もう一つの忘却

@saki-yutaro

もう一つの忘却

「もう一つの忘却」 咲雄太郎


 すかすかの道路というのはどこかもの寂しく孤独を誘うが、日本の交通事情にほとほと嫌気がさしていた俺にとってはむしろ絶好のシチュエーションだった。鼻歌交じりにクラクションを鳴り響かせたい気分である。

唯一の不満があるとすれば……。俺はハンドルに片手を乗せたまま人の通らない横断歩道を見つめる。こういう日に限ってよく赤信号に捕まってしまう事だ。

「……ここで一八時のニュースをお伝えいたします」

 シックなジャズ演奏が終り、ラジオ放送の女性が軽快な声を上げる。俺はいつ変わるかも分からない信号を前に耳を傾けていた。

「警報が出されてから今日で一週間が経ちますが、依然としてロストライツの警戒は解かれていません。みなさん、できるだけ外出を避け遮蔽の効く家屋へと避難してください。またロストライツ発生前後は通信障害が起こり、通信機器などに異常をきたす恐れが……」

 そこで信号が青に変わり俺はアクセルを踏む。

空を見上げるとそこにはパレット絵具のような広大な色彩が天を覆い尽くしていた。都会には似つかわしいオーロラの光景にいつも俺の心は怪しく揺さぶられる。

赤、青、黄色。信号のようだ。真っ暗な夜空に浮かぶオーロラを眺め、ふとそんなことを考える。

気まぐれにラジオのチューニングをいじる。すぐにアナウンサーの声はかん高いロックバンドのボーカルのそれへと変わった。

「ノーザンライツか」

 ラジオから聞こえてくるこの曲に俺は聞き覚えがあった。一九八〇年代後半に北欧メタルムーブメントの隆盛を担ったTNTというヘヴィメタバンドの一曲である。「Northern Lights」とは北アメリカやオーストラリア周辺でオーロラを意味する。なんのめぐり合わせか、まさに今日この時にぴったりの曲であった。

 空を分かつ幻想的な横断幕が発現してからおよそ一時間が経つ。そろそろかと思ったその時、助手席に置いていた携帯が鳴った。

「私だ」通話ボタンを押すと間髪いれずに声の主はそう言った。

「そうじゃないかと思いましたよ、ベア博士」

「それなら話が早い。観測は順調か?」

 俺はラジオの音量を通話の邪魔にならない程度まで下げる。

「順調も何もまだあれは起こってないでしょう?観測準備はどうだというのなら、ええまあ概ね順調です。目的地点まであと一〇分といったところですかね」

「少々状況が変わった。五分だ。例のポイントまで五分で向かってくれ」

「随分急な話ですね」

 俺はドクターと会話をしつつもアクセルを踏み込み速度を上げる。しかし再び目の前の信号は赤へと変わる。急ブレーキをかけ、振動する車体に鞭打つように俺はハンドルを殴りつけた。

「太陽の動きに変化があった。どうやらフレアの突発的な爆発を予期できなかったようだ。さらには宇宙線による波長干渉で位相にも誤差が…」

「ところでドクター、今流れている曲が何か分かりますか?」

 俺は咄嗟に話題を変える。放っておけばいつまでも独り言のように分析を続けているだろう。聞かれていない事でも話そうとする。もちろん本人としては会話をしているつもりなどなく、自分の思考を整理しているにすぎないのであろうが、聞かされる方はたまったものではない。それはベア博士の悪い癖だった。

「知るものか」

 ドクターはまるでお気に入りのおもちゃを取り上げられた子供のように露骨に不機嫌をあらわした。

「はりあいないですね」俺は再びアクセルを踏む。「ノーザンライツです。TNTの。わかります?」俺はなるべくドクターをあせらせないようにゆっくりと、一語一語噛みしめるようにそう聞いた。

「私がまだ若かったころの世代だ。もう白亜紀の化石同然だよ」

 ドクターの声は幾分か落ち着きを取り戻しており、冗談を飛ばす程度には余裕があるようだ。

「そんなことより、君の方は大丈夫なのかね。おしゃべりなどしていて」

 ドクターはそこでスイッチを切り替えたように研究者としての自分に戻っていた。その言葉には事務的な連絡と、仕事に対する熱心さと、そしてずぼらな部下への叱責とが入り混じったような感情がこめられていた。俺は俺でそんな気持ちを察しながらも一人冷静でいようと努めていた。

「アンテナはセットオーケーか?遮蔽率は今何パーセントまで達している?」

 次々に押し寄せる波のようにドクターは質問をぶつける。

「先ほども申しあげたように準備は万全ですよ」

 そう報告しながら俺は、空いている左手で観測の準備を進める。どうせ電話からじゃこちらの状況は見えないのだから、今やろうとも別にかまわないだろう。

「ふん、優秀だな。しかしもしものこともあるだろう。現在のオーロラの状態はどうだ?」

 この心配性の熊親父が。

 俺は心の中でドクターに対する悪態をつきながらもさらに車の速度を上げた。

「極めて良好ですよ。カラフルに光っていますし、ええ何より綺麗です」

 フロントガラスから見える光景に思わず俺は笑みを浮かべる。窓辺のカーテンがそよ風を受けてひらりと揺れるように、オーロラは絶えず変化を続けている。いつ見ても飽きない景色だ。

「そんな呑気な事を聞いているんじゃない。もし観測に失敗してみろ。この一週間の我慢が全て無駄になるぞ」

 焦りは失敗につながる。ドクターの言い方そのものが焦りを助長していることを遠まわしに伝えたかった俺だが、特に上手いたとえ話も思いつかなかったので最後に一言だけ言い残す。

「じゃあそうならないようにせいぜい祈っていてくださいよ」

 神頼み。なんとも科学者に似つかわしい言葉である。俺はそう言って携帯を閉じるとそれを元の場所へ放り投げた。

 ベア博士は熊みたいな図体の割にはひどく繊細な男である。心配性で常に不安と隣り合わせのような性格で、まあそれは決して部下や自分に対する不信からくるものではないのだが、とにかく誤魔化しの効かない上司には違いなかった。

 しかしこの観測に関して言えば俺もベア博士も共感できる事が一つある。

失敗は許されない。

もちろん俺は仕事に対してはそこそこの熱心さしか持ち合わせてはいないが、それでもドクターやラボの仲間に共感できるのは一人の研究者としての意地にも似た責任や使命感からであった。

 再び現れた赤信号が落ち着きかけた俺の焦りに追い打ちをかける。目的地はそこの交差点を左折すればすぐである。準備もすでに完了しているし、このままいけばなんとか間に合うはずだ。人通りの全くない道路で標識にかまってやる義務など毛頭ない。俺は交差点を突っ切って左へと折れた。

 その時だった。まばゆいばかりの閃光が俺の視界を遮った。

 ロストライツの発生であった。

それはまさに偏光グラスをかけようとした瞬間の事であり、俺の視覚は一時機能停止した。そしてそれがつかの間の隙を生み、俺は車のコントロールを失った。次に見た光景は「女性」と「電柱」だった。

咄嗟にハンドルを電柱の方へと切ったのは正しい選択だったはずだ。何にとって正しいのか。それは偽善である。倒れている女性が俺のせいなのかオーロラの光のせいなのか判別がつかないうちに車体に衝撃が走る。失っていく意識の中で、俺は死んだじいさんの最期の言葉を思い出した。

「出会いがしらに気をつけろ」


 ロストライツは自然災害の一種である。一〇年前、アラスカのアンカレッジで観測されたのが最初であった。それはまばゆいばかりの閃光が稲妻のように空をかける現象である。その前哨として夜空にオーロラが現れるが、発現期間は三〇分から一週間と幅があり、それら二つの関係性は未だにわかっていない。

なぜロストライツが地震や台風以上に恐れられる自然災害の一つなのか。

ロストライツは人々からあるものを奪う。

それは記憶である。地震や台風が人間の住居を奪うように、ロストライツも人々から記憶を奪い去っていく。

そもそもロストライツとは電磁波の一種であり、閃光と共に地上へと振りかかる。その時、網膜を通して脳内に伝えられた電磁波が人の大脳皮質へと影響を与え細胞の一部の機能を停止させる。これが後に記憶の喪失という形であらわれる。つまりおおざっぱに言ってしまうと、この光を見た者は記憶を失うという事だ。

一〇年前のアラスカの事故では市内のおよそ九〇パーセント以上の者になんらかの記憶障害が起こっており、一時期世界最大のパニックにつながったとも騒がれたほどだった。なにより厄介だった事は、記憶を失った者の身元の特定が困難だった事にある。大脳皮質は主に古い記憶の貯蔵場所として知られているが、そこに直接ダメージが与えられたせいでほとんどの者が「自分が誰」なのか忘れてしまっていたのだ。

