マホロバコヒーレント
@saki-yutaro
プロローグ
「マホロバコヒーレント」
咲 雄太郎
これはかつて少女だったある一人のための物語
プロローグ
いずれにせよ、今の段階では想像の世界で適当な解釈を付け加えるよりほかはない。それは僕たち「人間」の有する、最大限の特権なのだから。
最後のページを読み終えたところで、到着を知らせる「ぽーん」というアナウンスが鳴った。グッドタイミング、そう思って時計を見ると予定時間を五分ほどオーバーしていた。気の利いたAIが目的地への最短ルートではなく、本を読み終わる時間に合わせて寄り道をしていたことを考えると、一流の運転手にもよっぽど劣らない気遣いに思わず感服しそうになった。アーロンは本を閉じて、身支度を整える。それからほどなくして車は止まった。
決してアンティーク趣味があるわけではない。ただ祖父の遺品整理の手伝いをしている時に見つけた、表紙がよれよれになった本を冗談半分で押し付けられ、ふと気まぐれに読んでみようと思ったのだ。妻には旧媒体の本など非効率だと笑われた。
文章が英語で書かれていたのは幸いだったが、統一言語によって再修正(リビジョン)される前の単語や文法で構成されており、拡張現実(AR)上で自動翻訳する必要があった。しかし作者特有の言い回しや、表現方法に阻まれ、読解は困難を極めた。そのため内容の理解度における信頼性については残念ながら保証はできない。かろうじてわかった事と言えば、これが所謂ノベルフィクションであるという事くらいだ(この際作者の文章力にケチをつけても言訳(エクスキュース)としては許されるはずだ)。
文庫本サイズのそれをスーツの内ポケットへと滑らせるとアーロンは車を降りた。時計に目をやると日付は既に変わっており、その日がポスト・ニューレースの開闢から一〇〇年という偉大な節目に差し掛かった事を表していた。それは同時に人類史上最も壮大で挑戦的なプロジェクトの分岐点(ターニングポイント)となるべきイベントの最初の一日が始まったということでもあった。
それならばとアーロンは思う。それならば今日という記念すべき日を前に、旧時代のレガシーを嗜むのもまた一興ではないだろうか。
周囲の平地に溶け込むようにして建つ一階建てのビルの自動ドアを抜けると、大げさなほど広いホールが広がっていた。アーロンは自信に満ちた表情を浮かべてその中央を進んでいく。エレベータに着くまで、大胆な足音がホールに響いたのだった。彼の目的は地下だった。
ここは地下四〇階からなる巨大な観測施設だった。人工衛星からの観測データを受信するだけでなく、地上からの観測が主たる目的として建設された。電波望遠鏡用のパラボラアンテナが建物を中心に取り囲むように周囲二〇〇ヘクタールに渡って咲き乱れている。そのため近くに高い建物がなく、観測基地もこのように地下深くに埋没しているのだった。
エレベータに乗り込むと、アーロンはコントロールルームのある最下層のボタンを押した。鉄の箱がゆっくりと下降する。そして地下一〇階で停止した。
エレベータの重装な鉄扉が驚くほど滑らかに、そして静かに開いた。それと同時に見覚えのある顔が飛び込んできてアーロンの顔は何やら苦々しいものになる。ブラウンは飄々とした調子で言い放った。
「おやこれは局長殿、今までどちらに?」
彼は初めこそ驚いた顔をしていたが、すぐにいつもの冷静な表情へと戻る。
「ワシントンだよ、上への報告でな」
アーロンはそこで、いつもの通りさと、あからさまにため息をついてみせる。
「あらかじめ分かりきったことしか話し合えない会議の場など、レコーダー付きの案山子でも立たせておけばいいのに」ブラウンは鼻をふんと鳴らした。「たった今お戻りで?」
彼はアーロンの持つキャリーバッグに一瞥をする。
「ああ、直行便でこっちまでとんぼ返りさ」アーロンは肩を上下にゆらす。その目は心底疲れているようで、真っ黒な隈が目立つ。「そっちの状況は?」
「進行中ですよ、万事予定通りにね。懸念があるとすればメンバーの体調くらいでしょうか。ここ一ヶ月間ろくに寝てない者もおりますから」
