第一章2話 『地獄の迷い子』
「う……ん………」
鈍い呻き声を漏らしながら、男は目を覚ました。
否、目は覚ました、と言った方が正確かもしれない。事実、いつもの日常ーーー本日は悔恨とともに置き去りにしてしまった、我が家の寝室で目を覚ました時の感覚と、それは似たようなものだった。
目は開いているのに、脳は開いていないーーー脳は働いていない。
いや、その両目でさえも、完全に開いているとは言い難いのもまた事実だ。
未だ意識は微睡みの世界にいるのだろうか、自分自身の瞼を満足に動かせないもどかしさを感じながら、彼は乾ききった目を潤すように、しきりに瞬きを試みる。
ーーーーー乾ききった?
何故今俺は、そんな感覚を覚えたのだろう?
眠ってしまった直前の記憶は定かではないけれど、それでもこの感覚、眠っていたのは紛れもない事実なのだから、先程まで閉じていた目が乾いているはずがないのに。
自身の眼に奇妙な違和感を覚えたところで、彼は続いて、全身が硬い感触を受けていることに気づく。
もちろん彼は、普段から自宅において硬い床で寝ているわけじゃあない。
確かに家族サービスは足りないかもしれないけれどーーー何だか頭の片隅に、そんなことを最近考えた記憶がある気がするけれど、それでもだからと言って、家族からそんな手酷い冷遇を受けているなんてことはない。
しっかり健全に、夫婦揃って、柔らかいベッドで就寝する毎日だ。
……まあ、最近は、揃っていないことが多いけれど。
と、そこで、彼はようやく思い当たる。
ーーーああ、そうだ。
俺は今、ショッピングモールに来ているんだった。
なるほど、ここがショッピングモール内なら、現在進行形で全身に感じる、この硬い感触も頷ける。
何故か普段よりも明らかに低速で、徐々に覚醒していく頭で思うに、どうやら俺は、ショッピングモール内の地面にうつ伏せになっているらしい。
ーーーあるいは、うつ伏せに倒れているらしい。
自身が現在置かれている状況、その輪郭が掴めてきたところで、彼が次に、硬い床の他に、取り戻してきた触覚で感知したのは『熱』だった。
ーーーーー熱?
何故今俺は、熱なんて場違いな感覚を覚えたのだろう?
いやまあ、これまた徐々に記憶のピースを取り戻していく中、今の季節が夏だということはわかるけれど、でもここは、ショッピングモール内だ。
ショッピングモールの中ならば、夏の暑さなんて関係ないし、なんなら空調で、人工的に涼しい空気が作られているくらいである。
万が一空調が壊れているのだとしても、この感覚はーーーーこの熱は、体の内側から沸き上がる熱というよりも、むしろーーーー外側から襲い掛かってくる、物理的な熱だ。
そう、それはまるでーーーー轟々と燃え上がる、炎のように。
「ーーーーー」
これまた場違いな感慨に違和感を覚えた彼、その触覚に続いて醒めてきたのは、嗅覚だった。
ーーーーその嗅覚が、決定打となった。
彼の鼻孔を侵食してきたのは、彼が、自身の短いとは言えない人生の中で、およそ嗅いだことがないレベルの、強烈な異臭だった。
そう、それはまるでーーーー何かがものすごい勢いで焦がされているような。
「ーーーーッッ!!」
そして、彼は、理解する。
理解して、つい数分前、目が思うように開かない寝起き加減を、いつもの日常なんて暢気にも思ってしまった自分を、彼は盛大に恥じた。
いつもの日常ーーーーとんでもない。
その日常ではおよそ考えられないくらいの長い過程を経て、完全に覚醒した脳味噌でーーーー否、たった今完全に覚醒させられた脳味噌で、彼が認識したのは、その日常の崩壊だったのだから。
*****
ーーー醒まされた彼が見たものは、燃え盛るショッピングモールだった。
「ーーーー」
唐突に、溢れんばかりの剛力でもってぶん殴られたかのような、否、それ以上の衝撃的な光景に、絶句する。
上下左右、モール内の何処を見回しても、視界に収まってくるのは、炎、炎、炎ーーーー。
足の踏み場もないほどに、もはや自分が倒れている場所以外に安全地帯が存在しないかのように、四方八方を、燃え盛る炎によって囲まれているかのような錯覚さえ覚えた。
「ーーーーぁ」
失った言葉を取り戻そうと、何かを呟き、あるいは叫ぼうとしたけれど、彼の口からは、ついぞ二の句が出てこなかった。
