きみに会うための440円

増田朋美

きみに会うための440円

きみに会うための440円

富士市内の山間部にある小さなアパートで、佐藤絢子が今日も、家政婦の智子おばちゃんに、手伝ってもらいながら食事をしている。先月くらいまでは、まだ動かない手で食事をするのはなれなくて、しょっちゅうコップを倒すなどしていたが、そういうこともだんだんしなくなってきているようだ。

「ごちそう様。」

絢子は、最後の焼き魚を食べると、智子おばちゃんに言った。

「ああ、よかった。今日もいただいてくださって、ありがとうございました。お嬢様が、そうやって食べてくださるから、おばちゃんは、これからも安心して、お仕えできます。」

「嫌ねえ、智子おばちゃんは。私はもうお嬢様ではないのよ。普通の人なのよ。それはやめて頂戴よ。」

おばちゃんは、いつもの癖で、そういってしまう。絢子はそれをにこやかに打ち消した。

「でも、お嬢様。やっとここで生活するという夢をかなえましたね。今日のスケジュールですが、今日は、九時から出版社の方と打ち合わせがあります。原稿は昨日のうちに済ませましたから、それをお渡しすればいいという事で。」

「そうねえ。」

おばちゃんは、いかにも絢子が原稿を書いたような言い方をするが、実質的にいえば、おばちゃんや出版社の人たちに書きとらせたもので、絢子が書いたとは言えないということも知っている。実際、彼女の下に、著者名が佐藤絢子となっているが、手も足も動かなくなった人物にできるはずもなく、ほかの人物が書いたのではないかという問い合わせが、出版社に来たことがあった。出版社の人たちはとても親切で、こういう悪質ないたずらは、多かれ少なかれあるものだから、気にするなと言ってくれたのだが、絢子には腑に落ちないものがある。

「お嬢様。いいんですよ、気にしないで著作に励んでいけば。そんな変ないたずらに気をまわしていたら、本当に欲しい人が、可哀そうですよ。お嬢様の著作に対して、感動したとか、こんな素晴らしいストーリーは初めてだとか、そういう問い合わせもたくさんあったんじゃないですか。そっちの方を信じて行けばいいじゃありませんか。お嬢様、弱気になっちゃだめです。せっかく一人で独立するという夢をかなえたんですから、それを無駄にしないようにしてください。」

智子おばちゃんはそういって励ましてくれたのだが、絢子はそれを、その通りだと受け取ることはできなかった。

「そうなのかもしれないけど、あたしは、一人で暮らしたいと言っても、その通りにはできない体なのよ。さっきもいったけど、ご飯を食べることだって、おばちゃんに手伝ってもらわないとできないじゃない。ほかのことだって、みんな誰かにしてもらってる。一人で暮らしていけるなんて、そんなこと、」

「お嬢様!だけど考えてみてください。お嬢様の体が健康なままだったら、きっとこんな生活できるはずもなかったんですよ。そりゃ、不自由なこともあるかもしれないですけど、そのままでいたら、一生佐藤家の中に縛られて、苦しい思いをしなければならなかったじゃないですか。ほら、思い出してください。あの時、みんなあたしを追い出すんだって、泣きはらして生活していましたね。」

智子おばちゃんは、耳の痛い話を始めた。

「そうねえ。あの時は、父が勝手に話を進めちゃって。あたしを追い出そうとして、あの変な人と結婚させようとして。」

そういえば確かにそうだった。少し精神が不安定になった彼女を、佐藤家に置いておくわけにはいかないとして、父も母も、そういう話ばかりしていた時期がある。あの、小久保という名もない男が、

