【Chapter1.1】準備室の主
[2020年11月3日(火祝) 横浜にある大学の一角]
古びたカビの匂いで満たされた広さ6畳ほどの準備室で、あたかも時の流れに埋もれるように、古い書物に覆い尽くされ、文字通り埋もれている男がいる。
その男は日がな1日、この狭っ苦しい室内で過ごしているが、大概は “学会の準備” と言いながらも、ただ寝て過ごしている。どこかのホテルのドアに掛かっていたであろう「DO NOT DISTURB(邪魔しないでください)」と書かれたドアプレートが年中この準備室のドアにも掛かっているが、すっかり薄汚れてNOTの文字は消えかかっている。とは言え、この部屋の主を起こそうとしても土台無理な話である。
陽のほとんど射さないここ考古学準備室は、多種多様な珍しい物で溢れている。前述したように、古い書物もゴロゴロ転がっていれば、壁には不気味な謎のお面、いわくつきの絵画など、室内の至る所に世界中のコレクターが泣いて欲しがるお宝までも無秩序に転がっている。しかし、この部屋の主と化している男にとって、 “ただ古い” だけの物には何の価値もなく、こうやって陽の目を見ることなく、ひっそりと息づいているのだ。
そんな時の流れが停滞した場所でも、時を知らせる
「んもう!先生ってば、3日間誰にも行き先を告げずに出かけたと思えば、帰ってくるなりこんなとこで布団もかけずに寝て…。一体何考えてるんですか!分かってます!?丸一日ですよ!?24時間!!!」
ドアをノックもせず飛び込んできては息巻いているこの女性は、考古学研究室の研究員。
そして、先生と呼ばれた男こそが本作主人公。
「
「んー………」
「仕方ないですね。学食閉まっちゃいますよ!?早く起きないと夕飯食べ損ないますけど、いいんですか?今日のメニューは肉じゃがだそうですよ、にくじゃが」
「肉じゃが!?」
————7————
“肉じゃが” と聞いて飛び起きた男は、【
国内でも有数の名門大学、その中でもとりわけ考古学の世界でも類を見ない希少な理系に籍を置く理学部考古学専攻の准教授である彼は、現在不在の教授に代わり、この考古学研究室を一手に担っている。
トレードマークは、前髪で顔の半分以上が埋もれている顔に、ボサボサ寝起き頭。常に着用していてすっかりヨレヨレになった白衣と、グレーのくったりしたパーカー。考古学研究室、準備室の部屋の主と言われ、いつも眠そうな顔をしており、物静かなこともあり “サイレンサー” と密かに呼ばれている。その本来の由来こそ大学内ではほとんど知られてはいないが、 “泣く子も黙る” という異名から来ているらしい。
魁斗にとっては、考古学准教授は特に望んで得た地位ではない。
“たまたま” 発表した論文が、立て続けに学会で高評価を得たこと。
“偶然” 掘り当てたものが、世界中の歴史学者達を
“運良く” 準教授の席が空いたということ。その上、教授が渡米する為に、後任を即座に探さなければいけなかったというだけのこと。
いくつかの偶然が重なり、本人が意図することなく、いつの間にか准教授になっていた。それが魁斗の言い分であった。
何しろ、本人は研究自体よりも寝ている方が好きなほど、あまり研究には熱心ではなかった。(本人談)決して古いものが嫌いなわけではないが、特別好きだというわけでもない。 “向こうから探される” ので、応えてやる他ない。と語るので、
ただ一つ、魁斗が古いものを好きな理由はある。それは、ものは “偽らない” からだ。調査する者の先入観や意識、能力次第でもあるが、もの自体は自らを偽ることはない。魁斗にとっては、 “真実” の探求が何よりも重要で、これこそが彼が正確な研究成果を上げている
「嘘ですよ。今日は祝日ですし、残念ながら肉じゃがの日じゃないです」
「嘘…。
————8————
松子と呼ばれた女性は……
「松子じゃないですって!【
失礼。松野と呼んで欲しい女性は、今年の4月から考古学研究室の研究員として迎えられ、それ以来7ヶ月もの間、魁斗の助手…とは名ばかりの雑用をさせられている。特に、
彼女は考古学の世界では権威と呼ばれる有名な教授を慕ってこの研究室に飛び込んだものの、目当ての教授が現在海外へと長期