その後も世界各地でこの現象は確認され、国連で第一級の自然災害として認定された。さらに丁度その頃からあらゆる大学や研究機関でロストライツに関する研究が進められ、この現象がどうやら太陽の活動に起因しているという事を突き止めた。

またロストライツに伴うオーロラの発現には様々な見解が飛び交っていて、例えばなぜ極地方特有のオーロラが中緯度地域の日本の空でも見られるのかといった問いにはまだ明確な答えは出ていない。六年前にMITの教授が出版したロストライツに関する著書に興味深い一文がある。

「この世で最も残酷で美しい災害はロストライツを置いてほかにない。人々は過去に愛した人間を忘れる事はあってもこの現象が起こすオーロラの光を忘れる事はない。その光が自身の喪失を表す傷跡であるという事も気付かずに」

 この言葉は記憶を失った者に対する同情と、そのリスクを冒してでもオーロラを見たいという熱狂者やマスコミに対する皮肉を含んでおり、世界的に有名な言葉となった。

 そういうわけでこの一〇年で人々はロストライツに対して様々な事を学んだ。主に原因と対応策について研究され、それが出版やウェブなどを通して一般常識化された。

 実はこの現象を回避する事は決して難しいことではない。静電遮蔽という原理によってロストライツが放つ電磁波をほぼ一〇〇パーセント遮断することが可能になったのだ。例えば携帯電話を電子レンジの中に入れると電波は届かなくなる。それは電子レンジ内部の導体が電波を遮断しているからだ。その原理が一般家屋や自動車といった乗り物にも応用され、被害件数はここ数年で激減した。もちろん内側からの電波も遮断されるため、一度電波を家庭内に設置した端末に預けて、それを有線の信号で外の発信源まで送らなければいけないという面倒な変換作業を人々は強いられることになったのだが、記憶の喪失というリスクと比べれば大した問題ではなかった。世界規模で建築様式や自動車設計の見直しが図られ、歴史的稀に見る一大改革が行われた事はまだ記憶に新しい。

そして身の安全を確保した人々が次に目を向けたのは犠牲者の救済だった。記憶を失った人々は初めの一年でおよそ一〇〇万人にも上り、未だにその九割が記憶を失ったままである。記憶の復元には数多くの研究者の努力が注がれたが、その成果がようやく実ったのはつい最近になってのことだった。そう、今回俺の任務もその成果をより揺るぎないものにするための実験の一つだった。


病室へとつながる扉を前に、俺は入ろうかどうしようかと迷っていた。いや実際には選択肢は一つしかないのだが、やはりどういった顔で被害者に会えばいいのか俺にはわからなかった。

事故が起きてから二日目の朝、俺は被害者の女性に会いに行こうと決心した。ベア博士に事情を話し研究を午前で切り上げさせてもらい、昼から大学病院へと赴いた。しかしいざ来てみると何をどうしたらいいのかさっぱりわからず、途方に暮れてしまっていた。

落ち着かない心境のまま扉の前に立ちつくしていると、エレベーターから一台のワゴン車を押した看護師が下りてくるのが見えた。俺はそれに急かされるように病室の扉を開ける。目の前には真っ白なシーツでメイキングされたベッドと窓の外を眺める一人の女性の姿があった。女性は音に気付いてこちらを振り向く。

「ええっと……」俺が言葉を選んでいるうちに「ごめんなさい」という彼女のか細い声が部屋を包んだ。

「もし私の知り合いの方だったらごめんなさい。今私、右も左もわからない状態で……」

 俺はなぜか彼女のその言葉に安堵した。恐らく彼女は誰が来てもそう言うのだろう。それが彼女にとって一番人を傷つけず、自分の状態を相手に伝える事ができるとわかっているからだ。しかし俺は思わぬところで肩の荷を降ろされたような気分になっていた。いくらか緊張が和らぎ、自然と脱力する。

「初めまして。自分は藤田というものです。あなたと会うのはこれが最初です」俺は軽く会釈をし、相手の反応を窺う。

「ああ、あなたが藤田さん」そこで女性の声はいくらかはっきりとしたものへと変わった。うっすらと笑顔のようなものも見える。笑うとえくぼが出る、優しい顔である。

「どうして名前を?」俺は驚いて眉をあげる。記憶を失った見知らぬ女性に名前を憶えられるというのはどこか奇妙な感じがした。

「先生から聞いたんです。事故に遭った私を病院まで連れてきてくれた方だって」

 ああ、と俺は頷く。事故が起きた時、衝突のショックで俺は一時意識を失っていた。起こされたのはベア博士の電話のおかげだった。その後倒れている彼女を車に乗せ(今さら思うがよくあんなへこんだ状態で動いたものである)、病院まで運んだのだった。

「名乗った覚えはないのですが……。その主治医の方の名前を聞いてもよろしいですか?」

「ええ、確か桑畑先生だったと思います。今朝も検査をするとかで一度お会いしました」

 桑畑。その名前を聞いて俺は得心がいく。

「どうりで。彼とは大学の頃、同期だったんです。サークルが一緒で、今でもよく飲みに行ったりして。ここで働いている事は知っていましたが、まさかあなたの担当医だったとは。奇妙な偶然もあるものですね」

「はい、本当に」彼女は静かに受け答える。そんな彼女の口調に俺は不思議な気持ちにさせられる。目の前の女性は本当に記憶を失っているのだろうか。やけに落ち着いた態度を取っているが、不安はないのだろうか。俺はそんな疑問を訊ねたい衝動をなんとか抑える。

少しの沈黙の後、彼女は思い出したように「あの」と言った。

「病院まで運んでいただいてありがとうございます」

彼女の言葉に俺は慌てて首を振った。

「いや、そんなお礼だなんて。むしろ怪我をさせていないかずっと心配だったんです。体の方は大丈夫なんですか?」

 俺は最も気がかりであった質問を彼女に投げかける。

「ええ、傷の方は大した事ないそうです。倒れた時に少しすりむいたくらいで」

「それはよかった」俺は安堵のため息を吐く。どうやら俺は彼女をはねてはいなかったようだ。そして再び沈黙が訪れる。

数秒後俺は純粋な疑問を彼女にぶつけた。

「でも一体どうしてあんなところにいたのですか?ロストライツの警報はまだ出ていたと思いますが…」そう言ってから失敗したと俺は後悔した。彼女がとたんに悲しそうな顔――非力な自分に対する申し訳なさ――を浮かべたからだ。

「すみません。先生にも聞かれたのですが、どうも思い出せなくて。どうしてあそこにいたのかも、自分の名前と職業も、それに親や友人の顔さえも……」

「ごめんなさい」俺は謝るしかなかった。そして今日は潮時だと思い再び口を開く。

「あの、またお見舞いに来ます。自分にも責任の一端はあると思うので」

「そんな、助けてもらったうえにそこまでしてもらうわけには」

 彼女の言葉を打ち消すように俺は大きく首を振った。

「俺がそうしたいんです」

 俺は彼女の顔を真正面から見つめた。肩のあたりまで伸びたつやのある黒髪と、左目じりの下にぽつんとある泣きぼくろが印象的である。俺の視線に気づき、彼女は照れるように下を向くと「そうですか」と小さく言った。

「では、今日はこの辺で」そういうなり彼女に背を向けたが、そこであれと思う。そういえば彼女の名前を聞くのを忘れていた。一歩進んだところで立ち止り、聞き返そうかどうしようかと悩んでいるとうしろから声が掛った。

「水谷です。水谷しおりです。そうIDカードには記載されていました」

 俺が後ろを振り向くと意外な事に彼女は笑っていた。

「全然実感ないんですけどね、自分の名前」

 彼女の笑顔には皮肉や理不尽というものがあらわれていなかったせいか、釣られて俺も笑ってしまう。お互いに会釈を交わすと俺は病室をあとにした。


 翌日俺は研究室で先日観測したオーロラ分析のデータ収集に追われていた。昨日午前で切り上げてしまった事もあり、今日で遅れを取り返そうと躍起になって仕事をしているうちに時刻は正午を優にまわっていた。ようやくひと段落したところでかつての友人である桑畑が職場へと現れた。まるで昼休みを狙ったかのようなタイミングで、案の定「昼飯でも食わないか」と誘ってきた。俺は突然の友人の訪問に、喜び半分、面倒くささ半分の笑みを浮かべ、こくりと頷いた。

「仕事はどうした?」

近くのレストランに入り、それぞれが注文したところで俺は尋ねた。

「今日は非番だ」桑畑はなんともなしにそう答える。

「水谷しおりさんの担当医なんだってな、お前」

 そこで桑畑は特に驚くわけでもなく、意味深長な微笑を浮かべる。

「もう名前まで聞いたのか。手回しが早い奴だな」

 俺は友人の残念な言動にあきれてため息をついた。

「茶化すな。こっちは怪我させていないかずっと心配していたんだ。ところで桑畑、どうして彼女を病院まで連れてきたのが俺だって分かったんだ?」

 水谷しおりが藤田と言う名前を知っていた事を思い出した俺は桑畑に質問した。病院では直接桑畑とは会っていない。そこがどうしても引っ掛かっていた。

「駐車場に停めてあったライトバンを見たのさ。ずいぶんへこんでいたようだけど、どこか見覚えがあると思ってね。ナンバープレートを見て、ああ藤田のだって思いだしたんだ。ちなみにその日搬送された患者は彼女の他にはいない。それだけだよ」