絢子に結婚を申し込んだときは、父母はすごく喜んでくれたが、それは正直にいえば、彼女を佐藤家から、追い出そうという魂胆なのである。

結婚という事について、絢子はそれ自体が嫌だという訳ではなかった。誰かと一緒に居られるということは、幸せなことである。それは確かにそうだ。だけど、それが自らの意思によるものではない、となるとまた別のものなのではないか、と絢子は思っていた。よくある、親の勧めとか、職場の上司による勧めとか、そういう「作られた結婚」というものは、果たして幸せになれるのだろうか。だって、いきなり好きでもない人と、同居生活を始めさせられて、無理やり仲良くなり、子どもを作って、と周りから急かされるような結婚は、果たしてどうか。昔だったら、周りに人がいて、トラブルが起きても誰かが対処するのを手伝ってくれることも多かったが、それはもう過去の事。だから、自分たちでやっていかなければならない。そうなることに備えて、相手のことを全部知ってから、結婚に踏み切りたかったのである。時代はとうに変わっているのに、そういう時だけ昔の考えを持ち出すのは、

やっぱり、おかしなことというか、今の時代に合わせて結婚観も変えていかなければならないと思うのである。だから、絢子は親から仕組まれた強制的な結婚というものはしたくなかった。あくまでも、本人同士がしっかり理解しあって、結婚するものだと考えていた。

そういう訳だったから、あの時は本当に不安定になった。富士市内でも歴史ある大企業である佐藤製紙のお嬢さんが、御殿場の名もない弁護士の息子のところに嫁に行く、という、富士市民にしたら、大ニュースになってしまった。富士市内で発行されている新聞や雑誌が、こぞって取材を申し込んできて、絢子どころか、ほかの家族まで迷惑をかけてしまい、彼女は結局、淳子と名を変えて、製鉄所に入所しなければならないほどであった。

でも、製鉄所で知り合った、あの人物のことは覚えている。あの綺麗な人は、名前を磯野水穂さんと言っていた。いくら名前を変えても、とんでもないお嬢様の絢子とすぐばれてしまって、皆自分を避けていた中で、水穂さんだけが、態度を変えなかったことはよく記憶している。そんな小さなことが思い出になるのか?と反論したくなると思われるが、絢子にとっては、一番うれしかったことなのだ。

ただ、製鉄所に行っても、結局身分がばれてしまい、絢子は退所をお願いされた。製鉄所まで、マスコミに知られてしまったら、それではほかの利用者にまで悪影響が出るかもしれないからだ。

結局、あたしは、何をやっても、佐藤絢子であり、それを変えることはどうしても出来ないのだ。何処へ行っても富士の有数の大企業である、佐藤製紙のお嬢さんという、肩書が付きまとう。そんな肩書はいらないから、普通の人間として、見てもらいたい。絢子はそればかり気にするようになった。

結局、普通の人として生活したいというのが、大きな望みだったが、それがかなうチャンスは、何もなさそうだ。と思って生活していたところ、大きなチャンスが訪れた。まず初めに右の足、そして左の足と動かなくなっていき、そのうち、絢子が暮らしていくためには、佐藤家の屋敷全部を取り壊して、バリアーフリー設計をする必要があると、医者から指摘された。そうなると、佐藤家はさらにマスコミのさらし者になるだろう。それを恐れた両親は、彼女を安住アパートというこのアパートに、昔から仲のよかった家政婦さんの智子おばちゃんをつけて住まわせたのだ。

「お嬢様。何をぼんやりしているんですか。もうすぐ来ちゃいますよ。出版社の人。」

不意に智子おばちゃんにそういわれて、絢子はハッとする。

「あ、ああ、ごめんなさい。」

「何ですか、こないだのことをまた気にしているんですか?もうあれは気にしないでくださいよ。本を出して、感動した人はいっぱいいるって、さっき言いましたよね。どうしてそっちに目を向けないんです?ちょっと気にしすぎですよ。」