代わりに出てきたのは、誰にも、彼自身にも聞こえないような、か細い吐息だけだ。
あまりの驚きに声が出ないだけかと思ったけれど、どうやら単純に、この炎の檻の中で、喉がやられてしまっているらしい。
「………っ」
流石に平常心とまではいかないけれど、そんな風に自身の現状を把握しようと思えるくらいには、彼は冷静さを取り戻していた。
すでに完全に開かれている目を、今度は自分の周囲に向けてみれば、そこには、先程まで持っていた、今日買った物の他に、成人男性の顔面ほどの大きさの瓦礫が散乱していた。
必然、情動買いをしたドーナツもあちこちに散らばっていたけれど、今のこの状況でホームドラマを顧みている場合ではないーーーー瓦礫。
「ーーーー」
散見される、決して小型サイズとは言えない瓦礫と、さっきからズキズキといやに痛む自身の頭を照らし合わせてみれば、自ずとわかる。
自分が眠る前ーーーいや、この期に及んでそんな暢気なことは言うまいーーー意識を失う前、だ。
人間は意識を失う直前の記憶は、意識を取り戻した後でも忘れてしまっていることがあると聞いたことがあるけれど、彼の場合はその例外だったーーー思い出した。
意識を失う前の出来事。
ドーナツを買い、スーパーに向かうために一階へと降りるエスカレーターへと足を向けた直後の出来事。
一瞬にして視界を覆った閃光が、大規模なモール内を揺るがす轟音が、そしてーーー訪れた、巨大な爆発がフラッシュバックする。
「……そうだ、爆発だ」
爆発が発生した直後、その影響で何処からか吹っ飛ばされてきた瓦礫が頭部に直撃したのだ。
礫程度なら支障はなかったのだろうけれど、今周囲に転がっているのは、直撃すれば一瞬で意識を刈り取れるサイズの瓦礫である。
想像したくもないが、もし当たりどころが悪ければ、こうして意識が戻っていたかも怪しいものだ。
不幸中の幸いーーーーとは、言うまい。
現に、こうして今も状況は悪化の一途を辿っているのだから。
モール内を覆い尽くす炎は、時間が経つにつれて其処彼処に文字通り飛び火し、その勢力を増しつつある。
もはや、彼が今倒れている場所が炎に包まれ始めるのも時間の問題だった。
「くそっ……」
こうなると、先程までの朦朧とした意識の中、現状を理解するのに費やしてしまった数分間が悔やまれる。
意識が戻った段階で即行動すべきだったのに、それが最適解だったのに、うつ伏せになったまま、無様にも眼前の惨状に呆気にとられてしまった。
まさかこんな場所で、自分がこんな目に遭うはずがないという、無意識下での牧歌的な考えが働いていたことは否めない。
そのせいで、悲惨な現状を受け入れるのに時間がかかってしまった。
時間にすればたかが数分間だが、この極限の状況下での数分間なんて、それこそ致命的だ。
「くそっ……」
再度、表情を歪ませながら、悔恨の言葉を吐き捨てる。
だが、既に受け入れてしまった。飲み込んでしまった。
ーーーなら、もう行動するしかない。
「……よし」
決意し、ようやくのこと避難するために倒れた身体に力を入れた、その時だった。
「いっ………!」
身体中を、鋭い電撃が走ったかのような激痛が襲った。
今までに経験したことがないような痛みに、整った顔が盛大に歪む。
「な、何が……?」
頭だけではなく、全身に瓦礫の猛威を受けたのだろうか。
それとも、爆破の衝撃で、瓦礫どころか自分自身の肉体ごと吹っ飛ばされていたのだろうか。
わけがわからない鈍い痛みを堪え、何とか体を起こした彼は、そこで真向かいにある服屋ーーーその入り口付近に、奇跡的に割れることなく置かれている姿見を視界に入れた。
そして、今度は自身の外面的な状態を叩きつけられる。
彼の身体は、と言うよりもその上に着る服は、ところどころがズタボロに破れ、あちこちに無数の汚れが付着していた。
その汚れが、彼には砂利のように思えてーーー咄嗟の閃きに、後ろを向いて背中を写してみれば、そこには無数の足跡が残っていた。
ーーー大多数の人間に、その靴底で持って踏みしめられたような、形を異にする足跡が。
「ーーーー」
身体中を支配する鈍痛に得心がいったところで、再びモール内に轟音が走った。
炎の飛び火による、二次的な爆発か。
いかんせん煙が充満しているので定かではないけれど、続く地響きを聞くに、どうやら何処かの天井が崩落したらしい。
