第一章1話 『崩壊の予兆』

 ーーーその日は、普段と何も変わることのない、至って通常営業の快晴日だった。


 波乱とは無縁と思われる、日常の延長線の上、彼は自身が住まう地域に悠然と佇む、唯一にして最大の大型ショッピングモールに来ていた。


 ショッピングモールといえば当然、目的は買い物である。

 その名称が示す通り、ショッピングである。


 その日は休日、それも日曜日ということもあり、ショッピングモールに入る前、駐車場に車を止めようとした時点で、思わずため息を吐いてしまうほどの混雑ぶりであった。


 あまり人混みが得意ではない彼は、用を済ませる前から既に辟易し、すぐにでも直帰したい欲求がふつふつと湧いてきたのだけれど、しかし、日曜日だからこそ、今日のうちに買い物を終わらせなければならない。


 それは簡単明瞭な話、翌月曜日に必要なものにもかかわらず、切らしてしまった仕事道具を買わなければいけないからというのが主な理由なのだけれど、それだけではない。


 日曜日ーーーー世間一般で言う休日。

 彼は仕事柄ーーーーいや、それは仕事とは言っても、本業とは違うのだけれど、その影響で、なかなか休日という贅沢を取ることができないのである。


 今日だって、もう数えるのも馬鹿馬鹿しくなるくらいの連勤の末に得た、久しぶりの休みなのだ。


 せっかくの休みなのだから、家でごろごろしつつ、テレビでも観ながら英気を養いたい気持ちがないと言えば嘘になるけれど、そうは言ってはいられない。


 今日一日休めば、また明日からはいつも通り、多忙な毎日が続くことになる。

 だからまあ、買い物だったり何だったり、今日のうちに全て済ませなければならないという理由も多分に含まれているのだった。


「はあ……」


 知らず知らずのうちに、深いため息が漏れてしまう。

 ここまで聞くと、仕事に嫌気がさしている典型さが伝わっているかもしれないけれど、別に彼は今の仕事を嫌っているわけではない。

 むしろどちらかと言うと、言うまでもなく好きな方だ。


 さらに言えば、誇りに思ってさえいる。


 だがしかし、その気高き誇りも、疲労という魔物の前では塵も同然になってしまう。埃になってしまう。


 土台、やり甲斐と徒労は紙一重ということだろうか。

 あるいは、徒労の行き着く先にやり甲斐が生まれるのかもしれない。


「はあ……」


 もう一度ため息を吐いた後、気分を入れ替えるように「よし」っと軽く頰を叩き、車で溢れた駐車場をあっちこっち徘徊していると、幸運にもちょうど出ようとしている車を発見した。


「おー、ついてるな」


 助手席にも後部座席にも誰も乗っていないが、まあ何の気なしにそんな独り言を呟きつつ、慣れた手つきでハンドルを操作し、車を止めた。


 車を降りてモールのエントランスに向かう途中、思い出したようにパンツのポケットに手を伸ばし、スマートフォンを取り出す。


 最近買い換えたばかりなのだけれど、仕事柄、普段からパソコンなどの機器を扱っていることもあり、もたつくことなくロックを解除すると、そこに映し出された待ち受け画面はーーーーああ、いや、今の時代はホーム画面って言うんだったかーーーー家族の写真だった。


 ホームの写真だった。


「ふふっ」


 人知れず、柔らかな笑みがこぼれる。


 誰かに見られていれば、まず間違いなく奇異な視線を向けられること請け合いな自身の姿に気づくことなく、彼は続いて本来の目的、LINEアプリを開きつつ、モール内に入っていった。




*****




 わざわざ言うまでもなく、日曜のモール内は人で溢れかえっていた。


「うわぁ……」


 同年代と比べても決して低くはない身長で、高視点から辺りを見回してみれば、そこら中が人、人、人ーーーーーー。


 入る前、駐車場で入れ直した気合いを嘲笑うかのように、せせら嗤うかのように、その膨大な人の数は彼の意志を挫いてくる。


 当然と言えば当然だ。

 何せ、外は、一階の駐車スペースのみならず、その上ーーーー四階や五階の屋内駐車場ですら、電光掲示板には『満車』と表示され、もう屋上に止めるしかないのかと半ば諦めていたくらいの車の多さだったのだ。

