをアンドリューは見逃さなかった。
「祖父、ああそうなのね。私てっきり…。ううん、そんなことないってわかっていたけど」
そう言って彼女は視線を落とした。また泣き始めるかもしれないとアンドリューは思ったが、そうはならなかった。
「すみません、挨拶もせずに失礼でした。アンドリュー・スピネルです。ここでのあなたの担当医になります」
アンドリューは静かに手を差し出した。つられるようにロリータはゆっくりと手を伸ばす。その手は震えていた。握ったとたんに今度こそ涙がこぼれた。
「あったかい」
そう静かに呟いた。
「どうやらまだ身体は混乱しているようだ。筋肉の動きと神経の信号伝達が上手く噛み合っていないらしい」
「そう、なの」
ロリータは肯定なのか疑問なのか曖昧に呟いた。
「ミセス、私にはあなたに対して説明義務があります。もちろんそれは医者として。でもそれだけじゃなくて、アンドリュー・スピネル個人としてもあなたとお話がしたい。そのために僕はここにいるんです」
少しの間があり、彼女は首を縦に振った。涙がシーツに溢れ小さなしみを作った。
「私も聞きたいことがあるの」
「もちろんお答えします。でもその前に一つ重大な問題を解決しなければならない」
アンドリューはそう言って眉をひそめた。
「問題?」
アンドリューは持ってきたカルテをロリータに見せる。それは彼女自身のプロファイルだった。
「順番に記憶をたどっていきましょう。まず、現在。あなたはこうして私と向かい合って話をしている。なぜならコールドスリープから目覚めたから。では、過去。あなたはコールドスリープによって眠らされていた。なぜなら当時の科学技術では治療不可能なほど重篤な遺伝子疾患を患っていたから」
「そう、だったわね」
アンドリューの丁寧すぎる説明に、ロリータは思い出したというよりも、思い知らされたといった具合に、頷いた。
「そしてそれは今も続いている。あなたはその病気のせいで死を避けられない状態にあった。目覚めた今、停止していた病は再び進行を始めています。そう、今この瞬間にも」
ロリータは静かにうなだれる。目覚めていきなり死の現実を突きつけられたのだ。大抵の人間は同じような反応をする。アンドリューはいつもこの手順が嫌いだった。コールドスリープでは蘇生後の治療契約は含まれていない。だから蘇生後こうして必ず本人に同意をとる必要があるのだ。つまり勝手に「起こす」のはいいが、勝手に「治す」のはいけない。
「どう、すればいいの」
弱々しい声がそう聞いた。
「大丈夫。あなたが今日目覚めたのは現在の医学で治療が可能になったからです。そうでなければコールドスリープで目覚めるようなことはない」
とんだ茶番だ。アンドリューは自分自身にも辟易していた。あるいは悪魔のような宣誓をつきつけた後で、神様のように救済の手を差し伸べることが、どうにも彼には滑稽に思えて仕方がなかった。
「私は治るの」
「ええ、もちろん。あなたの病気の治療法は一〇年前に既に発見されていましたがコンピュータによる投薬シミュレーションと実際の臨床試験による承認が降りるまでに時間がかかってしまいました」
「一〇年前」そこではっと気づいたようにロリータは顔を上げた。そしてコールドスリープ患者が、目覚めたある段階で必ず口にする「今はいつなの?」という疑問の言葉を発した。「私はどのくらい眠っていたの」ロリータは再度同じ疑問を違う言葉で繰り返した。
アンドリューは一呼吸開ける。患者に対して心の準備を促すための一手間。これは彼自身の流儀でもあった。
「五〇年です。あなたは半世紀もの間コールドスリープで眠っていました。今は二二世紀最初の年を迎えたところです」
五〇年という数字が目覚めたばかりの者にとってどれほどの時間なのかをアンドリューは知らない。ただ無機質な数字の羅列を目の前の患者に伝えた。まるでスターティングメンバーの発表で、選手一人一人に背番号を与えるフットボールチームの監督のような口ぶりで。
「二二世紀?」
戸惑ったようにロリータは聞き返す。
「西暦で言うと二一〇一年のことです。ああ、すみません、決して馬鹿にしているわけでは。そうですね、ああ、いえ、驚かれるのも無理もない」
アンドリューは心底ばつが悪そうに肩をすくめる。
「そうね」それを見てどういうわけかロリータは落ち着きを取り戻していた。思案するように慎重に口を開く。「正直言うと、いきなり二二世紀って言われてもよくわからないの。ええ、何が変わって、何がなくなったのかも」
おそらくそれが最初に聞くべき質問ではないかと、まるでそう判断して口を開いたように、どこか芝居がかった台詞が彼女の口から漏れた。
「そうですね。それはまあ、もちろん沢山ありますが、一つお答えできるのは、二一センチュリーフォックスは二二世紀になる前に倒産してしまいました」
「それは私が眠る前の話だわ」
「そうでしたか」
アンドリューはこのジョークが最早二度と使われないだろうということを静かに悟った。無論それは一〇年以上も前に定型句のように使い始めた頃から既に気付いていたことではあったのだが。
「西暦がまだ共通のもので安心したわ」
ロリータは着地点を探すようにそう言った。
「そのようで」
アンドリューはそれを大袈裟な事だと笑い飛ばす気にはなれなかった。それは彼がコールドスリープによる時間の喪失を経験として知らないからという理由ではなく、今までに何にもの患者を目覚めさせたことで、彼らの表情が見せる体験の意味を知っていたからだった。