こうしてはいられない。
激しく痛む身体に鞭打ち、何とか立ち上がった彼は、そのまま引きずるようにして、地獄の中を歩き出した。
*****
火災の発生時は、炎そのものよりも、蔓延する煙の方に注意をしなければならないというのは、言わずと知れた常識だ。
こんな状況下で考えるべきことなのかはわからないが、火災による死因は、重度の火傷を除けば、煙を吸い込むことによる一酸化炭素中毒や窒息が大多数なのだとか。
既に全身にかなり深い火傷を負い、日常的な火傷とは比べるべくもない痛みに悶えている現状。
それでも未だ意識を繋ぎとめ、こうして灼熱の烈火の中を歩いている生命力の高さを考えれば、真に警戒すべきは煙なのは間違いない。
そんなことを思い、男は運良く持参していたハンカチで口元を覆い、徐々に黒く変わりつつある濃密な白煙の中を、なるべく姿勢を低くして這うように移動する。
意識を失っていた時間を合わせれば、あの大爆発からは大分時間が経ってしまっている。あれだけ広々と感じたモール内は、炎と煙でほとんど前が見えず、壁を伝って動くしかない。
濃煙に遮られた視界では、非常口の緑色ランプも認められない。
そもそもの話、今までここに買い物に来たことは何度もあるけれど、こんな非常事態を想定していたはずもなく、非常口が何処にあるのかすらも正確に把握していない。
この圧倒的熱量の中、出口に迷うなんて以ての外。
だからここは、何処にあるのかわからない非常口よりも、より確実な脱出ルートを選ぶ。
「そうなると、まずは……エスカレーター……」
くぐもった声で呟き、通路中央に備え付けられた手すりを伝いながら、男は直近のエスカレーターを目指す。
思い出した記憶を辿れば、自分が今いるのは三階だ。
爆発の衝撃で吹っ飛ばされ、もし階下に落ちているのだとしたら、流石にそこで彼の命は尽き果てていたに違いない。
この惨状から隔離されたエレベーターに乗る、なんて考えも浮かんだけれど、こんな状況だ、とっくに止まってしまっているだろう。
一階の出入り口までのルートを頭に描きつつ、彼は身を屈め、早足でエスカレーターに向かっていく。
「はあ……はあ……はあ……」
呼吸を最小限に抑え、停止しているエスカレーターを駆け下り、やっとのこと二階に到着する。
そのまま一階に下りようと、エスカレーターを迂回しようとしたーーーーちょうどその時。
「ーーーー」
何処からか聞こえてくる声が、彼の鼓膜を震わせた。
*****
ーーー耳を澄ませてみると、それは轟々と燃え盛る炎の音に混じるような、掻き乱すような、泣き声だった。
不規則で、甲高く、叫ぶような未発達の声。
ーーーそう、それはまるで、泣きじゃくる子供の声。
「ーーーー」
耳に届いた声に辺りを見回せば、エスカレーターの側、彼が立っているところから五十メートルほど離れた先に、一人の女児がぽつんと立っていた。
甲高い泣き声を上げ、それでもしきりに目元を拭おうとする女児が立っていた。
背格好から判断する限り、小学校高学年くらいだろうか。
炎の影響で焼け焦げてしまった、おそらく元は可愛らしかったであろうポーチを肩から下げている。
「ーーーーっ」
反射的に、彼はその女児の元へと走り出した。
すぐに理屈をこねくり回してしまう彼も、この時だけは何の考えも持っていなかった。
「お母さーん! お父さーん!」
近づくにつれて、少女の声が、よりはっきりと聞こえてくる。
それは、両親の名を呼ぶ声だった。
「お母さーん! お父さーん!」
涙で濡れた顔を巡らせ、少女は必死で叫ぶ。
両親を求めて、叫ぶ。
「ーーーー」
だがしかし、彼自身を除けば、周囲に彼女の両親らしき人物はおろか、そもそも人は一人もいない。
それでも、彼女はその小さい喉で、張り裂けんばかりの大声で叫ぶ。
「お母さーん! お父さーん! 何処にいるのー!」
「………」
その様子を見るに、この少女は元々迷子になっていたようだ。
そんな最中にあの爆発に遭い、両親が何処にいるのかもわからないまま、たちどころにショッピングモールは火の海に。
でも幼い彼女にはどうすればいいのかわからず、こうして地獄の中、恐怖に怯えつつも両親の名を叫ぶことしかできない。
そんな彼女の孤立無援さを目の当たりにして、男は奥歯から出血しそうなほどに、強く強く歯噛みする。
ーーーそれは、つまり。