「君は元気そうに見えるが」
アーロンの質問に、ブラウンはやたらはっきりした声で「そんなことはないですよ」と否定した。それから取り繕うように言葉を続けた。「待つだけっていうのはどうも私の性に合わない。毎回どうしてこんな時間にスタンバイしなければならないのか」
「それは天文学の宿命だろうな」
アーロンは静かにため息をつく。
「そうそう、状況と言えば」そこでブラウンは思い出したように手を叩いた。「鴻鵠(ホンフー)の方々がいらしていますよ、三名ほど」
「またか」アーロンは露骨に眉をひそめた。「よく飽きもせずに」それが口をついて出た失言だと思ったのか、形だけの咳払いをした。
鴻鵠とは「最も身近な奉仕者(モストサイダー)」の一つである「HongHu」ブランドを中心に運用・サービスを手がける第三大陸企業の総称であった。本プロジェクトの支援にも深く関わる企業のうちの一つであったが、ここまでの介入は類を見ない。
「やはり、システムドライブの採択は慎重に行うべきだった」
どこか非難めいたブラウンの口調は、積もり積もった鬱憤を晴らすようなそれに近かった。
鴻鵠グループの事業規模の大きさはその名の通り大鳥に例えられ、アジアの有力企業を狡猾なM&Aによって次々と飲み込んでいく様は一部のニュースサプライヤから「曲がった嘴(フックトビーク)」と報じられていた。この少々演出好きなニュースライン提供者の揶揄を、「無視できないもの」程度には認識していたアーロンにとってそれは間違いではなかった。
というのも、このプロジェクトに資金、科学技術、人材と言ったあらゆるリソースを全面的に支援するために世界各国から参画している企業のうち、総投資額(トータルインベストメント)をランキングした時のトップ五の頂点に鴻鵠は君臨していたからだ。
無論この単純な資金面での投資だけでなく、鴻鵠の誇る人工知能システム「HongHu」を採用したことで彼らのプロジェクトへの有用性は決定的なものとなった。
「彼らの同期システムなくしてプロジェクトの完遂はあり得ない。その結論だけは今も変わらんよ」
アーロンはかろうじて自分の決断を翻すような発言を飲み込んだ。部下の前でそんなことは口が裂けても言えない。
しかしそれが、これまでに数々の「聞いてない」事態を引き起こし、プロジェクトのさほど重要でない部分への事業介入を許すまでに至るという結果を招いたことにアーロンやブラウンが怒りを禁じ得ないのも事実だった。
「二・七倍。今年に入って増えた我々の雑務の量です。全て鴻鵠絡みだ」
最後の一線を守り抜いたのは、アーロンの執務を超えた懸命な対応と、表向きはどの国の機関にも属さない「完全中立」という組織の特色ゆえだった。事実今まではどの国家・企業からも一方的な優位性をもたせてはならないという世間からの厳しい監視の目は鴻鵠の動きを幾らかは制限しており、アーロンにとってもそれはありがたかった。
「一度身につけたら容易には外せない。時計と同じだな」
しかし現状、鴻鵠の存在は既にプロジェクトの進行になくてはならないものとなっており、今回のような「視察」と銘打った訪問になんだと食ってかかるものなら、それはつまりプロジェクトの進行継続に何らかの支障が出るリスクを冒さなければならないということだった。
仮に鴻鵠の肩を持つような見方をするならば、こうして彼らは彼らのやり方で名実ともに「最も身近な者(モストサイダー)」を実践していた。
「どうもやつらはいけ好かない」
ブラウンはまるで悪臭が匂ってくるとでも言うように鼻を膨らませた。
「あまりおおっぴらに言うものではないぞ」アーロンは諌めるようにそう言った。「どこで誰が聞いているかも分からないのだから」
「問題ないです。ここがオフィスフロアじゃなければ、もっとひどいことを言っているでしょうから」
何が「問題ない」のかとアーロンが言いかけたところで、エレベータは目的のフロアへと到着した。