 内心でどうして俺のバンのナンバーを覚えているんだと聞きたいのをこらえ、「なるほどね」と適当に返した。再び「ところで」と話題を移す。

「昨日の彼女は随分と落ち着いているように見えたのだけど、記憶喪失者っていうのはみんなあんな感じなのか?」

 俺は水谷しおりのあの奇妙な雰囲気に疑問を呈した。桑畑もどうやら察しがついたらしく神妙な顔つきになる。

「どうだろうな。俺が担当した患者は水谷しおりで三人目だし。ただやっぱり前の二人とは少し違う気もする。なんというか記憶を失った事に対しての不安が今の彼女からはあまり感じられないな」

「そうか。彼女の経歴については何か分かったのか?」

「それなんだが、水谷しおりのIDカードを見させてもらった」

「勝手に覗いたのか?」

「違う。医療上の都合ってやつだ。それに公開可能な情報までしか見ていない」

 プライバシーについての概念や法律はロストライツが発生するようになってから変化していった。特に情報の公開についてはより一層慎重になったと言える。例えば記憶喪失後に本人が自身の情報開示を許可したとしても、記憶を失う前の本人の意志が開示に否定的だった場合、意志の矛盾が生まれてしまう。そこで国際医療機関はID内の情報に「公開可能」と「公開不可能」という分類を施した。そして同機関はロストライツの被害者に対し次のような取り決めを行った。

「IDカードに記載されている公開可能な情報であれば、医療、司法および公安機関は本人の合意の下開示することができる。また公開不可能な情報は本人の意志であってもむやみに開示することはできない」

これは情報開示によって生じる当人の不利益を避けるためである。つまり藪をつついて蛇を出すようなことは避けたいというわけだ。

「アメリカ国籍ってことと、古くに両親を亡くしているってこと以外はいたって普通の女性だったよ。ただ……」

「ただ?」

 そこで桑畑は首を振る。

「いやなんでもない。詳しい事はまた調べてみるつもりだけど、こういうデリケートな問題には首を突っ込みたくないのが本心なんだよなあ」

 桑畑は実に厄介だと言わんばかりに肩をすぼめた。

「それがお前の仕事だろう」

 目の前の友人は何も答えずに無言のままアメリカンコーヒーをすする。そんなことは言われるまでもないという事なのだろう。

 それから俺たちはしばらくの間雑談を交わし、お互いにコーヒーを二杯ずつ飲みほしたところで桑畑は席を立った。帰り際に友人は「また何かわかったら報告する。その前に病院で会うかもしれないが」という冷やかしを残し、俺達は別れた。


 俺が水谷しおりの病室へ再び訪れたのは三日後の事だった。また来ますと言っておきながら三日もブランクがあったのはひとえに仕事が忙しかったからだ。ロストライツの波長解析や太陽観測の報告書などを書いているうちに気付けば彼女の事はすっかりと頭から消えてしまっていた。

しかしそんな子供じみた言い訳が通じないことを、彼女と再び会うことで俺は痛感した。彼女にとってみれば俺の忙しさや、世界のための研究なんてものは一切関係がないのだ。彼女は今、自分が誰なのかという答えの出ない疑問を抱えたまま、誰も知らない世界で日々の無聊に耐えている。勝手な推測になるが、もしこの世界で唯一知る人間が俺で、また来ますという根拠のない言葉だけを信じて病室の扉が開かれるのを今か今かと待っていたとすれば、一体それはどれほどのストレスになるのだろう。病室で彼女の顔を見た時、俺はそんな大袈裟な妄想にとりつかれていた。

 彼女の目には初めて会った時のような落ち着きの色は無くなっており、主人の帰りを待つ犬か、捨てられた子猫のような不安がにじんでいた。それが俺の顔を見るや否や、目から淀んだ濁りが消え、表情がぱっと明るくなった時、俺はむしろこみあげる切なさで胸が締めつけられた。一人留守番をしている時や、親友にひどい裏切りをされた時。だれしもが一回は経験するあの寂しさを俺はどうして今まで忘れていたのだろう。彼女が不安を抱え今まで過ごしてきた事にどうしてもっと気を配ってやれなかったのだろう。

「またいらしてくれてうれしいです」水谷しおりはそう言った。「もう来てくれないかと思いました」そう非難されてもおかしくない状況で彼女は自然にそう言った。

「今まで来られなくてすみません。調子はどうですか?」俺は後悔に背中を突かれたように謝罪した。

「体の方はもう万全です。記憶の方はさっぱりなんですけどね」彼女はそこでも笑う。先ほどの不安を隠そうとしているのか、彼女特有の性質のためか俺には判断がつかない。

「そうですか……。ところで今日はこういうものを持ってきたのですが」

 俺はそういうなり紙袋からオセロ盤を取り出した。彼女は「あ、オセロ」と言いながら少し表情を緩ませる。

「病院じゃあ退屈でしょう。一緒にやりません?」俺は精いっぱいの笑顔を向けてそう言った。彼女が理由を聞かずに頷いてくれたのはありがたいことだった。

 アムネセラピーという言葉がある。これは正式な医学用語ではないが、ロストライツが頻繁に発生するようになってからある病院の看護師たちの間から始まり、各国の医療機関で奨励されるようになった言葉だ。意味は記憶喪失を表す「アムネジア」と、癒しを伴う治療を表す「セラピー」の複合語である。その病院では記憶喪失者を多く収容しており、患者の精神面での看護がこの言葉のきっかけだった。

記憶を失った患者は様々なストレスに悩まされる。それは自分が誰なのかと言うアイデンティティの喪失による不安だったり、見覚えのない人間が自分の友人や家族と称し、向けて来る同情の目だったりと千差万別だが、それによるストレスは計り知れないほど大きい。

そんな精神的なストレスを少しでも緩和しようと考えられたのがアムネセラピーの概念であった。今や小学校の道徳の授業でも簡単に扱われるほど広く伝播した知識だが、その基本的な考えの一つに「記憶喪失者に対し追憶を強要してはいけない」というものがある。彼らにとって記憶を思い出そうとする作業自体が負担になる。だから無理に思い出させてはいけない。ロストライツに関わる仕事をする者であれば――たとえそれが研究者であっても――常に肝に銘じておかなければいけないことであり、俺も例外ではない。

水谷しおりにオセロを提案したのは彼女を記憶から遠ざけるためだった。そうすることで少しでもストレスを緩和し、不安を消すことが今の彼女にとって必要なことだと俺は思った。もちろん病院でもそういった措置は取られているのだろうが、義務としてではなく、自発的な関係から生まれる安心感が必要なのだ。

俺と水谷しおりは時間が許す限りゲームを楽しんだ。オセロが終われば次にチェス、トランプと続き、しまいには彼女がやったことがないという花札まで取り出し、丁寧にルールを教えた。新しい玩具を紙袋から取り出し、終わっては中にしまいを繰り返した。ステレオデッキと家にあったCDを数枚取り出した時は彼女も流石に驚いていたようで「藤田さんの紙袋って四次元ポケットみたいですね」と無邪気に笑っていた。


翌日から俺は研究所で仕事を済ますと、そのまま水谷しおりのいる病院へと通うようになった。彼女に会うときは常に例の紙袋を携帯し、その日ごとに違ったお土産――お菓子やフルーツのような食べ物からはじまり、ゲーム盤や雑誌類のような娯楽品まで、とにかく家と研究所に置いてあった私物のほとんどだ――を持っていった。彼女と二人で病室にいるときは基本的には持参したボードゲームやCDなどで楽しんだ。時々病院の外を散歩する事もあり、雨上がりの虹や、色づく紅葉を見ながら他愛もない雑談を交わした。そんな日々が一週間ほど続いた。

その日もオセロ盤越しに彼女と向き合っていた。オセロは最近の彼女のささやかなブームなのである。

「なんか私の病室、藤田さんが持ってきてくれたお土産のおかげでどんどんにぎやかになっていきますね」

 彼女は自分のベッドの周りを見渡しながらそう言った。確かに彼女の周りは物であふれている。本当ににぎやかだ。

「まるで子供部屋みたいです。まあ一番足りないものと言えばその子供なんですけど」

 俺も彼女の笑顔につられて思わず笑ってしまう。

「実はそうでもないんですよ」

 彼女はマジシャンがとっておきの仕掛けで観客を驚かせるような含み笑いを漏らした。

「へえ、と言いますと?」

「最近隣の病室からよく子供たちがやって来るんです。この部屋だけ異常に遊び道具があるってすぐに噂になっちゃったみたいで。私も私で検査がない時は暇なので彼らがいい遊び相手になってくれているんです。そうやって子供たちと遊んでいる間は記憶の事とか自分の事とか考えなくていいおかげで随分と楽で……」