モール内をあれほど埋め尽くしていた大勢の人間が、揃いも揃って、この迷える少女を荒れ狂う炎の中に置き去りにして、退避したということだ。
誰も手を差し伸べることなく、小さな手を引っ張ることなくーーー泣きじゃくる一人の少女を、見捨てたということだ。
「………っ」
その時、彼は、未だ身体中を苛む痛みが、急激に強さを増していくのを感じていた。
背中に刻まれた無数の足跡。
誰ともつかぬ、薄汚れた足跡。
ーーー意識を失って倒れた彼を、無慈悲に踏みつけながら逃げ惑ったのであろう、不特定多数の人の足跡。
「………っ」
だが、そんな顔も知らない人たちを、彼は責める気にはなれなかった。
何故なら、彼は知っているから。
日曜日の真昼間、普段と何ら変わらないショッピングモールが、瞬きの瞬間に灼熱地獄と化した。
そんなアブノーマルな状況で、人々がどんな心理状態に陥ってしまうか、彼は誰よりも熟知しているから。
「お母さん……お父さん…………だ、誰か……」
彼が気づく前も、叫び声を上げ続けていたのであろう少女の声は、限界を迎えて次第に萎んでいき、しまいには両親を飛び越えて、絞り出すようにそう呟いた。
刻々と増していく痛みを根性でねじ伏せて、彼は少女に近づいていき、立ち尽くしたまま目元を覆う彼女の肩に手を乗せた。
「ーーーー!」
置かれた手に反応した少女が、ばっとこちらを見る。
その両目は、悪い視界でもはっきりとわかるくらいに、涙で赤く腫れていた。
「おじさん、誰?」
少女の顔に、困惑の色が宿る。
当然、彼と彼女に面識があるはずもない。
最後に助けを求めていたとは言え、知らない大人に突然接触された彼女は、若干の怯えも見せていた。
そこで彼は、少女の側にしゃがみ込み、真っ直ぐに瞳を見つめ、持ち得る限りの優しさでもって語りかける。
出来るだけ悲惨な我が身が伝わらないように、柔らかく微笑みながら語りかける。
「おじさんはね、お嬢ちゃんのお母さんとお父さんのお友達だよ」
嘘をついた。
彼女のことを知らない彼は、当たり前だが彼女の両親だって知らない。
でも、この切迫した状況で、見知らぬ大人の男を受け入れてもらうためには、彼女が最も信頼しているであろう存在の関係者を名乗る。
これが最善手だ。
「お母さんとお父さんの、お友達……?」
未だ当惑する少女は、濡れた瞳で問いかけてくる。
「うん、そうだよ」
まるでそれが真実だと、自分をも騙す勢いで言い切った。
こんな嘘、炎に囲まれ、正常な判断力を失っている状況でもなければ、すぐに看破され、逃げられていただろう。
たとえ小学生であっても、いや、小学生だからこそ、日頃から知らない人について行ってはいけないと教えられているはずだ。
だから、ここはこの地獄を逆手に取る。
ピンチをチャンスに変える。
「彼らに頼まれて、助けにきたんだ、君を」
そこで彼は、少女の手を握った。
君は一人なんかじゃないと、頼れる大人がここにいると、励ますように、強く握った。
「助けに……私を……?」
「うん、そうだよ」
「あの、お母さんと、お父さんは、その、何処にいるの、ですか?」
言い慣れていないのか、たどたどしい敬語を使って、おずおずと聞いてくる少女。
その小さな体躯よりもさらに低い視点から、彼は笑いかけた。
「大丈夫」
熱でどろどろに溶かされそうな脳を必死で働かせ、言葉を紡ぐ。
「ご両親は無事だ。先に避難してる。外で、お嬢ちゃんを待ってるよ」
「ほ、本当に?」
「うん、本当に」
また嘘をついた。
彼女の両親が無事避難できているかなんてわからない。
確かに辺りに人影はないけれど、それはあくまでここに限った話で、未だ彼と同じように、モールの何処かで倒れているのかもしれない。
あるいは、未だ迷子の愛娘を捜して、この地獄の中を彷徨っているのかもしれない。
でも、今は目の前の少女を救わねばならない。
混乱状態にある彼女の背中を押してあげなければならない。
幼気な女の子を騙す罪悪感を無理矢理捨て去って、彼は言った。
「さあ、君も行こうーーーーみんなのところに」
「………うん」
滂沱の涙を拭った幼き少女は、力強く頷いた。
その瞳には、深い安堵と、固い決意が宿っていた。
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