二人は中に入る。静寂とした空間はモニター画面を注視する同胞に奇妙な緊張感を与えていた。アーロンはその雰囲気を察知してか、足取りが緩慢になるのを感じた。全員が同じような姿勢で座り、事の成り行きを見守る中、同胞の一人がこちらの存在に気付き、軽い会釈をした。見知った顔だ、とアーロンは思った。確かチトセ、そんな名前の若き技術者だ。それからその人物はおもむろに話しかけてきたのだった。
「ブラウンさん、グッドタイミングですね。そろそろお呼びしようと思っていたところですよ」そこでチトセは隣のアーロンにも軽く会釈をした。「局長もいらしていたんですね。光栄です」
二人は簡単な握手をすませるとおもむろにアーロンは口を開いた。
「クリーパーの調子はどうだ?」
「さあ、今はなんとも。理論上は近日点で摂氏一〇〇万度近い太陽風にさらされて畑の肥やしにでもなっているはずですが」
まるでそれがなんでもないとでも言うようにチトセは淡々とした調子で言い放った。
「燃え尽きてもらっては困るがな」
アーロンも「それ」は織り込み済みと言わんばかりに最大の懸念だけを口にする。
「奴らの生命力はあなどれませんよ。宇宙ステーション一基をまるまるジャングルに変えてしまった実績もありますから。それに放射性育種です。強烈な太陽風はむしろ彼らの成長を加速させるでしょう」
実績だと?損失の間違いだろう。
若者の楽観的な発言にアーロンは危うく口を開きかけたが、いまはよそうと首を振った。
「そんなにクリーパーって植物はハングリーなのか」
ブラウンの間の抜けた質問にアーロンは呆れる。
「ブラウンさん報告書を読んでください、二年前のね」チトセが冷ややかに言う。そして「アーカイブに保存されてあるはずですから」と続けた。
「アーカイブを開くためのパスを教えてくれ」
もはやブラウンのジョークに返答する者はいなかった。
「クリーパーは人工的に栽培した極限環境植物です。極温耐性、放射線耐性、低気圧耐性、そのどれをとってもあらゆる植物種の中で最も宇宙に適した植物と言えます。宇宙がホームグラウンドと言ってもいいくらいでしょう」
「なんてタフガイなボーイだ」
ブラウンは大して興味もなさそうに無機質に驚嘆して見せた。
「重要なのは宇宙適正よりもむしろ、苗床となる対象との相性だな。そういう意味では君の言う通り、ハングリーでなければ困る」
「で、その対象というのはいつになったら顔を出すんだ?」
ブラウンはまるでそっちが本命だと言わんばかりにチトセに言った。
「もう、あと五分もないかと」
ドレッシャー彗星。
それが苗床(ターゲット)となる対象の名前だった。
人々はそれをただシンプルに「来訪者(ビジタ)」と呼んだ。地球を、いや太陽系を住処とする者であれば、誰にとっても同様にそれが訪問者であることは疑いようのない事実だったからだ。
二二世紀に入ろうとする間近、その来訪者は何の前触れもなく(前触れなどあるはずもなく)突如として現れた。もしもそれが一時の来訪者(ビジタ)であったならば、これほどまでに人々の記憶に残ることはなかっただろう。しかしそれは違った。何かに導かれるようにこの太陽系へとやってきて、そんな気配を微塵も見せずに、素知らぬ顔で居座ることを決めたのだった。
そして「最初」の訪問から数年が過ぎ、それは再び人類の前に現れた。
「そろそろドレッシャー彗星が理論観測領域に到達します」
チトセはおもむろにそう言った。彼の右手の中指は先ほどからキーボードの何もない場所を周期的に叩いており、落ち着かない。この若者も、頭脳とは別に内心穏やかではいられないのだ、そうアーロンは思った。
「ベイビー、カモンベイビー」
ブラウンも落ち着かないのは一緒のようだった。
「目標、理論観測領域に到達しました。地上および衛星システムによる観測を再開。近日点通過による軌道の再計算を行っています。衛星画像データの到達は約一〇分後です」
ドレッシャー彗星の近日点距離は太陽から0.35AUだけ離れている。またその時の地球との相対距離はおよそ1.2AU、つまり9.74光分である。そのため観測データが届くのにおよそ一〇分かかる計算になる。
「観測範囲を見せてくれないか」
アーロンがおもむろに口を開いた。