 彼女の声はフェードアウトするように小さくなっていったせいで俺は最後まで聞くことができなかった。しかし彼女の言わんとする事は何となく分かった。分かるからこそ俺はあえて彼女の言葉をじっと待つ。

「それでもどこかで考えてしまうんです。寝る前やシャワーを浴びてるときなんかに。自分はいったいどういう人間だったのだろうとか、いつ記憶が戻るんだろうとか、あのオーロラってオセロに似ているなとか」

「おせろ?」俺は思わずその単語に反応してしまい、やまびこのように繰り返す。そして顔の下に置かれたオセロ盤を見下ろした。

「はい。オセロって一枚に表と裏、白と黒があるじゃないですか。その二面性がなんだかあのオーロラに似ている気がするんです。美しさと残酷さを兼ね備えているというか」

「二面性、ですか……。確かに共通点ではありますね」

 そう口ではいうもののどうだろうかとオセロ盤に問うてみる。もちろん返答などはありはしない。ロストライツとオセロの共通点……。不思議な話だ。

「幸せってなんでしょう?人を好きになるってどういうことなんでしょう?オーロラは私の感情全てを持って行ってしまいました」

 彼女はどこか達観したように、ある意味冷やかにそう呟いた。俺はしばらく黙って考える。無責任に答えたくはない。しかしこのままにもしたくはない。

「自分の経験上からしか語れないんですけど……」俺はそんな前置きをしてからゆっくりと口を開く。

「人を好きになるっていうことはオセロに似ていると自分は思います」

「おせろ?」

 今度は彼女がそう繰り返した。俺は少し気恥ずかしさを感じ、苦笑するものの構わず続ける。

「オセロって最初は自分の色だった一枚のチップが周りの色によって変化しますよね。黒になったり、逆に白に戻ったり。恋愛もそれとおんなじで『好きだ』という感情もひとえに白ではないんです。例えば自分にとって好意的な相手が自分以外の他の誰かを好きだったり憧れていたりすると、自分の白い感情は嫉妬という黒に反転します。そうやって常に白と黒を行き来しながら人は苦悶しているんだと思います」

 言い終わってから彼女を見ると、どこか尊敬のまなざしのような目を向けていた。

「随分確信めいた事を言いますね。でも説得力はあります。流石経験上なだけはありますね」

「はい。経験上なんです」

 俺は苦笑いを浮かべる。なぜ自分からこんな奇妙な恋愛論が滔々と出てきたのかは分からない。しかも経験上とは言っても、いつどこの恋愛経験がトリガーとなったのかさえ今はもう思い出せない。遠い昔のことだったのか、あるいは何かの受け売りなのか。その時俺は自分の言葉に自分の知らない自分を見たような気がした。


 桑畑に呼び出されたのはそれから数日後のことだった。先日のような友人としての来訪ではなく、仕事の話をするためである。仕事とはつまり双方ともにロストライツに関係する事であるのは確かなのだが、それ以上に水谷しおりの事とも深く関係していた。

病院の一室で白衣を着た男が二人、真剣なまなざしで目の前のカルテを見つめている。

「これらの写真は検査によって分かった彼女の脳内反応の結果だ。お前ももう知っているように彼女の症状は全健忘だ。つまりロストライツによって一切の過去を失っている。左から順により昔の事を思い出そうとしている時の彼女の脳内の反応をスキャンしたものだが、見事なまでに真っ黒だ。普通ならこんなふうにシナプス同士の相互作用の様子に色がつくんだけどな」

 桑畑は別の写真を俺に見せながらそう言った。確かに彼女と他の被験者とを比較すると、彼女の反応は著しく乏しい。

「まあロストライツのフラッシュを直接見たのだから、当然と言えば当然なんだがな。ところで今回の災害の規模は判明したのか?」

 俺は写真に目を向けたまま黙って頷く。

「一〇年前アラスカで起きたロストライツとだいたい同じくらいの規模だよ。ただしフラッシュの継続時間がそれの一・七倍だったから解析にかなり手間取ったのは事実だ」

 そこで桑畑はひゅうと口笛を吹く。

「それでか。てっきり俺はお前が水谷しおりと会っているせいで仕事に身が入らないんじゃないかと思ってたぜ」

「軽口はよせ」俺は桑畑に牽制を入れる。「ところで視覚反応の結果はどうなんだ?」

「それなんだがな…」

 桑畑は何をためらっているのか言葉を濁す。

「どこか変なんだよ」

「変?」

「まあとりあえずこのパネルを見てくれ」

 桑畑はそう言うなりデスクのスクリーンに一六枚のパネルを映しだした。どれも水谷しおりの脳内反応のCTスキャンだが、今度の写真は先ほどのものよりもシナプスの反応がうかがえる。

「これがどうした?」

「見て分からないか?」

「俺はただの研究者だ。医者でも、ましてや脳科学者でもない」

 桑畑は諦めて肩をすくめた。

「側頭葉の大脳皮質における右下の部分……ほらここだ。ここの部分がどの波長にも反応を示さない。他の部分はちゃんとロストライツの電磁波に類似する波長にはちゃんと反応しているのに」

「まだ調べていない波長領域があるんじゃないか?」

 桑畑は首を振って否定した。

「実はこれのほかにあと数十枚くらい別の波長で試した写真があるんだが、いずれもだめだったよ。それにこれ以上波長領域を広げても意味がない。ロストライツの波長範囲からはずれてしまうからだ。あとは波長を細かく刻んでいくしかないんだよ」

 桑畑は納得のいかない表情を浮かべ、反応しない箇所を指でトントンと叩いた。

「なるほど。で、側頭葉のその部分に反応がないと一体どういうことが言えるんだ?」

「こんなケースは俺も初めてだから正直憶測もたたない」桑畑はそう言って白旗を上げた。しかしあっさりと敗北を認めるのもどうかと思い直したらしく、「ただ」と付け加える。

「事実をありのまま解釈するならば、彼女にはある時期より以前の過去が存在しないことになる」

「過去が存在しない?笑えないジョークだな、それは」

 あまりにも荒唐無稽な話に俺は即座に反発した。

「俺だってその仮説が馬鹿らしいことぐらいわかっているよ。でもそうじゃなきゃこの現象は説明できない」桑畑はまるで懇願するように食い下がった。

「まあでもそれは」

「それは彼女の記憶をよみがえらせてみれば分かる、だろ?その通りだ。一応現段階で判明した彼女の視覚的刺激反応のデータをまとめておいた。確認してくれ」

 桑畑はそう言うと、俺に封筒を手渡した。俺は中に入っていたデータ表に目を通す。

「どうだ?リマインダーの作製に使えそうか?」

「作ってみなければわからない。ただこのデータを見る限りじゃまず成功するだろうな。詳細に観察されている」

「ところで藤田、俺はどうもそのリマインダーという機械をよくわかっていないんだが。あれがどうして記憶の復元に役立つんだ?」

 桑畑は聞いてきた。

「まあ簡単に言ってしまえばリマインダーはショック療法の一種だな」

「というと?」

「なぜロストライツが人の記憶を奪うかは説明するまでもないな?」

 桑畑は眉間にしわを寄せ、フンと鼻を鳴らした。

「無論だ。ロストライツの電磁波は網膜を通じて脳内へと入り、特異な波長で脳内のシナプスの活動を停止させる。記憶とはそもそもシナプス同士の結合によって保たれるのだから、その接続が阻害されれば当然過去の記憶は忘却される」

「そう。そしてリマインダーにはその停止したシナプスを活性化させ、接続を復活させることができる」

「どうやって?」

「具体的にはロストライツと同程度、いやそれ以上の刺激を与える。そのためにはロストライツの波長を基板にした映像と微弱電流を使う。解析した波長を映像(ロストライツのフラッシュは一瞬だがその何百倍にも引き延ばしたもの)で再現し、それを患者に向けて逆再生させる。視覚から伝わった刺激はやがて脳へと伝わる。もちろん映像による刺激など記憶復元のただのきっかけ程度の効果しかないが、そこで脳に微弱電流を流し、振幅を増大させる。そうだな、いわば心臓マッサージで生き返らせるようなものだ」