と言うのは建前で、本音は部屋の主に こそ 憧れて、彼の
部屋の主は全く記憶していないが、彼女とは実は何年も前に出会っているのだ。それは幼少期まで
「まあ、嘘ですけど。昨晩は肉じゃがでしたよ、本当に。あ、そんなことはどうでもいいですが、先程から黒音先生を訪ねて来てる方がいらしてますがー」
そう言って、マツコが開ける内開きの扉の向こうから、1人の男性がひょっこりと顔を覗かせた。
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その男性を、魁斗は頭頂部から足元まで一通り眺める。白髪の混じり始めた髪と顔に刻まれた
「飼い犬探しですか?でしたら、私のとこではなく、早々に保健所に連絡した方がいいですよ。この辺で1番近い保健所の電話は、045-〇〇〇-〇〇〇〇———」
と、魁斗は淡々と告げる。男性は驚いて、軽く会釈だけをすると、即座にスマートフォンを取り出し、犬のくたびれたストラップを揺らしながら研究室を出て行ってしまった。
一言も発することなく、こうやって魁斗には相手の欲するものが分かってしまうのである。大きなため息をつく魁斗に、マツコが目を丸くして詰め寄る。
「えっ、すごい!黒音先生!どうして分かったんですか!?」
「どうして?そんなの、
「わ…みんな合ってます。あ、でもあの男性がまだ保健所に連絡してないって、なんで分かったんですか!?」
「それは聴こえたから———」
魁斗は途中まで言いかけて、やめた。言いづらそうに辺りをキョロキョロ見回すと、軽く右手を
「なんとなくだ。そんなことより、マツコくんはなぜ祝日なのにこんなとこにいる?大方、俺に論文のチェックでも頼みに来たんだろうが」
とマツコの意図を、いとも簡単に読んでしまった。
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「うぐ…。黒音先生、鋭すぎます!でも、それなら話は早いですね!」
「あ。今は勘弁…って聞いてないし…」
魁斗の言うことも聞かず、マツコは準備室の扉をパタパタと出て行くと、ものの数秒で戻ってくる。その手には、20枚程度の紙の束を持っている。
“ わざわざ紙媒体に出力しなくっても ” と言いかけた魁斗だが、それ以前にマツコの手にした紙の厚みに
「紙の厚さ誤差1mm…なんだ、まだ全然進んでないじゃないか。第一、マツコくんは論文まだ半分も書けてないだろ?その紙の薄さじゃ、半分どころかまだ考察のところさえ到達してないだろ」
と、
「ううううう…でも、でもぉ」
と、引き下がる様子もない。いよいよ温厚な魁斗も、本領を発揮する。“ サイレンサー ” と学生間でまことしやかに語られる
「でもも、だけどもない。言い訳する暇があるなら、論文を書き進めなさい。次のミーティングまでに考察に入ってなかったら、君を助手から外すからな」
「そんなぁ、先生!そんな意地悪言わないでくださいってばぁ」
「意地悪じゃない。単なる計算に基づく事実だ。マツコくんの書くペースから算出するに、来年の学会までに間に合わせるには、毎日8時間は机に向かわないと間に合わない。助手としての仕事で1日8時間は拘束される。それ以外に寝食の時間などを差し引いてー」
「ああああ!!!もうそれ以上は言わないでくださいっっっ」
「分かったなら、ほれ。とっとと家に帰った帰った」
いかにも面倒臭そうに手でしっしと追い払う仕草をする魁斗に、さすがに不毛な泣き真似をやめたマツコが、諦めて研究準備室から出て行こうとしたとき、何かを思い出したように振り返る。
「あー!それより先生。一晩中寝てたってことは、ミケちゃんのお世話はいいんですか?この肉じゃ———」
「ミケ!!?」
魁斗はソファーから跳ね起き、ものの数秒で研究室からいなくなってしまった。
「肉じゃが食べてからお帰りくださいね…って言おうとしたのに…もう!せっかく作ってきたのに…ばか教師」
誰もいなくなった準備室で、松野は大きくため息をついた。松野が本音を魁斗に言えないのは、このタイミングの悪さのせいもある。
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