チトセはフロア上空にあるサブスクリーンの一つの画面を切り替える。画面にはレーダーによる対象の捕捉範囲が表示されており、観測精度によってスペクトラムに色分けされていた。つまりレーダーの捕捉精度が高いところは色が濃く、低いところは薄く、といった具合である。
「地上に配備された全レーダーと軌道上のサテライトシステムでカバーした実際の観測範囲です」
「この二つの同心円の意味は?」
アーロンははじめに画面上のドレッシャー彗星の理想軌道を指差し、次にその軌道を中心としてぐるりと描かれた円を空間でなぞった。
「内側が軌道の想定誤差範囲です。この中であれば確実にレーダーで捉えることができます」
「外側は?」
「こちらはミッション遂行に支障をきたさない軌道の範囲を表しておりまして…」そこでチトセは言い淀む。「ええっと、つまり、支障をきたさないというのは、その、仮にですが、もしも近日点通過後に彗星の軌道が円の外側までずれてしまった場合は…」
「ミッション中止か」
「そうです、はい、いえ、その可能性が非常に高くなります」
そこでアーロンはううむと唸ると腕をきつく組み直した。
彗星が近日点通過の際に高温の太陽風にさらされ、蒸発するか、もしくはその水蒸気で軌道を変えるなどよくあることだ。運が良ければ、彗星は本来の軌道から逸れるのみに留まり、宇宙法則のなすがままに再び運動を始める。しかし運が悪いと彗星は燃え尽き、その残骸さえも暗黒の宇宙空間で人知れず消滅することになる。今回の場合、軌道が大幅に変わってしまうこともまた、最悪のケースの一つだった。
そして最も皮肉なことに、それが起こる可能性の一端を「第一の遭遇」の際に証明してみせたのが、他でもないこのドレッシャー彗星であることは、アーロンを始め組織の人間全員が分かりきっていたことだった。
「衛生画像を受信しました。表示します」
何人かのオペレータが同時に言った。
スクリーンの画面が切り替わり、途端に「おお」という驚嘆の声が上がる。
目の前に現れたそれはまさに天からの使いだった。ピーナッツ型をした灰色の岩石は二つの山のうち、その小さい方を進行方向に向けていた。もう一方からは熱によって噴出した水蒸気が暗黒の宇宙空間に綺麗な軌跡を描いており、それは尻尾というよりは女神のベールのようにアーロンは感じた。
「軌道誤差、想定範囲内です」
アーロンは思わずため息を漏らした。
「クリーパーの様子はどうだ?」
「もう少し待ってください。ただ今、高解像度画像を受信中です。データ容量が大きくて処理に時間がかかっているんです」
チトセは早く見たいのは自分も一緒なんだと言わんばかりに訴えた。
「さて、愛しの坊やは燃え尽きてないだろうな」
ブラウンがニヒルを気取ってそう言った。
「もしもそうなったら、きっと多くの人が仕事を失うだろう」
「ちょうどいいんじゃないですか?私からしてみればあなたはいささかオーバーワーク気味だ」
ブラウンはやれやれと言った調子で肩をすくめる。
「解析結果出ました。モニターに映します」
先ほどの衛星画像がクローズアップされる。彗星の輪郭は消え、代わりに細部の状態が明らかになってきた。前方のコブの表面はゴツゴツと岩石らしい凹凸が見て取れる。後方の大きなコブはほとんど水蒸気のベールで覆われ、はっきりとは見えなかった。
「クリーパーは今の所見えないな?射出したポイントはどこなんだ?」
「そりゃもう至る所ですよ。ただし、太陽風の影響を緩和するために近日点で丁度正反対側になるように設置していますが」
「彗星の自転周期は?」
「およそ六時間で一回転します」
そこでアーロンは何かに気づいたようにモニターに指をさした。
「チトセ、あのくびれのところ、範囲を限定してもう少し拡大してくれ」
「わかりました」
さらに画像が大きくなり、表面の性質がはっきりと分かるようになってきた。一方で画質の荒さが目立つ部分も出てきた。
「もっとだ」
アーロンはさらに拡大するよう要求した。
「これ以上大きくすると、解像度が落ちますが」
「構わない、やってくれ。それとコントラストを最大まで引き上げて、明るさも調節できるか?」
「わかりました」
チトセは言われた通りに実行した。