 俺は桑畑の表情を窺う。納得したような、納得していないような、曖昧な顔つきだ。

「まだリマインダーは試作段階なのか?それともすでに治療方法として導入されているのか?」

「もうすでに実用段階だ。それがどうした?」

「じゃあなぜ、未だに記憶喪失者の多くが記憶を失ったままなのかと思ってな。とっくに全員が記憶を取り戻していてもよさそうなものだろう」

「重要なのは逆再生という手順だ。忘れた事を順番に思い出していかなければいけない。そのためにはロストライツの波長解析が何より大切になってくる。しかしこの装置が考案、実用されるようになったのは五年以内の事だ。その時になってようやくロストライツという現象を厳密に観測しようという動きがあった。それ以前じゃあロストライツの観測データがほとんど残っていないのさ」

「じゃあ五年以上前にロストライツに巻き込まれた被害者の記憶の復元は不可能だという事か?」

「まあ、理論上そうなるな。ただ何がきっかけで記憶を取り戻すのかわからないのが医学だろう。数年前にベートーヴェンの『運命』を聞いて記憶が戻ったという例を俺は聞いた事があるぞ」

 そこで桑畑は大きく笑った。

「そういう例なら俺もよく聞く。アメリカで、ある会社に就職した男性がロストライツの被害者で、記憶が戻ってからその男が実は親会社の元社長だったことが判明した、とかな」

 俺は首を傾げる。

「なぜそんなことが起きる?」

「あっちの国じゃロストライツの被害者には新しい戸籍と経歴が与えられることになっている。たとえ本籍がアメリカでなくても望めばアメリカ国民としてやっていけるんだよ。その男も名前から何まで全て新しく手に入れたものだった。末端の子会社の人間が気付かないのも無理ない話だよ」

 俺はふうんと相槌を打った。

「アメリカか……」

 そこで俺は意味もなく呟く。

「嫌なことを思い出させちまったか?」

「は、なんのことだ?」

「とぼけるなよ。大学の頃、お前ひどい顔してたぜ」

「は、え、だからなんの話を……」

「まあ、別にそれはいいけどさ」

 桑畑は呆れたように肩をすくめる。

一体何なのだ。俺は桑畑の言いたい事が全く分からなかった。アメリカなんて俺は一度も行った事がない。大学の頃とは何の話だ。会話の齟齬に俺は違和感を覚えた。しかしそれに言及する前に桑畑の方から先に口を開いた。

「そうだ、お前に水谷しおりの事について少し言っておくことがある」

「なんだ?」

「彼女は前向性健忘の疑いがある」

「前向性……。なんだそれは?」

「いわゆる記憶をなくした時より前の記憶を失う事を逆向性健忘といって、ドラマなんかで見る『ここはどこ、私は誰』状態がこれにあたる。反対にそれ以降の記憶を失う事を前向性健忘と言うんだ」

「彼女がどうしてそれになる?」

「彼女だけでなく過去の記憶を全て失った者にはよくある事なんだ。ロストライツの影響でシナプスの活動が著しく低下している今、新しい記憶が定着しにくい。まあ他にも人格の分裂を防ぐため、脳による防衛本能だという説もあるが、前者の方が有力だ。いずれにせよ今は大丈夫でも彼女が記憶を取り戻した時、それまでの記憶を保持できないかもしれないんだ。つまり……」

 そこで桑畑は一泊開けた。

「つまり記憶を取り戻した時、彼女の時間はロストライツに巻き込まれる前までリセットされる」


 冬の先がけのような凍てつく寒さが数日続き、それが終ると、陽気で柔和な暖かさが訪れた。室内にゆったりとした音楽が流れる。移ろう季節の鼓動のような、不安定で掴みどころのないリズムが、俺と彼女の空間に漂っている。空気のようなその曲調に、思わず俺は耳で深呼吸を一つした。空が近い草原の上で、大自然の息吹を感じながらスーハーとやるような心地よさである。

「よし、できた」水谷しおりは恍惚とした溜息をつき、そう言った。

 目をつぶっていた俺は、少し寝そうになっていたのかもしれない。彼女の声で、危うく落としかけた本を何とか拾い上げ、読みかけのページに栞を挟むと、それを膝の上へと置いた。彼女の方に視線を移す。

「藤田さん、どう?」彼女は完成したばかりの手編みのマフラーを広げ、俺に見せた。その上から彼女の愛くるしい笑顔がのぞく。その顔を見たとたん、俺の中に意地の悪い、しかし憎めない感情が沸き起こる。

「青と紫、そして白だ」

 彼女の顔に不機嫌の色が浮かぶ。

「もう、そういうことじゃなくって」

 俺は分かっているよ、といった仕草で彼女をなだめる。そして彼女はおもむろに自分の首へとマフラーを巻いて見せた。そして再び、「どう?」と聞く。

「見た目よりもずっとあったかそうだ」

 俺は素直な感想を口にする。それを聞いた彼女は、一度自分の首からマフラーを外し、今度は俺の首にそれを巻いた。わずかに肌と肌が触れ合う。

「うん、想像よりもずっとあたたかい」

 鼻元に彼女の匂いが漂ってくる。それは不思議と懐かしい匂いのような気がした。追憶を促すような特別な匂い。

「それ、気に入ったならあげる」彼女はぽつりとそう呟いた。見ると俯きかげんでこちらの様子を窺っている。照れているのだ。

「ありがとう。丁度欲しかったところなんだ。君がそれを作っている時から、どうやってもらおうかとずっと考えていたよ」

 俺は少しおどけた表情で彼女を見る。彼女は「ばか」と小さく言ったが、そこに悪意は感じられない。むしろ正反対の愛情表現にすら感じた。

 自分の作ったマフラーに顔をうずめている俺を見て、満足そうに微笑むと、彼女は別の色の毛糸を取り出し「よし」と言った。

「また作るの?」

「今度は私の。まあもしかしたら最後まで完成はしないかもしれないけど」

 その言葉に俺は少しだけ胸が締め付けられる。彼女がリマインダーによって記憶を取り戻す日はもう間近に迫っていた。翌日にはテストが行われ、その二日後にはいよいよ彼女の番である。リマインダーによる記憶の復元が成功すれば、彼女はようやく自分が誰なのかという不安から解放される。しかし俺の頭の中には、先日桑畑から言われた言葉が刻み込まれていた。

彼女の時間はロストライツに巻き込まれる前までリセットされる。

俺にはそれが彼女を失うことを意味しているとよくわかっていた。彼女にはそのことを告げていない。告げられるはずがない。

「記憶を失う前の私も、こんな風に他の誰かのために編み物をしている人間だったら面白いわ」ほどいた毛糸を指でもてあそびながら、彼女はそんな事を口にした。

「UNOで連続ドロー・ツーに本気で怒るほど、大人気ない人間だとしても面白いよ」俺はこれまでの病院での出来事を思い出す。花札だろうがオセロだろうが、一回一回のゲームに喜怒哀楽を示す彼女の顔が浮かんできた。

「だってあんなの卑怯じゃん。しかもあれでラスト一枚にして……。もう手の打ちようがないよ」

 若干論点のずれている彼女の反応に俺は苦笑した。

「やるなら徹底的に。俺の主義だよ」

「そっちの方が大人気ない」

 そこで彼女は笑う。つられて俺も笑う。こんな時間が永遠に続くとは思っていない。それでも一秒でも長く、彼女と一緒にいたいと思う。そう願わずにはいられなかった。


 翌日の朝、俺の研究室ではリマインダーの試運転が行われようとしていた。室内には俺やベア博士を含めた四人の科学者がいたが、実験による緊張感はさほどなく、各々試験前の準備をしているところだった。ロストライツが発生した日――もう一か月も前のことになるが――研究所では慌ただしいくらいに観測前の補正と分析に追われていた。後で聞いた話だが、直前でロストライツの発生状況が変わったこともあり、ラボ内の温度が三度も上がったなどと、まことしやかにささやかれたものだった。それほど観測前の空気はピリピリとしていた。しかし、いざロストライツの観測を無事終えてみると、あとは解析と実験を繰り返すだけで、あの忙しさがまるで嘘のように穏やかな日々が戻っていた。そもそも日本での発生件数が毎年一〇回未満という中で、このように一地区の研究所がロストライツの観測を任されること自体がもうすでに珍しい事なのである。そう考えると俺やラボのみんなにとってこの一か月は、まさに一生に一度あるかないかのビッグイベントであった。その集大成を飾るのがこのリマインダーの完成である。そしてそれは俺にとっても特別なことであった。今回、ロストライツの被害に遭った人間はただ一人、水谷しおりだ。このリマインダーは彼女専用のものと言ってもいい。そしてこの二週間、俺はリマインダーの作製に腐心してきた。なにより彼女のためだった。

