第一章3話 『鷲の最期』

 ーーー煙を吸い込まないように身を屈めつつ、二人は獄炎の中を駆け抜けていく。


 ハンカチを持っていなかった少女に、先程まで使っていた自身のハンカチを渡した彼は、既にボロボロの服の袖で口元を覆いながら、少女を背中で庇うようにして、その背中を押していく。


 休日の人々の笑顔で溢れていたショッピングモールは、もはや一寸先でさえも見通すことが叶わないほど炎で埋め尽くされていた。


 揺らめく炎の勢いに呼応し、其処彼処で天井や壁が崩れる轟音が鳴り響く。


 ここまでくると、未だ建物全体が崩落していないことが奇跡のように思えた。


「暑い……」


 ふと、少女が呟いた。

 先程まで涙が止めどなく流れていた頰が、今は大量の汗で濡れている。

 かくいう彼も、四方八方から肢体を蝕む熱に晒され続け、全身から溢れ出る汗が、シャツとズボンをぐっしょりと嫌な感触に湿らせていた。


 少女と話しながらそれとなく確認したところ、彼女の方には特に外傷は見受けられなかったけれど、彼の方は所々に酷い火傷、頭部に受けた衝撃、それに加えて大人数の重量による鈍痛がある。


 そんな満身創痍の状態ながらも、彼が未だ折れずに意識を強く保ち続けるのは、ひとえに目の前を行く小さな少女を助けるという使命感、そして何よりーーーーーそれぞれの場所にいる、家族への愛情だった。