彗星の画像はさらに拡大される。例えばそう、仮に彗星表面にニール・アームストロングよろしく星条旗を突き立てたとしても、何かそこにあると分かる程度の距離まで接近していた。
「写真のポイントBの八を見ろ、何か見えるだろう」
アーロンは目標ポイントを指差す。
「次が最後の拡大です」
チトセはそう言ってキーを叩く。画像がさらに拡大された。
その瞬間、再びフロアに驚嘆の声が響く。アーロンも思わず声を上げた。
「蔓だ!」
声と同時に何かが床に落ちる音がした。落としたのはブラウンで落ちたのは彼が手に持っていたペンだった。彼はバツが悪そうにそれを慌てて拾い上げる。
「クリーパーの蔓が伸びているんだ。こんなにはっきりと見えるなんて」
チトセは声を荒げる。そして嬉しそうにガッツポーズをした。
「しかしあれは蔓というよりはまるで根のようだ。まさかここまで成長が著しいとは」
写真に映るそれは、まさに生命の息吹を表すのに申し分のないものだった。クリーパーの無数の蔓は、まるで子供が手の平をいっぱいに開くように広がりながら、彗星という命綱を決して離さないかのように握りしめているように見えた。そしてそれは中心へ行けば行くほど太く、隆々としたものとなり、アーロンをして「蔓」ではなく「根」と形容し得るには十分な力強さを兼ね備えていた。
その後フレーム毎の画像が次々と送られ、もはやそれが時々刻々と成長を続ける、強靭な生命体であることは誰の目にも明らかであった。極限環境植物、まさに唯一無二宇宙空間で生存できる植物であろう。
やがてミッションの成功を確信した局員は、どこからともなく起こった拍手につられるように、お互いに抱き合いながら、成功を喜んだ。
それはアーロンについても同じことで、その場にいたチトセとブラウンに対して賞賛を送った。
「やりましたね」
チトセが硬い握手を求める。
「ああ、パーフェクトだ」
アーロンも力強く握り返す。
「局長、これでようやく次の段階を阻止する要因は消えたと言えますね」
ブラウンはあえて遠回しな表現で立場的な体裁を保ってはいるが、その実、成功を喜ぶ気持ちは他のスタッフと同じで、アーロンにもそれは伝わってきた。
「ああ、その通りだ」
アーロンも笑顔で差し出された手を握り返した。
ふとそこでブラウンは何かに気づいたように、アーロンに耳打ちした。
「どうやら成功に酔いしれる時間すら、あなたにはないらしい」そう言って、アーロンの背後に目配せを送る。
「ミスター・レドーム、少しお時間よろしいですか」
アーロンが振り返ると、そこには3人の男が立っており、それがすぐに鴻鵠の幹部だということがわかった。聞き覚えのある声は何度かワシントンでも会ったことのある、そうチャフという男だったと、アーロンは瞬間的に記憶をたどった。
「ええ、もちろん、ミスター・チャフ。こんな時間にわざわざお呼び立てしまって申し訳ない」
「いやいや、我々の方が無理を言って立ち会わせてもらったんです。それより、どうやら成功のようで我々も安心いたしました」
チャフはそう言うとアーロンに握手を求めて、にっこりと笑顔を作る。以前にこのチャフという男と対面した時も、このような笑顔を浮かべていたことをアーロンは思い出していた。ちょうど鴻鵠のプロジェクト参入に関して些細な食い違いで一悶着あった時のことを。
その時はプロジェクトマネージャとして全体のタスクバランスを把握するために同席しただけだったのだが、いざ話し合いが始まると、些細な食い違いの原因が統一言語と旧中国語の語彙範囲の差異にあるという非常に曖昧な理由だけで片付けられ、本題は鴻鵠ありきの事業委託の再編に焦点が置かれたのだった。しかもこれも当初事業委託したはずだった企業が鴻鵠のM&Aによって傘下に加わったという種明かしを遠回しに延々と繰り返され、いずれの企業についても実質的には形式上の再編が行われただけということが分かった。なんとも空を切ったような会合に組織の人間は誰一人として怪訝な様子を隠せなかったことをよく覚えている。
平素の時でさえも何か裏があるのかと疑ってしまいたくなるチャフの笑顔が、この時はより一層「無視できないもの」としてアーロンの目に映った。