「準備はいいかね、藤田君」

 ベア博士はくぐもった声でそう問いかける。しかしこちらを見ようとはせず、しかと目の前のスクリーンを凝視していた。

「はい、シンクロ率、再生速度、共に規定値オーバーです。いつでもいけます」

 俺は他の仲間にも合図を送るとパソコンのエンターキーに手をかける。ベア博士は右手を挙げてゴーサインを出した。

「逆再生、始めます」

 俺はキーボードを軽くたたく。その瞬間、スクリーンには幾何学的な波形の紋様が映し出され、うねりながら画面一杯に散らばった。それはオーロラのカーテンのようにも、悪魔のしっぽのようにも見えた。時々スクリーンにフラッシュが走る。ロストライツの疑似光線だ。最初は弱かった光が徐々にその光度を増していく。三、二、一、フラッシュ。次のフラッシュはロストライツに匹敵するレヴェルだ。他の研究員は偏光グラスをかけ、光を遮断している。この時俺はぼんやりとあの日の出来事を思い出していた。偏光グラスをかけようとしたその時にロストライツに遭遇し、まばゆいばかりの閃光が俺の視界を覆い尽くしたあの瞬間。三、二、一、フラッシュ。

その時、俺の意識は光の中へと吸い込まれた。

 

 目が覚めた時、俺はラボのベッドに横たわっていた。虚ろな瞳に映る、曇天のような灰色をした天井は、普段見慣れている研究室のそれだった。はっきりとしない視界に何か黒い物体がにゅっと入り込んでくる。それがベア博士の顔だとわかるのにしばらくかかった。どうやら俺は実験中に倒れてしまったらしい。そんなことを思い出す。しかし思い出したのはそれだけではなかった。

「気がついたかね、藤田君」

 覗きこんでいたドクターの目が瞬きをする。俺はゆっくりと上体を起こした。頭がドロドロの粘土になったみたいだ。思わずこめかみを押さえる。

「頭、痛いのかね?」

 答える気力もなく、俺は首を横に振った。

 しばらくの沈黙が流れる。

 ドクターはふうと溜息をつくとゆっくりと口を開いた。

「君は……」

「自分も、被害者の一人だったみたいですね」

 俺はドクターの言葉を待たずに、そんなことを呟いていた。隣にいる大男はもう一度溜息をついた。

「一体何を忘れていたんだね?」

「遠い昔の事です」俺はなぜかドクターの顔を直視することができなかった。ただ曖昧にそう答えた。

 そこで他の仲間の一人が駆け寄ってきて言った。

「今大学病院の方に問い合わせて、先日の検査結果の見直しをさせたところ、藤田さんには部分健忘の兆候がみられたそうです。恐らく原因は偏光グラスをかけ損ねた事によって遮蔽率が七〇パーセントを割ったためでしょう。バンのフロントガラスに施された遮蔽装備では不十分だったのだと思います。しかしあまりにもわずかな部分だったので病院側も見落としてしまったらしく……」

 そこでドクターは部下を閉口させた。「下がっていなさい」と一言かけると彼の方も察しがついたらしく、一礼してから部屋を出て行った。

 俺は頭の中の整理がつかないまま、シーツを握りしめ、どこか不安定な一点を見つめていた。まだ夢の中にいるみたいだった。

 ベア博士がそっと肩に手を置いた。俺は自分が震えていた事に気付く。彼のぬくもりが妙に心地よかった。この人になら話してもいいかもしれない。そんな甘えにも似た考えが頭をよぎる。ただはやく楽になりたかっただけなのだろう。

「今までずっと忘れていました。忘れられるはずがないのに。現実って奴は道化師みたいなものです。人を小馬鹿にしたように高笑って……。残酷な仕打ちとでも言うんでしょうか。また彼女と出会う事になっていたなんて……」


 俺と水谷しおりが初めて出会ったのは――ロストライツに遭遇したあの日の晩――ではなく、大学生の頃だった。もう七年も前の事になるだろうか。その頃俺は一年間の留学制度を利用し、単身でアメリカへと訪れていた。そこで地元の大学へと通う事になったのだが、同じ学科に所属する日本人はたったの二人だけであった。俺とそのもう一人がしおりだった。しおりは中学までは日本で過ごし、高校からはとある事情からアメリカへと引っ越していた。そのため英語に関しては、日常生活から大学の講義を受ける事まで何一つ問題なく、ネイティブ同様になじんでいたと言える。しかし講義室で見る彼女の姿はいつも一人であった。それは幼いころから日本人として育てられてきたしおりが、その感性を捨てられずに周囲の人間との隔たりを解消できなかったことが原因なのだろう。あくまで彼女と他の友人との間には距離があった。

一方俺は俺で、英語がまるでできない日本人の典型であったため、周囲とのコミュニケーションがほとんど成立せず、初めの一か月は物置のように放置されていた。もちろん積極的に話しかけてくれる者もいるにはいたが、拙い英語と奇妙な身振りに内心呆れていたはずである。そんな学科でのあぶれ者同士が一緒に行動するのはある意味必然であった。俺は何かあるとすぐにしおりの元へ行き、授業の内容だったり、教科書の翻訳だったりを聞くのだった。彼女はその度に、同郷のよしみという親切心からか、しょうがないといった表情を浮かべながらも、懇切丁寧に俺の要求にこたえてくれた。彼女の流暢な英語と楽器のような発声に俺はいつも聴き惚れた。

アプローチは俺からした。食事に誘い、遊びに誘い、都合が悪いと断られても俺は諦めなかった。最後にはいつものしょうがないといった表情を浮かべ、首を縦に振るしおりにますます俺は惹かれていった。そんな彼女と恋人同士になるのは時間の問題だった。

そういえば記憶を失ったしおりは病室でこんなことを言っていた。記憶を失う前の私も、こんな風に他の誰かのために編み物をしている人間だったら面白い、と。実際当時の彼女は、編み物をする趣味など持ち合わせてはいなかったが、一度だけマフラーをプレゼントされた事がある。それはクリスマスのイブだった。牡丹雪みたいな大雪が降った夜で、あの時もしおりは俺の首にマフラーを巻いてくれた。肌と肌が触れ合う感触と、しおりの優しい匂い。今思えばあの感覚に懐かしさを覚えたのは至極当然の事である。後にも先にもしおりからプレゼントをもらったのはこの一回きりであった。それにしてもあの時もらったマフラーはどこへ行ってしまったのだろう。

彼女の母親が亡くなったのは丁度中学から高校へと上がる時分だった。もともと母子家庭で、唯一の拠り所を失った彼女は、ほどなくして母方の祖父がいるアメリカへと移っていった。当時決まっていた高校を断念し、アメリカの高校へ通う事になったのはひとえに経済的な都合だった。

しおりが自分の過去を話してくれることは滅多になかった。夜ベッドの中で互いの呼吸を感じながら添い寝している時にひっそりと、まるで溜息をつくみたいに断片的に話し出すのだった。そんな彼女の独白を、夢うつつの意識の中で俺は聞いていた。しかし決して聞き逃すようなことはしなかった。彼女の声は現実以上にリアルであった。そしてそれは今も変わらない。

放課後には映画を見に行き、休みの日にはピクニックに行った。普通の恋人同士が行うような普通のデートや食事で俺たちは満足した。二人でいる時間だけが何より愛おしかった。

別れは、俺が日本へ帰国するよりもずっと早くに訪れた。その頃留学してからすでに一〇カ月が経っており、俺のしおりに対する執着はますます強くなっていた。俺の心には嫉妬の鬼が常に住みついていたのである。彼女と並んで歩くたびに、周囲の男の目が気になった。彼女が他の男と話すだけで俺は逆上しそうになった。

そして遂に事件は起きた。いや俺が起こしたのだ。当時同じ授業を取っていた者の中にマッドという青年がいた。マッドは背も高く、スポーツマン系の男子で女子からも人気があった。そんな彼に初めから俺は劣等感を覚えていたし、そこにしおりを介入させることでさらにややこしい感情へと変わっていた。

そしてある日俺は目撃した。しおりがそのマッドを部屋へ入れているのを。あとで誤解は解けたものの、その時俺はあらぬ想像を働かせ、茹で上がった頭のままで彼女の部屋へと乗りこんで、そのままマッドに襲いかかった。怒りのままに彼を殴りつけ、興奮した俺をしおりがようやくなだめて、事態は収束した。しかし当然、事は学校にも知らされ、俺には日本への強制送還という処分が言い渡された。マッドを殴りつけたあの日から日本へ帰る日まで、俺はしおりと会う事はなかった。一方的に拒絶して、しおりもそのうち諦めた。やがて別れを言う時間もなく俺は日本へと帰国した。

その後の大学生活はその時の後悔を刻みつけるには十分な時間だった。桑畑風に言うならば、確かにあの頃の俺は「ひどい顔」をしていたのだろう。今から思うと、先日の桑畑との食い違いはロストライツが原因だったのだ。

当時の若かった自分を一体何回疎ましいと感じたことか。しおりの心と体を自分の配下に置かなければ気が済まない独占欲にほとほと嫌気がさした。

しおりとはその後、会ってはいない。連絡すら取ろうともしなかった。そして俺自身、もう二度と彼女と会う事はないだろうと思っていた。あの日、ロストライツに巻き込まれるまでは。