「大丈夫。もうすぐだ」


 暑さに負けそうになる少女を励ましながら、二人は一階へと急ぐ。


 ゲームセンターの前を横切り、眼鏡屋の前のエスカレーターに乗った二人は、転ばないように注意して降りつつ、ようやっと一階に到着した。


 一階もすでに大部分が炎で埋め尽くされ、このままだと、あと数分程度で全焼する勢いだ。


「でも、もう大丈夫」


 少女に言い、自分に言い聞かせる。

 このままエスカレーター下の、吹き抜けとなっている大広場を抜ければ、その先が出入り口。


「そこまで来れば、もうーーーー」


 大広場を横切り、向かいの珈琲店の角を曲がった彼は、しかしそこで、その足を止めた。

 自然、共に駆けていた少女も動きを停止する。


 どちらかが、否、どちらともなく息を呑む音がはっきりと聞こえた。


「………嘘、だろ」


 驚愕で声が出ない少女に代わり、かろうじてそんな情けない呟きを漏らした彼。


 その眼前には、想像を絶する光景があった。


「出口がーーーーーない」


 彼の目の前には、あるはずの出入り口がなかった。


 代わりにそこにあったのはーーーーー、


「が、れきが………」


 ーーーーー瓦礫。

 彼の視界に入り込んだのは、それだった。


 しかし、ただの瓦礫ではない。

 爆発直後、彼の意識を刈り取ったと思われる瓦礫なんて比ではないほどの、特大サイズの瓦礫が、出入り口前に積み重なっている。


 その瓦礫の山が、出入り口を隙間なく塞いでいるのだ。


「何、これ……」


 ようやくのこと、か細い呟きを絞り出した少女は、そのままその場にへたり込んでしまった。


「お嬢ちゃん、しっかり……」


 手放してしまったハンカチを拾い、彼女の口元に当てつつ、その背中を支える。


 そして、改めて、眼前の光景に目をやった。


「ーーーー」


 どうやら、出入り口前の天井が完全に崩落し、そのまま瓦礫の山となって、文字通り自分たちを阻む壁となって立ちはだかっているようだ。


 山は二階部分にまで達していて、とても人力では越えられそうにない。


 かと言って、脇を通ろうにも、瓦礫の山は、向こう側が見えないほど隙間なく行く手を阻んでいる。


 ーーー別の出入り口を探すか。


 そう思い、後ろを振り返った彼は、しかしまたしても、目の前に広がる光景に絶句する。


 ーーー荒れ狂う猛火が、すぐそこまで迫って来ていた。


 つい先程まで走っていた大広場は、もう見る影もないほどに炎で埋め尽くされている。


 前方には瓦礫の壁。後方には火炎の壁。


 逃げ道を断つ二つの壁が、容赦なく二人を袋小路に追い込んでいく。


「………くっ」


 壊滅的な状況を認識した直後、今まで辛うじて繋いでいた意識が、ふっと遠のいていくのを感じた。


 それを奥歯を噛むことで何とか堪え、彼は傍らの少女を見やる。


「うぅ……あぁ………」


 少女は顔を覆い、打ちひしがれていた。


 決意と共に止まっていた涙が、再び勢いよく流れ出す。


 助かるという希望から、両親の元に戻れるという安堵から、一気に絶望の淵まで突き落とされる。


 震える少女の手を握ろうと、その場に深くしゃがみ込んだ。


 大きな手で、小さな手を包んでも、その震えは一向に止まらない。どころか、もう少女には彼の姿すら見えていないようだった。


 手先の震えが、全身に伝播していく。

 その恐怖や不安が、彼をも喰らいつくさんと牙を剥く。


 万事休すーーーーーーそう思った、その時だった。


「ーーーーぁ」



 ーーー地獄に、一本の救いの糸が垂らされた。




*****




 ーーーー光。


 頼みの脱出ルートを遮断され、絶望に飲み込まれそうになっていた彼が、大量の汗でぼやけた視界に捉えたのは、光だった。


 一見、突破する余地なんてないと思われた、上階の残骸の山。


 その圧倒的な大きさ、その存在感ゆえに見落としていたけれどーーーーーあった。


 地獄から助かる道が。絶望に抗う導が。


「お嬢ちゃん!」


 現状を認められず、未だ顔を伏せている少女に、若干声量を強めて呼びかけた。


 急な大声に我に返った少女が、汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔を向ける。


「な……何? おじさん」


「あれを見て」


 打って変わって優しい口調で言って、彼が指差した先ーーーーーそこにあったのは。


「あ……穴?」


 ーーー積み重なった瓦礫の最深層。

 そこに、抜け道と呼ぶべき穴があった。


 偶然だとは思うけれど、いくつかの瓦礫が立体的に積み重なった結果、まるで誂えたかのように、山の右下方が空洞になっている。


 よくよく目を凝らしてみれば、そこからは、瓦礫の向こう側の景色ーーーー主に、避難に成功した人たちや野次馬のものと思われる、幾本もの脚が見えた。


 当然ながら、爆発や崩落で出入り口のガラスは消し飛んでいるので、僅かながら風が入ってくるのもわかった。


 そしてーーーー絶望的な状況を打破する、光が差し込んでくるのもわかった。


 ーーーー光。


 しゃがむことで低くなった視点で見つけ出した、窮地を脱する光明。


 ーーーここからなら、脱出できる。


 その確信を胸に、彼は、二転三転する状況に翻弄され、呆然としていた少女に語りかけた。


「お嬢ちゃん。あの抜け道を通って外に出るんだ」


 そうすれば助かる。お母さんとお父さんに会える。


 そう言った。


「う、うん、わかった」


 戸惑いながらも、少女は頷く。


「よし、良い子だ」


 最後に小さな頭を軽く撫で、行っておいで、と力強く背中を押した。


 押される力に任せ、ふらふらした足取りで、少女は脱出口へと向かっていく。


 ーーーああ、もうすぐ私は助かるんだ。


 そう理解した途端、急速に心の内に安堵感が込み上げてくる。


 これで助かる。ここから抜け出せる。

 この地獄のような熱から解放される。