「ええ。ただし油断はできませんな。宇宙にトラブルはつきものですから」
アーロンは男の目を見てそう言った。
「やはり局長殿は堅実なお方だ。ところでクルーの方々も準備は万端だとか」
「ええ、既に二ヶ月前から彼らはシンガポールに到着しており、飛び立つ準備をしていますよ」
「では出発は予定通りと」
アーロンは頷いた。
「今頃はきっと知らせを聞いて喜んでいるに違いない。失業しなくて済みそうだとね」
「それは結構。私もマイナスを出さずに済みそうです」
そこでチャフの背後にいた部下らしき男が彼に向かってなにやら耳打ちをすると、彼は名残惜しいとばかりに別れを告げた。
「私もこれから出なくては。多忙はお互い様ですな」
そう言い残しチャフは去った。
そして誰もいなくなった空間に向かってアーロンはため息をついた。自然や宇宙法則よりも人間を相手にする方がよほど骨が折れるとは、なんとも不可解なことこの上ない。
アーロンは気を取り直して、再度モニターに映る彗星とそれを覆う植物の写真に目をやった。まさにそれは希望だった。
彗星という女神を纏うベールは、美しく暗黒の空間に漂い、美そのものの象徴に見えた。彼女の後ろへなびく羽衣に誘われた人類は、愚かしくもこの罠にはまってしまったのだろうか。アーロンにとってそれほどまでに彗星は美しく、冷酷な感じがした。
だが構わないさ。アーロンは思った。いくらでも泥を啜ろう、底に沈む砂金を得るためならば。
彗星のくびれに根をはる蔓は、まるで一度つかんだ女神の腰布を必死になって離すまいとする人間の手に見えた。
・・・ドレッシャー彗星による近日点通過の二ヶ月前・・・
シンガポールのチャンギ国際空港に一機のプライベートジェットが降り立った。その機体の側面には赤と青でカラーリングされたロゴマークが輝いている。
停止した機体にタラップがかかり、中から何人かの男女が降りてくる。一同は室内外の気温差にうんざりしたような足取りで、太陽の照りつけるアスファルトの上へと降り立った。
高温多湿(ホット&ウェット)をさも手厚い歓迎の証だと言わんばかりに、シンガポールは訪問者の誰もが全く望んでいない献身的なパーティに招待することを決めたらしい。大地から湧き上がる陽炎は、遠くから見た者にまるで彼らが喜びのダンスに身を揺らしているかのように錯覚させる。そんなホットな歓迎も、ウィットに富んだジョークで済ませて欲しかったと訪問者の誰もが感じたことだろう。
その中に宇宙飛行士ミモザ・ダイスマンの姿はあった。全員がうんざりするほどの暑さにこうべを垂れる中、彼女だけははっきりとした足取りで、その目を確固たる使命に燃やしていた。
一同はチャーターした車に分かれて乗り込む。ミモザは同僚のドゥーベとヘリックスと一緒に乗った。
三人が向かい合って座るのと同時に、車がゆっくりと発進する。
「まったくどういうわけだ。訓練がハイチでミッションがシンガポール。上の連中には効率というものがないらしい」
後部座席に座るやいなや、ドゥーベはきつく腕を組み文句をたれた。
「到着した途端いきなりなんなのドゥーベ。暑いのはわかるけどイライラしないで」
ミモザは同僚の変化にすでに気づいており、うんざりとした様子でため息をついた。
「別に暑いのは向こうでも一緒だったよ。ただしわざわざ暑いところに行かなきゃならなくなったという点ではもっと悪い」
「仕方がないでしょう。投擲シャトルの部品のほとんどはアジア製だし、こっちで組み立てるのが効率的なの。それに何より、ハイチだとドレッシャー彗星との位置関係が悪いの」
「それもまだ俺は納得いってないぜ。アジア製だろうが国際共有の時代だろう?物流の障壁なんてあってないようなものじゃないか」
「ここがステイツだったらね」
ミモザは返答に窮したように、しぶしぶだが部分的な同意を認めた。
事実ドゥーベの言うことにも一理あるからだ。