 運良く、本当に運良く駐車できたものの、そもそも、彼のように一人で車を転がしてきた人たちばかりなはずがない。


 何度も言うが、今日は日曜日なのだ。

 むしろ、家族だったり、夫婦だったりで来ている人の方が多いだろう。一台の車に複数人が乗って来ている方が多いだろう。

 それに加えて、電車だったり自転車だったり、はたまた徒歩で遊びに来た中高生だってもちろんあちこちに見かける。


 人がゴミのようだーーーーなんて、別に高い所にいるわけじゃあないし、五階建てのこのショッピングモールで、屋内駐車場である四階五階を差っ引いた結果、事実上の最上階となる三階に行ってもそう見えるわけはないけれど、現在の心境としてはまさしくそんな感じだった。


 そんなことを思う自分の思考の方が、よっぽどゴミだと言えるが。


「……ふっ」


 自嘲的な笑みをこぼし、覚悟を決めて、彼は人の波の中に割って入っていく。


 このショッピングモールは、この地域最大の規模を誇っているだけあって、多種多様な店舗が軒を連ねている。


 一階には主に飲食店が並び、上階に行けば日用雑貨、衣類に靴類、電子機器類、スポーツ用品に本屋、ゲームセンター、果てには結構な大きさの映画館まで完備。


 ここに来れば、日常生活を送るのに必要なものは大抵揃えることができる、まさにショッピングのショッピングによるショッピングのための施設なのだ。


 だがしかし、それは裏を返せば、目的を定めることなくぶらぶらと物色するにはあまりにも店舗が多すぎるということでもある。


 人混みのせいで既に疲労困憊の彼にとって、あっちこっちモール内を歩き回るのはなるべく避けたいところだ。


「だから、まずは……」


 独りごち、モールの入り口から起動したままだった手元のスマホ、その画面を注視する。


 先程開いたLINEアプリには、一件の通知が届いていた。

 トーク相手は妻である。

 トークとは言っても、別に会話をしていたわけではなく、彼女から一方的に連絡事項が送られてきただけだ。


『これ買ってきて』


 その文言から始まった彼女からのLINEは、その下に、ご丁寧に箇条書きで書かれた物のリストが続いていた。

 おそらく今晩の夕食のためと思われる食材に、女性必需の化粧品などである。

 わざわざ言及するまでもなく、これらが買ってきて欲しい物ということだろう。


 彼ら夫婦は共働きであり、休みが不定期の彼はさておくとして、妻の方は日曜日も出勤日である。


 今日の朝、仕事道具を買い足しにいくと告げたところ、丁度いいから買ってきて、と頼まれていたのだった。


「うーん……」


 仕事道具は今まで何度もここで買っているため問題ないのだが、妻に頼まれた方は、まあ食材あたりは流石にわかるけれど、女性特有の物はどの店舗に何が売っているのかがさっぱりわからない。


 届いたLINEには店舗名は記載されていないし……さて、どうしたものか。


 この肝心な部分でずぼらなところは如何にも彼女らしくて微笑ましいし、ましてや自分で買いにいこうとする人が大多数であろう女性用の品を、夫である自分に任せてくれているのは嬉しい限りではあるけれど、やはりそれでも限りがある。


 しばらく逡巡したのち、彼は妻に、『何処の店に行けばいい?』と正直に送り、程なくして彼女から、しっかりと店舗名が載った返信が来た。


 すぐに返信がくるあたり、おそらく今は休憩中なのだろう。


 それに『了解』とサムズアップしたキャラクターのスタンプを送りつつ、彼はまずは、三階へと足を運ぶのだった。




*****




 時間が経っても一向に減る気配のない人の多さに神経を削られつつも、買い物は恙無く進行していた。


 途中、女性用品店に男一人で入らなければならなかったため、周囲の女性客や女性店員、そしてカップルからの何とも言えない視線による羞恥心を経験はしたけれど、手早く目的の物を購入し、そそくさと退散したことで難は逃れた。