 鼻をひん曲がらせるほどの異臭から、眼を焼く空気から、肺を侵す息苦しさから、自由になれる。


 ここから出たら何をしよう。

 そうだ、まずはお父さんとお母さんにごめんなさいをしないと。

 二人のお買い物の途中で、勝手にふらふらゲームセンターに入っていったことを謝らないと。

 二人とも怒ると恐いけれど、精一杯謝れば、きっと許してくれる。


 そうしたらまた、ここに連れて来てくれるかな。


「……?」


 ふと、少女は足を止めた。


 ーーー『行っておいで』


 小さな脳で、先程彼に言われた言葉を反芻し、そこに潜む強烈な違和感に、少女は立ち止まった。


 本来ならば背中に感じるはずの、今までは感じていたはずの、人の気配がしないことに気づく。


「……?」


 振り返った先ーーーーそこに、変わらず彼はいた。


 両親とはぐれ、炎の中に取り残され、ただただ泣きじゃくることしかできなかった自分に、手を差し伸べてくれたおじさん。


 避難の最中も、「大丈夫、大丈夫」と、ひたすらに自分を励まし続けてくれた、両親のお友達。


 無事避難できたら、精一杯のありがとうを言おうと思っていた、そんな彼はーーーー自分について来てはいなかった。


 先程まで二人でいた場所から、しゃがみ込んだまま動いてはいなかった。


「お……おじさん!」


 背筋を駆け抜ける得体の知れない怖気に、少女は叫ぶ。


「ん……何だい? お嬢ちゃん」


 まさか呼びかけられるとは思っていなかった彼は、一瞬狼狽し、すぐに落ち着いた言葉を返す。


 だが、対照的に彼女は、震える声で言った。


「何で、おじさんは、来ないの?」


「ーーーー」


 少女の問いかけに、咄嗟に反応できなかった自分を、彼は悔やんだ。


 行かないのではない。

 ましてや行けないのでもない。

 九死に一生を得たこのボロボロの身体でも、まだ数メートルを移動する余力は残っている。


 そうではなくーーーー行く必要がないのだ。


「ーーーー」


 地獄にもたらされた一本の糸は、細く、弱い糸だった。

 何人もぶら下がってしまえば、途端に千切れてしまうような、頼りない糸だった。


 偶然、あるいは奇跡の産物。

 瓦礫の組み合わせによって生じた、向こう側へと通じる隙間は、それはそれは僅かなものだった。


 例えるならーーーーそう、小学生が匍匐前進をすれば、ぎりぎり通れるような、僅かな抜け道だった。


 換言すれば、それは、成人男性、しかも同年代と比べても背が高く、体格も良い彼が通るには狭過ぎる脱出路だということだ。


 ここからなら、脱出できる。


 ーーーー彼女が、脱出できる。


「ねぇ、おじさん。何で、来ないの? どうして、動かないの?」


「……」


「一緒に行こうよ、おじさん」


「………」


「熱いよ。苦しいよ。だから、早く出よう?」


「…………お嬢ちゃん」


 ようやく、彼は声を絞り出した。

 そして、今までずっと彼女に向けていた、人を安心させる微笑みを湛え、語り始める。


「大丈夫。大丈夫だよ。お嬢ちゃんがちゃんと出られたら、おじさんもすぐに行くから」


 だから、心配しなくても大丈夫だと、笑って言った。


「ほ、本当?」


「うん、本当」


「絶対だよ?」


「うん、絶対」


「絶対の絶対だよ?」


「うん、絶対。約束だ」


 こんな状況にもかかわらず、まるでここだけ世界が隔離されたかのように、場違いなほど、不自然なほどに穏やかに笑う彼。


 その笑顔と、瞳に宿った虚飾の覚悟を目にした少女は、うんと一度頷くと、踵を返して、足早に脱出口へと向かって行く。


 最後に見せた顔には、若干の不安が見て取れたけれど、もう少女がこっちを振り返る様子はない。


 ーーーああ、相手が、疑うことを知らない子供で良かった。


 純粋無垢な女の子で良かった。


 そうでなければ、この短時間で、ここまでの信頼を得ることは出来なかっただろう。


「……ごめんね」


 小さな声で呟いた彼は、自分でも驚くほど心が落ち着いているのを感じていた。


 その胸中に想うのは、家族のことだ。


 忙しい彼に文句も言わず、ずっと側で支え続けてくれた最愛の妻。


 仕事にかまけ、父親らしいことなどほとんどできなかった、それでも懐いてくれていた子供たち。


 結局お詫びのドーナツも届けられず、しまいにはこんな災禍に見舞われる不始末。


 ーーーただ、それでも、今この場に、あいつらがいなくて本当に良かった。


 それをせめてもの救いに思いながら、彼はその場に静かに倒れ込んだ。


 ついに肉体が限界を迎えたようだ。

 脚に、と言うより全身に、全く力が入らない。


 それと同時に、ショッピングモールも限界を迎え始める。


 建物のあちこちが悲鳴を上げ、すぐ後ろまで迫っていた炎もさらに勢力を拡げ、今や錯覚でも幻覚でもなく、彼がいる場所を含めた建物全体を燃え上げていく。


「ーーーー」


 横倒しになった視界には、少女が無事に光の道を抜け、数名の野次馬によって救助されている光景が映った。


「ーーーー」


 紅く染まっていた世界が徐々に色を失い、遠のいていくのを感じる。


 モノクロの世界は歪み、捻れ、ゆっくりと、ゆっくりと、輪郭を失っていく。


 着々と、粛々と、『終わり』へと向かう階段を上っていく足音が聞こえる。


 やがて、それも聞こえなくなりーーーー、


「ーーーーーぉ」


 無事脱出できた少女が、ばっと振り返り、何か言葉を発した、その直後。


 ついに火災に耐えられなくなったショッピングモールが、激しい轟音を立てて、一斉に崩壊した。


「ーーーーーッッ!!」


 爆音に混じる、幼き少女の甲高い悲鳴を聞き流しながら。


 彼ーーーーー水無みな鷲史わしふみは、再び意識を手放した。




 ーーーー今度のそれは、二度と戻ることはなかった。

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