二一世紀の終わりからドラスティックに増大した物流や衛星システムの変化に合わせ、統一言語による共通使用(コモンユース)の義務化が奨励さてほぼ四半世紀が過ぎようとしていた。しかし世界が目指した真の「統一」という意味では、幾つかのアジアの大国を中心にその進度はさながら、杖をついた老人の足取りに勝るとも劣らずといった緩慢ぶりを発揮していた。その中の一つに旧中国を筆頭とした第三大陸政府があるが、前者のような方針を示す諸外国の足を引っ張らんとする外交姿勢に対してドゥーベは遠回しに批難を表していた。
「それに位置関係だってちょっと日にちを変えてやればたちまち逆転する」
好機と思ったドゥーベはさらにたたみかけた。
「やめて。決定は絶対よ。ベストな軌道にベストな位置から射出する。何の過不足なく全て計算されたファイナルアンサー。それがたまたまここだっただけよ」
「おいおいご都合主義者の運命論か。俺のひいばあちゃんと同じことを言わないでくれ。化けて出てきそうだ」
「あの、一つよろしいでしょうか」
二人の会話を遮り無機質なヴォイスが車内に響いた。言葉を発したのは、ただ一人向かい側の席に座っていたヘリックスだった。彼は穏やかな微笑みを浮かべたまま姿勢良く座っていた。
「なんだよポンコツ」
ドゥーベは鼻を鳴らした。
「お二人の会話に耳を傾けながら考えていたことがあります」
「何?ヘリックス」
ミモザは優しくそう聞いた。
「旧人類の時代では、女性は結婚や妊娠を控えると、浮き足立ったような心理的状態に陥り、不安や焦りから言動が荒くなるといったデータがあります」
「俗に言うマリッジブルーやマタニティブルーというやつね」ミモザは知っていると言わんばかりに頷いた。そして「私はそもそも旧人類じゃないし、そのどちらも未経験だから分からないけど」と肩をすくめる。
「はい、そうです。先ほどからドゥーベに対してそれと似たような症状が伺えます」
「俺が腹にベイビーでも抱えているように見えるか?」
ドゥーベは腰に手を当ててお腹を突き出しながらそう言った。それを見てミモザは三ヶ月くらいかしらと思ったが、面倒事をこれ以上増やしたくなかったため、黙ったままだった。
「いえ、ドゥーベが抱えているのは赤ちゃん(ベイビー)ではなく、もしも(メイビー)といった不安なのではないでしょうか」
一瞬の沈黙の後、ミモザがひとりでに笑い始めた。
「それ、素敵なジョークね」
ミモザが横を見るとドゥーベは顔を真っ赤にさせていた。「ちがっ」という声にならないような否定をするが、その後に返す言葉も思いつかず口をパクパクさせている。
「図星のようね。意外と神経が細くて驚いたわ」
「ヘリックス、これ以上は何も言うなよ」
ドゥーベは目の前の相手に向かって念を押す。
「彼は場を和ませようとしただけじゃない」
ミモザは呆れたようにため息をつく。
ヘリックスは周囲の人間の感情を認識(センシング)する。それがポジティブに働いていれば何もせず、ネガティヴに傾けばフラットに戻そうと思考する。特殊シリコンで形成された表情が可能にする多彩な感情表現も、アーカイブに保存されたコメディアン風のお寒い駄洒落からインテリジェンスな言葉遊びまであらゆる場面で対応できるコミュニケートアルゴリズムも、それを達成するための手段にすぎない。それが人に近いボディを充てがわれた「この」ヘリックスの役割の一つでもあった。
「俺は土壇場になって環境を変えるのが嫌なんだ。初めからシンガポールで訓練すりゃいいものをなんで上のやつらは」
誰に対する言い訳(エクスキュース)なのかわからない台詞を先ほどの失態を隠すようにドゥーベは弱々しい声でひとりごちた。
「訓練設備にやはり問題があるのかと。ドゥーベ、それほど本部の施設は優れているということです」
ヘリックスの口調はまるで子供をなだめるかのような穏やかなものだとミモザは思った。
ドゥーベは特に面白そうもなく、窓から外を眺めていた。
「ヘリックス、命令だ。海の見えるバイパスルートに変更要請する」
「指揮系統が違います。私にこの車のアクセス権はありません」
「今与えた」
ヘリックスはやれやれといった表情を浮かべ、緩慢な動作で何事かを発した。
やがてミモザたちを乗せた車は一団から離れ、速度を上げながら目的地とは別の方向へ転換した。
