【6】研究室の主

 考古学研究室の隅に追いやられるように置いてあるソファーの上で、紅茶を飲んで一息ついているのは、この研究室で唯一落ち着き払っている、研究室最古参の研究員、【三隅みすみ 栄治えいじ 】。内輪ではエージェントスミスと呼ばれている男である。その所以ゆえんは…


「ここは無駄話をする場所ではありません。日夜勉学にいそしむ者のための施設です。いい大人が…静かに話せませんか?まったく」


と、物音ひとつ立てずに紅茶をすすり、あたかもエージェントのように常に冷静さを保っているためである。


 それに、スミスは大学の研究室内にしては異質なほど、身なりをしっかりと整えている。全身真っ黒のピシッとしたスーツに、しっかり糊付のりづけされた真っ白なシャツ、ネクタイは本人曰く毎日変えているらしいが、いつも黒い細めのネクタイをしているため、周囲からは全く見分けがつかない。


 また、曲がったことが大嫌いで、文字通り曲がり角すら直角に曲がりそうな勢いである。紅茶を飲む小指すら立てているくらいである。


 もちろん、研究員として大学に籍を置ける最終年という、崖っぷち(隅っこ)に追いやられているという裏の意味もあるのだが、それはスミスの知るところではない。


 とまあ、エージェントスミスはいつだって大真面目で、特別何か面白いことをするわけではないものの、周囲からはなぜか好かれている人気者である。


「スミスさん!ちょっとそこ空けて」


と、松野が両手いっぱいに食堂のおばちゃんから袋詰めしてもらった食料をテーブルに並べながら、スミスをますます隅へと追いやる。


 15も年の離れた下っ端研究員からの扱いも、スミスにとっては日常茶飯事。少しも動じることはない。これこそが、スミスが皆からの一種の羨望せんぼうを受ける要因なのかもしれない。


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 美味しそうな匂いに満たされた考古学研究室内で、音もなく目の前の食卓に広げられた持ち帰り用のプラスチック容器をみるみるうちに空にしていく男を横目に、普段強気な松野にしては珍しく、気まずそうにどう見ても幼女にしか見えない小さな女性に幾度も頭を下げている。今にも床に頭をつけ…それどころか、小さな女性の靴すら舐めそうな勢いである。


「え…雛川さんは、私より年上なんですか…?失礼なことをして、本当にごめんなさい」


 ひとまわりも小さい女性(雛川)に平謝りをしている松野の横で、香ばしい匂いの漂う料理に夢中になっているのは、何も魁斗だけではない。魁斗と同じくらい大食らいの圭二である。


 ひときわ小さな女性に平謝りをしている松野は、バツが悪そうにテーブルの上いっぱいに並べられた食材を口に頬張る魁斗と、雛川とを交互に見ている。が、ただでさえ空腹時には得意の謎解きどころか、食欲以外に思考が向かない魁斗が、松野の視線に気づくはずもない。


「別にいいです。慣れっこですから」


 雛川は小学生に間違えられたことより、朝寝る間も惜しんでセットした髪の毛をぐしゃぐしゃにされたことに不満顔で、元々癖の強い髪の毛を必死に手で押さえつけている。


「仕方ないよー。雛川先輩は童顔だもの」


 研究室内に言いようのない気まずい空気が流れたところで、


「相葉くん…君ね」


と、それまでソファーの隅で紅茶を静かに飲んでいたスミス氏が、不意に口を開く。


「えっ!?びっくりしたぁ。三隅さんかー」


「私には “ 仕方ない ” と相葉くんが告げる根拠が分かりませんがー」


 スミス氏は紅茶の入ったカップを静かにテーブルの上に置き、眼鏡をいて掛け直すと、怒涛どとうの如く話し始めた。


「童顔であるということが仕方がないなどと、少しも因果関係がないと思いませんか?何も年相応に見えることが、人の価値を決めるものではありません。年齢によって差別を受けたり優遇されることは、本来あってはならないことなのです。若さが特別視されることも、年長者が尊大に振舞うことも、どちらも日本文化の良くない点でしょう。もちろん、尋問時や証言時など職業上の不都合もあるでしょうが、今は雛川さんは仕事中ではないのですから、不相応でしょう」


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「あ…やば。三隅さんに火がついた…」


「それに、松野くんにも一言申し上げたいことがあります。仮にも女性ともあろうものが、無闇矢鱈むやみやたらに床に手をついて土下座をするのは感心しませんね。そもそも土下座というものはー(略)」


「雛川先輩、三隅さんがうんちく言い出すと長いから、そっとこの場をはけましょう」


 圭二が困惑顔の相川を連れて、考古学研究室から出て行こうとしたとき、それまでテーブルの上にある、ありとあらゆる料理を片っ端からはしでつついていた魁斗が、不意に雛川を呼び止める。


「雛川さん」


 魁斗は雛川を呼び止めたはいいものの、無言のまま雛川の顔を見つめたまま微動だにしない。時間にしたら10秒程度ではあったものの、雛川は魁斗の力強い瞳に見つめられた状態で、息も絶え絶えになり


「え…ええっ…カイトさん、な、な、ななな」


と、分かりやすいほどに動揺が隠せないでいると、


「雛川さん、今スマホの電源切ってます?15秒後に着信あるので、電源入れてください」


と告げる魁斗のあっけらかんとした様子に、すっかり拍子抜けしてしまった。


「へ…?なんだぁ、そんなこと。って、なんでスマホ切ってるって知って」


「そんなことは問題じゃない。恐らく重要な要件だろうから、急いで」


「はいっ…あっ…!!!」


 雛川は魁斗に急かされるまま、胸ポケットに入れていたスマホを取り出し、即座に電源を入れる。と、電源が入ると同時に振動があり、思わず取り落としそうになる。しかし、着信画面に映し出された文字を見るや否や、今度こそスマホを取り落とし “うぎゃ” と小さく叫ぶと、慌てて研究室を出て行ってしまった。


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 雛川がいなくなった研究室内は、あいも変わらず松野に説教をしている三隅の声と、食後のコーヒーを満足気にすすっている魁斗の舌鼓したつづみの音。それに雛川を追って行こうか、室内に残ろうか悩んで、研究室内の机と机の間を行ったり来たりする圭二の足音が、カツカツと響いていた。


 そこに、廊下をさらにけたたましく駆けてくるハイヒールの音が重なり、不協和音を奏でる。血相を変えた雛川が研究室のドアから


「ど…どうしよう…!?」


と飛び込んできたときには、全員が一斉に雛川を見て目を丸くした。普段冷静な三隅でさえ、驚いて啜っていた紅茶のカップを落としそうになり、地面すれすれでキャッチしたほどである。


 それは、こんな会話から始まった。


「警視総監から電話きたーーーーーーー!!!」


 ここまでであれば、刑事である雛川に警視総監から電話が入ろうが、さほど不思議ではないのだが


「なんと!今からこちらにいらっしゃるって!!!!!」


と付け加えたからである。


「えええええええええ!!!!!」


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