彼女との記憶はまるでオセロのようだった。真っ白なくらいの純愛と、汚れきった嫉妬の黒さ。病室で語ったあの恋愛論は、まさにこのことだったのだ。シーソーゲームのように揺れる心情に俺は翻弄され続けた。白と黒、気分一つでどちらにもなりえるオセロのチップは俺そのものであった。

俺にとって当時の一年間は、あらゆる意味で大きな経験の一つになっていた。忘れたくても忘れられない過去の思い出。そのはずだった。しかしロストライツによって俺は、その部分だけを綺麗さっぱり忘れ去った。もしかしたらオーロラが、俺の忘れたいという願いを聞き入れてくれたのかもしれない。そんなロマンチックな幻想すらも今ならば肯定できる。そしてロストライツは二人の人間から記憶を奪うと、その代わりに残酷な再会を生んだ。

一年前に病気で亡くなった俺のじいさんの口癖は「出会いがしらに気をつけろ」であった。それはじいさんが高校の頃に起こした交通事故のせいで片目を悪くし、大好きな野球を続けられなくなった経験が由来している。その言葉はじいさんにとっては教訓であり、戒めであった。ある日俺が病院へ見舞いに行くと、昔の怪我と老衰でほとんど見えなくなってしまった目で俺の顔をじっと見つめたままこう言った。

「出会いがしらというのは常に劇的だ。時に喜劇を生み、時に悲劇を呼ぶ。お前も出会いがしらには気をつけろ」

 この言葉の通り、ロストライツに遭遇したことで俺の人生は劇的に変わった。しおりを忘れ、しおりと出会い、しおりを思い出した。そして不条理な事にそれら全ては救いのない悲劇の一部であった。


話の一部始終をベア博士は、無言のまま聞いてくれていた。そして俺のモノローグが済むと小さく呟いた。

「なんと皮肉な物語じゃないか」

 俺はその言葉に肯定も否定もせず、ただ愕然と下を向く。もう七年も前の事なのに、復元されたしおりとの思い出は、眩しいほど鮮やかだった。

「ドクターベア……」俺は必死に声を振り絞る。「明日の予定はどうなっていますか?」

「それを聞いてどうする?」

「どうもしませんよ。ただ俺と被害者との直接の接触は、被害者のためにも避けるのが妥当だと思いまして……。その調整をお願いしたいだけです」

俺は何とか平静を保とうと努めていた。しかし俺がそのように振る舞えば振舞うほど、彼の目には痛々しく映っていたに違いない。俺の心は情けなさでいっぱいだった。

「確かに今の話を聞く限りでは、それはやむをえない事ではある。しかしそれは、ただのその場しのぎにすぎないんだぞ。根本的な問題の解決にはなっていない」博士の口調は忠告と言うよりも、むしろ同情に近いものだった。

「根本的な問題なんて何もありませんよ、ドクター。俺と彼女の問題は、さっき話した通りもう七年も前に終結してしまっているのですから」

 俺はシニカルに笑う。

そうだ。俺と彼女の問題はロストライツとは何の関係もないところですでに終わっているのだ。今さらどうにもならない。

「過去を蒸し返すつもりはありません。俺はただ、今に傷つきたくないだけなんです」

 問題があるとすれば間違いなくそこだった。お互いの過去を失った二人の人間の数奇な再会。そしてそれによってもたらされるささやかな恋。今ならば断言できる。俺は現在の水谷しおりが好きだった。純粋で、それ故に危うい彼女に、いつの間にか俺は惚れていた。

 もし「彼女」がしおりでなかったら、つまり被害者が別の女性であったならば、俺は過去と現在の確執にこんなにも悩む事など無かったのだろうか。それとも「彼女」がしおりだったからこそ「彼女」を好きになれたのだろうか。記憶を失っていても、どこかでしおりのぬくもりを覚えていたせいであろうか。俺は溜息交じりに首を振る。いやこんな問答には意味がない。答えの出ない堂々巡りのエンドレスである。

「唯一の救いは、彼女が記憶を取り戻した後、喪失中の記憶が無くなっているという事です」俺は桑畑の言葉を思い出す。

彼女の時間はロストライツに巻き込まれる前までリセットされる。

桑畑はそれを前向性健忘と呼んでいた。

「それは誰にとっての救いだね?彼女はそれでいいかもしれないが君はどうする。あまりにも寂しすぎはしないか」ドクターはそんな事を呟く。

 もしそうなれば、俺だけが彼女との思い出を覚えている事になる。確かにそれはやりきれないほど寂しい。楽しかった思い出を相手に忘れられたまま、自分一人が抱えて生きていかなければならないのだ。しかしそれは、ある意味で一番傷つかない選択肢の一つだった。

「昔の彼女にはもう二度と会いたくありません」俺はそう言った後で、きつく唇を噛みしめた。罪悪感と恋心のジレンマ。またオセロか。俺は苦笑する。

「そうか」ベア博士の言葉は重々しくも、しかし俺の結論に同意していた。「明日、彼女がリマインダーを見る時、君がそうなったように逆再生のショックで一時的に気を失うことだろう。それを見届けるまでが、君の仕事だ」

 俺はドクターの顔を見て微笑を浮かべた。やはりこの人に話してよかったと思う。

「はい、ありがとうございます」そして俺は深くお辞儀した。


 水谷しおりは少し戸惑った表情で、目の前のスクリーンと俺の顔とを交互に見つめていた。

「これで、本当に私の記憶を取り戻す事ができるのでしょうか?」

 いよいよ今日、リマインダーによってしおりの記憶を復元する時がやってきた。それは避けられない別れの日でもある。

「ええ、問題はありません。被害に遭った時と同程度、あるいはそれ以上のショックを与えることで停止した脳の組織を活性化させます。急激に記憶を復元させるため、最初は断片的にしか思い出せないかもしれませんが、数日後にはほぼ全ての記憶を取り戻しているはずです」

 そう言ったのは彼女の副担当医だった。主担当医である桑畑は、数日前から研修のため日本を発っており、現在はアメリカにいるとのことだった。副担当医は淡々と事務的な説明を始める。しかしやたら専門用語の多い解説に、しおりは頷きながらも話半分に聞いているようだった。

そこで彼の後ろに立っていた俺と目が合う。しおりの不安そうな表情に、俺は大丈夫だと一度だけ頷いた。これだけは自信を持って言える。失敗する事は絶対にない。このリマインダーは彼女のために俺が尽力を注いだ傑作であり、それは製作者としてのプライドだった。彼女の目から徐々に不安が解消されていく。こんなにも長く彼女と見つめあったのは初めてのことかもしれない。真っ黒ではなく、やや茶色がかった彼女の瞳。

「……では、説明の方はこれくらいにしてそろそろ始めましょうか」

 副担当医がそう言った直後、病室の扉がノックされた。入ってきたのはなんとベア博士だった。彼が今日来るとは聞いていない。どういうことだろうとドクターを見ていると彼は咳払いを一つしてこう言った。

「私はこの装置の責任者を務める者だが、医者は居らんかね。捕捉で話しておかなければならない事があったのだが」

 それに反応した副担当医はベア博士と共に一旦病室の外へと出る。その時ドクターと目が合う。なるほど。俺と彼女を二人きりにしてくれたわけか。ベア博士の計らいに正直俺は戸惑っていたが、やがて覚悟を決めたように拳を握った。

「あの、さっきはありがとう」

 扉の方を見ていた俺に向かってしおりは言った。

「大丈夫だって言ってくれたんだよね。あれで心配とか吹き飛んじゃった」

 彼女は照れながらもそんな事を言ってくる。

「部屋の中すっかり綺麗になっちゃったね」

 俺と彼女は辺りを見渡す。この数日間で俺は俺の私物を全て撤去していた。

「まあな。あれは君が記憶を取り戻すまでの暇つぶしみたいなものだったから。この治療が無事に成功したら即退院だ。それに合わせて身辺を整理しとかないと」

 しかしそれは仮面としての言い訳だった。真の理由はたとえ一片たりとも俺の面影をここに残しておきたくなかったからだ。彼女が気付いてしまうのは何よりも恐ろしい。やるならば徹底的に、だ。

「でも、楽しかった」

 明るい声でしおりは言う。

「前にさ、オセロについて話したの、覚えているかな?」

 突然の問いかけにしおりは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔で答えた。

「ええ、私が人を好きになるってどういう事かって聞いた時に、藤田さんが答えてくれたやつでしょ。もちろん。とても印象的だったし……。それがどうしたの?」

 そこで俺は頭をかく。

「いや、どうという事でもないんだけど。ついこの間そのきっかけみたいなエピソードを思い出して、ああやっぱりその通りなんだなって」

 そこで彼女は吹き出した。

「なにそれ。でも、その出来事は藤田さんにとって本当に大切な思い出なんだね。なんだか過去の藤田さん達に嫉妬しちゃうなあ。あれ、もしかしてこの気持ちも実はオセロなのかな」