「局長に怒られても知らないわよ、ドゥーベ」
「どうせ早くついたってやることはない。上昇時間に間に合えば問題ないさ」
そう言うとドゥーベは天に向かって指を立てた。
ミモザは深いため息をつく。今からこの調子で本当に大丈夫かと彼女は思った。
「私まで共犯じゃない。責任追及されたらどうするの」
「その時は滔々と説くとするさ、宇宙飛行士におけるストレス緩和の重要性を」そこでドゥーベは目の前の相手に向けて顎をしゃくった。「もちろんヘリックスがな」
車はやがて速度を落とした。
三人は外を眺め風景に浸る。
眼前には海とそしてそれを取り囲む島々が広がっており、三人を楽しませた。ドゥーベは後部座席に腕を回しながらゆったりと景色を堪能した。
一方ミモザは片耳に装着していたバイザーを展開すると嬉しそうに写真を撮り始めた。身を乗り出して景色に見入る姿はまるで子供のようだ。そして写真に満足するとおもむろに神妙な顔つきになった。
「ねえ、この百年くらいでどれくらい水位が上がったのかしら。もしかしたら中には水没した都市や島々があるかもしれない」
「お答えしましょうか」
景色に目もくれず、同じ姿勢を保っていたヘリックスが口を開いた。
ドゥーベは人差し指を唇に立てると眉をひそめた。
「ううん、大丈夫よ」ミモザは優しく微笑んで言った。その表情にはもう憂いや悲痛は感じられなかった。「ただ私は、それらの物や思い出が沈む海を眺めているんだってこと、今走っているここもいずれはそうなってしまうかもしれないということ、それを再確認したかっただけなの」
「宇宙へ旅立つ我々にとってそれを認識しているかどうかじゃ、使命も責務もあったもんじゃない。そういうことだろう、ミモザ」
「そうね。私たちが宇宙にいるとき、いえ、どこにいたとしても、いつだって考えるのは地球のことだわ。それが宇宙飛行士ってものよ」
ミモザの目の中では使命という揺るぎない炎が、静かだが確実に燃えている。まるで彼女の目の中に薪をくべる誰かが住みついているように。
「そうかもしれないな」
ドゥーベは彼にしては珍しく素直に同意した。
ミモザたちの乗った車は当然のことながら一番最後に目的地に到着した。別れた一団はすでに到着しておりミモザたちを待っていた。しかし時間にしてみれば遅れは一〇分程度のものだった。
三人は車を降り、空を眺める。やはり外は暑い。太陽が睨みを効かせるように照りつけ、彼らの真下に落ちる影を焼き付けていた。
ミモザたちは車の後方に回り込み、荷物を降ろす。全てが終わった後に誰もいない無人車は発進し、自分の仕事に戻っていった。
三人は一団めがけて歩き出す。視線は上を見つめたままだった。
「ここ以外のステーションにも行ったことはあるの?例えばヴィクトリアとか」
「俺はどっちも初めてだ。ああハイチが恋しいぜ」
「まだ言ってる。すぐにミッションが始まってそんな悠長なことも言っていられなくなるわ」
「今度はきっと地球が恋しくなりますよ」
「ヘリックス、それはフォローのつもりか?」
ドゥーベは呆れたようにため息をついた。
「さあ私たちの新しいホームに挨拶するわよ」
ミモザはそう言って目の前の建造物に笑いかけた。
ベースとなるターミナルビルがどっしりと構えている。
そしてそこから出ているのは、目に見えるかどうかも怪しい細い筋だった。
それが一直線に天に向かって伸びていた。まるで空間に定規を当ててペンで引いたようだとミモザは思った。
視力限界と太陽のせいで頂点まで見ることができない。
ミモザはそこでいつも奇妙な錯覚にとらわれる。これの全体像はいつもモニターで見ているので知っているはずなのに、それを実物と一致させることができないのだ。
あまりにも長さのスケールが日常からかけ離れていた。
今からミモザたちの命を握るのは全長一〇万キロメートルという桁違いのスケールを誇る靴紐よりも細い糸。
それは途切れているようにも、永遠に続いているようにも見えたのだった。
To be continued...
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