 さらには、それとは別の問題も若干浮上したけれど、それはまあ、完全に彼自身の不手際なので致し方あるまい。

 別に難と言うほどのことではなかった。


 本屋に寄り、何冊かのビジネス本を購入した後、仕事道具も無事手に入れ、残すは晩飯用の食材だけである。


 スーパーマーケットがある一階に下りようと足を動かしたところで、しかし彼は、その足を止めた。


「………」


 呆然と目を向ける先は、ショッピングモールではお馴染みのフードコートである。

 一階のレストラン街とは違い、主にジャンクフードやスイーツ系の店舗が円形状に並び、その中央には所狭しとテーブルが配置されており、飲食スペースとなっている。


 その並んだ店の中にーーーードーナツ店を見つけた。


 いや、別に、彼自身が猛烈にドーナツが食べたくなったわけではない。


 彼が考えていたのは、家族のことだ。

 家族ーーーー妻はもちろんのことだが、この場合はどちらかと言うと子供たちである。


「確か、あいつらドーナツ好きだったよな……」


 そう呟く彼の顔には、罪悪感が滲み出ていた。


 仕事が多忙を極める彼にとって、子供たちと過ごす時間が少ないのは当然のことと言える。

 当然のことだが、だからと言ってそれを仕方ないと割り切れる程自分は残忍ではない、と思う。思いたい。


 今日だって、日曜日なのだからーーーーせっかくの休日なのだから、子供たちを連れて何処かにお出かけでもして、家族サービスをすることだってできたはずだ。


 それなのに、別段遠出をするわけでもなく、かと言って家で一緒に戯れるわけでもなく、自分はこうして一人、ただ私的な買い物に来ているだけ。


 あいつらも連れて来れば良かったかな……と、遅ればせながら彼は後悔する。


 連勤による睡眠不足や過労で、そこまで頭が回らなかったなんて、子供の立場からしてみたら何の言い訳にもならない。


 実際、ここでショッピングと洒落込んでいる間にも、手を繋ぎながら仲睦まじく歩いている他の家族の姿を何度も見た。


 その度に、忸怩たる思いで胸が張り裂けそうになっていた。


 不甲斐ないなあ、と自分でも思う。

 自覚がある。


 だから、そう。

 別にこうすることで埋め合わせになるだろうとか、許してくれるだろうとか、そんな浅はかな考えでは決してないけれど、でもーーーーそれでも、何もないよりは幾らかマシだろう。


 悪いことをしたら菓子折りを持ってお詫び。

 社会人の基本である。

 生憎、彼は今までの人生でそれをしたことはないけれど。


「………よし」


 そう結論づけ、彼はフードコートに足を向け、予定外の寄り道をすることにした。


 ショッピングに衝動買いはつきものである。

 この場合、衝動と言うよりも、情動買いと言うべきかもしれないが。


 しかし、そこは休日のお昼時のフードコート。

 まさに今現在、このモール内で最大に混んでいるであろう場所である。

 どの店もある程度の行列ができており、飲食スペースは既に何処も埋まり、トレイを持った人が右往左往している有様だ。


 別に店内ならぬフードコート内でお召し上がりではないのでテーブル席に関しては問題はないが、目的のドーナツ店は、この中でも特に人気が高い店ということもあり、かなりの長蛇の列ができていた。


 それだけで気分が萎えてくるが、背に腹は変えられない。

 何だか意味が逆転している気がするけれど、列の長さは美味さの証明でもあると思い、ここは我慢しよう。


 そう思って最後尾に並び始めた彼だったが、しかしここで、現実的な問題に直面する。

 当たり前のことだが、自分の前に並んでいる人たちも、自分と同じくドーナツを買いに来ているわけだ。

 何を今更と鼻で笑われるくらい馬鹿馬鹿しいことだけれど、それが今の彼にとっては如何ともしがたい不安要素となる。


 端的に言えば、彼が購入するタイミングで、陳列されたドーナツが残っているかどうかである。

 流石に心配し過ぎな自覚はあるけれど、しかしこの列の長さだーーー油断はできない。


 だが、結果から言えば、彼の心配は杞憂だった。

 いや、実際、列が進み、彼が選べる段階に入った時点で、結構な数のドーナツが消費されてしまっていたのだけれどーーーー揚げ上がり。

 彼がトレイとトングを持った、次の瞬間ーーーたった今揚がったドーナツが、次々と、隙間を埋めるように棚に並べられ始めたのである。


 詳しい店事情は知らないので、厳密に言えば、たった今揚がったわけではないのかもしれないけれど、数が増えたことに変わりはない。


 今日は運が良い。

 駐車場でもそうだったけれど、今日は何だか運が良い。

 皮肉にも、職業柄、運勢だとか占いだとかは信じないことにしている自分だけれど。


 というわけで彼は、新たに陳列された多様なドーナツの中から六種類を選び、無事に購入することができた。


 もちろん妻と子供たちの分だけだ。

 ドーナツが好きというのは知っていたけれど、流石に家族と言えども具体的に何の種類が好きなのかは把握していなかったので、適当に、あまりスイーツを好んで食べない自分でも知っているようなメジャーどころを選んだ。


 あいつらが好きなのが入っていると良いな……なんて希望的観測をしながら、今度こそ甘味以外の食材を買いに行こうと決心したーーーーーーその時だった。



「ーーーーッッ!!」



 視界を覆う、刹那の閃光。


 その直後、耳を劈くほどの轟音がモール中に響き渡るのと同時、巨大な爆発が起こりーーーーーわけのわからぬまま、そこで、訪れた激しい衝撃とともに彼の意識は途絶えたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る