 もうしおりは完全に不安が晴れたようであった。俺はよかったと内心で思う。過去の水谷しおりとしてではなく、記憶を失った「しおり」として最後まで見届けるのが俺の仕事だ。「しおり」が笑っていなければ意味がない。

 しばらくしおりと話した後で、副担当医は戻ってきた。

「お待たせしました。では再開しましょうか。藤田さんお願いします」

 俺は実験室でやったようにパソコンのエンターキーに指をかける。そしてそのまましおりを見た。覚悟を決めた顔をしている。それを見て俺は安心し、同時にひどく悲しくなった。唇を噛みしめる。その仕草の意味を彼女に悟られる前に、キーを静かに叩いた。

 映像が始まる。波の模様が画面に流れる。三、二、一、フラッシュ。

 そして彼女はゆっくりとベッドへ倒れ込んだ。


 外の冷たい空気に俺はわずかに身震いをさせる。今日は今月一番の冷え込みである。しかししおりの編んでくれたマフラーは、熱を持っているのかと思うほど暖かかった。

あとの事はすべてベア博士とあの副担当医に任せてある。俺のやるべきことはもう済んだ。次に目覚めた時、彼女は過去の記憶を取り戻していることだろう。そのとき彼女の中の俺についての記憶は、一体どの程度の割合を占めているのだろうか。そんなことをふと思う。七年前の思い出は俺と別れた後の彼女にとって、どんなものとなっていたのだろう。少しでも早く忘れてしまいたい過去の出来事なのだろうか。それは俺の知らない彼女の想いだった。

現在のしおり、過去のしおり、そしてもっと過去のしおり。あらゆる時を生きてきたしおりに俺は想いを馳せる。そして俺はあてどなく、冷え切った街中をただひたすらに歩き続けた。無意味な徘徊だとわかっていた。それでも家に帰りたいとは思わない。身体の隅々まで冷えているはずなのに、芯だけは熱を持ったままなのだ。それはしおりのくれたぬくもりだった。しかしその熱を俺は冷ましたかった。

着信が鳴ったのはその時だった。俺はかじかんだ指を不器用に動かしながら携帯を開く。画面には桑畑という文字が表示されていた。俺は通話に切り替える。

「おはよう」間の抜けた返事が携帯から聞こえた時、俺は正直切ってしまいたい衝動に駆られた。それでも切らなかったのは、桑畑の用件がしおりの事についてであると、直感的に分かったからだ。

「こっちはもう夕方だ。時差を考えろ」

「しかしこっちはまだ朝だ」

「そんなことはどうだっていい。用件は?」

 俺は白い吐息を携帯に吹きかけながらそう聞いた。

「水谷しおりの事についてだ。ところで今彼女と一緒か?」

 桑畑のそんな問いかけに、俺は一瞬返答に詰まる。「……いや、今は一緒じゃない」なんとかそんな言葉を絞り出した。

「彼女はもう記憶を取り戻したのか?」

「ああ、そうだと思う」

「思う?」通話の相手はそこでいぶかしむような声を出した。しかし俺は沈黙を貫く。

「まあそれはいい。ところで彼女の事について大変な事が分かった」

「今お前はアメリカで研修の最中だろ。なぜ彼女の事が出てくる?」

「まあ聞け。俺の知り合いの医者にハリソンというやつがいる。ハンバーガーとビールが大好きで、お前の研究所にいた上司、なんて言ったかな」

「ドクターベアだ」

 俺は明らかな不快感を混ぜた声でそう言った。

「そう、その博士に勝るとも劣らないほどの大男で、まあそいつのことは別にどうでもいんだが。とりあえずそのハリソンに久しぶりに会ったんだ。あいつも俺と同じような仕事をしているんだが、俺が今担当している患者の話をしたら、とんでもないことが分かったんだよ」

 そこで桑畑は一拍間を空ける。

「ハリソンは水谷しおりの元担当医だったんだ」

「どういうことだよ」俺はそこで口を挟まずにはいられなかった。「お前と同じロストライツ専門の医者で、アメリカにいて、そしてしおりの元担当医って支離滅裂過ぎて話がつながらないぞ」

「いや」桑畑は冷たく言い放つ。「これら全ての情報を矛盾なく結びつける論理的な答えが一つだけある。結論から言おう。彼女は日本に来る前にも一度オーロラの被害に遭っている」

「それって、いったい……」

 俺は驚きのあまり声が出なかった。

「具体的には六年前、当時ボストンで発生したロストライツに、水谷しおりは巻き込まれた。ハリソンによればその時も彼女は全健忘に陥り、全ての記憶を失ったらしい。その後、アメリカの制度によって新しい経歴を手に入れた。ほらこの前話したやつだ。で、新しい人生を手に入れた彼女は数か月前までは、レストランで仕事をしながらアメリカで普通の生活を送っていた。しかしつい最近に唯一の肉親である祖父を亡くした事をきっかけに仕事を辞め、姿を消したらしい。そしてその行き先は、彼女の故郷でもある日本だった。恐らく彼女は記憶を取り戻すために来たのだろうが、そこで偶然にも、いや皮肉にもと言うべきか、再びあのオーロラを見てしまった。そしてまた過去の記憶を失ったのさ」

 まくしたてるように話していた桑畑はようやくそこで一息入れる。俺は身体の芯の熱が全身に行き渡るのを感じながら、今までの話を整理していた。

「そこで謎が一つ解けた。彼女がロストライツの被害に遭ったのはリマインダーによる治療が導入されるよりも前の事。すなわち彼女は六年より前の過去を二度と思い出す事は無い。だから脳内スキャンを取った時に、今回のロストライツの波長に反応しない組織が現れたのさ」

俺は先日桑畑が言った「過去が存在しない」という言葉を思い出す。なるほど、確かに当たらずとも遠からずといったところか。

「しかし、なんというか偶然の度が過ぎるよな。ほら考えても見ろよ。人生に二度もロストライツに遭遇するなんて天文学的な確率だ」

 俺は静かに同意する。「本当に偶然の度が過ぎる」

 桑畑との通話を切ると同時に、俺は踵を返し病院へと向かった。最初徒歩だった足取りが、徐々に速度を上げ、早歩き、そして遂には全速力で走りだす。

 忘却の上書き。

 そんなちぐはぐな言葉が頭の中をよぎる。しおりは日本でロストライツに巻き込まれ、全ての記憶を失った。しかしそれよりももっと以前に記憶を失っていたのだ。たとえリマインダーで記憶を復元できたとしても、その中にあるのは記憶を失ったという過去だけ。結局本来の自分を取り戻す事は出来ないのだ。六年前、ボストンで起きたオーロラのデータが取れていない以上そういうことになる。彼女は記憶を失ったという記憶を、失っていたのだ。

 もう俺の知るしおりはどこにもいない。それはどうしようもない事実だった。

 残酷で、それゆえに美しいオーロラ。見たものの心を奪い、同時に記憶をも奪っていく自然の悪魔。理不尽と不条理の権化。

 奪うだけのこの悪魔が、しおりとの出会いを与えてくれた事に一度は感謝した事もある。しかし記憶が戻った直後、むしろそれは正反対の感情へと変わった。こんなことなら出会わなければよかった。過去の罪悪感と現在の恋心とのジレンマで悩んだ俺はやがてそんなことを考えた。そしてここにきて対面することになった新しい事実。もう自分でも自分の感情を理解できなかった。

 彼女に会いたい。そんな衝動に駆られ、俺は走り出した。彼女にもう一度会えばきっと答えは出る。


 病室の前でベア博士と目が合う。走り込んできた俺を見るとドクターは目を丸くし、そして何か言おうと口を開いては、また閉じた。俺は全てをくみ取りこくりと頷く。そのままドクターを押しのけて病室へ入った。

 病室の扉を開けるとあのベッドの上に彼女はいた。ここで初めて会った時と同じように窓の外を眺めている。手には未完成のままのマフラーが握りしめられている。編むわけでもなく、ほどくわけでもなく、それはそっと彼女の手の中におさめられていた。音に気が付いてこちらを振り向く。息を切らした俺を見て彼女は少し驚いた顔をしている。やがて口を開くとこう言った。

「あの、どちらさまでしょうか?」

 彼女は笑っていた。それは俺が笑っていたからであろう。悪意のない無邪気な笑顔に俺は吸い込まれそうになる。笑うとえくぼが出る、かわいい顔だ。その笑顔に俺は何度だって恋をする。何度だって何度だって。彼女と同じ時間を生きていきたい。そう思った。たとえどれほどの負い目を抱えようとも……。

「初めまして。自分は藤田というものです。あなたと会うのは……これが最初です」

 俺は切なさを噛みしめ、新しい期待と共にそう言った。


FIN

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もう一つの忘却 @saki-yutaro

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