答え合わせをした時の反応は皆それぞれであるが、時間の喪失などまるでなかったかのように「そんな程度か」と受け入れる者もいれば、目覚めた途端に深い絶望を表す者もいた。アンドリューの経験上、後者の表情を見る機会が圧倒的に多いのは確かだったが、たとえ前者であったとしてもコールドスリープ前後の変化(友人の死や、保有株の暴落、お気に入りのバーガーショップの閉店など)を伝えてやれば程度の差こそあれ、彼らの表情に何かしらの陰りが見えるのだった。
「ここが天国だったらよかったのに」
「え?」
ロリータの唐突な発言に思わず聞き返す。
「目覚めた時、あなたを見てパトリックだと思ったの。彼がいるってことは私はもう死んでいて、だからここは天国なんだって。そう思ったらなんだかとても安心したの。死ぬのも悪くないなって」
時間が人を殺すとはよく言ったものだ。アンドリューは目の前の患者に心底同情の意を表す。五〇年という期間は歴史からその人物を抹消するには十分すぎる時間だ。それから彼は医者としての責務を思い出す。
「あなたは、そう、混乱している。目覚めたばかりで、気持ちが追いつかないんだ」
言ってから後悔するが、あるいはそれがアンドリューの最低限の役目だった。
「そうかもしれない」
ロリータは力なく同意する。
「そんな弱気なことを言ってはいけない。死ぬだなんてそんな」
死なせるためにあなたを目覚めさせたわけじゃない。危うくそう言ってしまうところで、アンドリューは口をつぐんだ。そして何か言わなければと思い、思い出したように話を戻した。「とにかくあなたの身体は依然死に瀕したままだ」
「そうね」
ロリータは心底どうでもよさそうにうなだれる。
「ええ。ですからあなたにはこれから治療室に入っていただきます」
そこでロリータは是非もないと言った様子で、無言のまま頷いた。
結果から言えば手術自体は成功だった。
ロリータの抱える病気の正式名称は長ったらしい専門用語がセンスなく配置され、その頭文字をピックアップした実にひねりのないものだったが、この名前が大手を振って用いられたケースは一度としてなかった。なぜならこれは一般的に癌として分類され、世界で最もありふれた病の一つだったからだ。
しかし彼女が他の患者と一線を画すことになった要因に、彼女特有の必然的な崩壊体系が挙げられる。それは内臓一個、血管一本、皮膚一枚に至るまで全ての遺伝子に刻まれた暴走と終焉のタイマーが、通常の人よりも圧倒的に短いことが原因だった。つまり言ってみれば、全身の細胞が一斉にクーデターを起こし、限りなく短い時間で鎮圧されるようなものだろう。もちろん最終的にロリータの肉体は「全細胞の死」という結果を持って終わりを迎える。
なぜロリータ・ケミストリーの身にそのような災厄が降りかかったのか。それを語る者は既にいない。それほどまでに彼女が生きてきた、あるいは眠っていた年月は長すぎたのだ。
そこで確実に言えることは、「誰か」がストップウォッチのタイマーを押したということだった。結論から言うと彼女の病気は人為的なものだった。
しかしその物語は、他の追随を許さぬほどの速さを持った時の経過によって、歴史の一部として堆積し、そして風化した。今では初めから無かったものとして扱われ、彼女の存在の中でのみ語られるべきものとなっていた。今となってはその彼女すら何も語らない。かくして真実の扉は鈍重な錠前をかけられ、その象徴である鍵だけが「病」という形として彼女の中に存在することになったのだ。
ある時点までは遺伝情報の「ノックアウト」という治療方法によってのみ彼女は延命を許されていた。しかしそれは同時に劇薬による投与を意味していたが、そのための代償として彼女は一日の八〇パーセントの時間を、およそ人間的とは言えないような非生命活動に支払うことを余儀なくされた。さらに皮肉なことに、癌の進行を薬で抑制しようとすればするほど、薬が切れた際の活性化が著しく、より一層彼女の体を蝕んだ。
もはや、いたちごっこは泥沼の限界へと陥っていた。
病の進行というトレイルを走る電車が、もう一方の薬による抑制というトレイルを走る電車とぶつかった時、彼女は投薬による闘争を諦めた。身動きの取れないベッドの上で、意識すらおぼつかない思考の中で、ロリータはひっそりと死について考えていた。
現時点での医学の敗北と避けられない死の運命が目の前に転がり、彼女はそれを一旦は容認したのだった。
しかし数奇なことに彼女の物語は終焉を迎えることはなかった。救いは思わぬところから現れた。コールドスリープによる未来へのはるかなる旅という形で。
そして彼女の物語は現在に至る。
あらゆる遺伝性の疾病に対してノックアウトという過激な方法ではなく、正常な、あるいは異常をきたさない、別の遺伝情報への変換技術が確立したのだ。テクノロジーは加速し、遺伝工学の分野に隆盛と勃興をもたらした。
そして満を持したように彼女は目覚める。テクノロジーによって忘却された歴史は皮肉にもテクノロジーによって再び脈動を始めたのだった。
こうして長きにわたる病魔との闘争は、彼女の勝利を持って決着することになる。
いともたやすく、あっさりと。
To be continued...
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