「そうねえ、、、。」

と、同時にインターフォンが鳴った。

「おはようございます。高橋出版社の高橋でございます。」

おばちゃんが、ほら、と彼女の背をたたく。

「出版社の社長さんですよ。社長さんが自らこうして来てくれるんなんて、ありがたい話ではありませんか。」

たしかに社長が自らやってくるというケースは少ないだろう。まあ、高橋出版も、大規模な会社ではなく、従業員数が少なすぎるという事情もあるが。

おばちゃんが、ドアを開けると、社長さんはにこやかな顔をして入ってきた。

「おはようございます。先日発売した本も、おかげさまで売れ行き好調だそうです。今日は、出版社にファンレターが届いていますので、持ってきました。」

社長さんの言い方は、もちろん悪気はないのだけど、絢子にはなぜか子供に言っているような言い方に見えてしまうのだ。

「読んで差し上げますね。」

と言って社長さんは、鞄の中から、封筒を一枚差し出した。そう、私が封筒を破って開けられないのを、社長さんは知っている。

「えー、佐藤さんこんにちは。私は、子どものころ脳性麻痺のため、歩けなくなってしまった女性です。私は、子どものころから、いじめられて育ってきました。大人になってからも、就職することが出来なくて、もう生きていてもいいのか、わからなくなってしまいました。毎日、自分のことをだめだだめだといつも思って生活していました。でも、佐藤さんの本を読んで、私は生きているだけでもすごいのだという事を知って、少し自信が出てきました。佐藤さん、気付かせてくれてどうもありがとう。そしてこれからも本を出してください。東京の女性の方からです。」

社長さんは、こう読み上げた。そう、障害のある人たちには、自身の書いた本は、そう受け入れられているようだ。そういう感想が、日常的に何回もやってくる。

「でも、それが何の役に立つというのかしら。あたしはただ、おばちゃんと一緒にやっているご飯を食べるとか、憚りに行くとか、そういうことをただ文章に書いて、本にしただけなのよ。それに、誰かに手伝ってもらっているのにいい気になって本をだしているとか、そういう意見もあるじゃない。」

「ですけど、絢子さん。そういう批判もあることにはありますが、確実にこのファンレターをくれた人のように、支えになっている人も少なからずいるんですよ。そりゃ、人間なんですから万人に受けるなんてことはありませんよ。そんなことしていたら、全部の作家が、ダメということになってしまう。絢子さんの本を読んで感動してくれる人だっているんですから、その方々の役に立っているんだともうちょっと自信を持ってください。」

「はい。」

社長に言われて絢子はしかたなく頷いた。

「それでは絢子さん、今日締め切りにしていた原稿は、できていますでしょうか。」

「はい、もちろんです。」

智子おばちゃんは、机の上に置かれていた原稿用紙を持ってきた。

「すみませんね。あたしが、パソコンというものを使いこなせていれば、もうちょっと早くかけているかもしれないんですけどね。」

たしかに、おばちゃんは、ワードを使いこなせなかった。なので、絢子が口に出して言うことを、原稿用紙に書いて代筆している。

「じゃあ、拝見させていただきます。そんなことはちゃんとわかっていますから、締め切りは、ユックリペースに設定してありますよ。」

と言って、社長さんは原稿用紙をパラパラとめくった。

「USBメモリとかだと、いちいちパソコンをたたいてみないといけないのですが、こういう物であれば、すぐに拝見できるからうれしいなあ。」

社長さんは、初めはそういっていたが、だんだんに顔を曇らせてしまう。

「絢子さん。どうもこの原稿、内容が痩せてきたような気がしますが、、、。」

「どういう事ですか?」

智子おばちゃんが聞くと、

「いやね、、、。前に書いた原稿のほうがね、もっと文体が力強かったと言いますか、なんといいますか、もっと自信があったような気がしたんですよ。今回の原稿は内容が暗いし、ウーン、一寸謙虚すぎと言いますか、、、。やっぱり、本と言いますのは重たいだけじゃダメでしょう。どこかに救いがあるようなところがないと。それは、どんなジャンルでもそうです。」

と、答えが返ってきた。

「そうね。なんだか今は、明るい話を書ける気分ではないのよ。」

絢子は正直に答えた。

「ちょっとラストだけでもいいですから、書き直してもらってかまわないですかね。これじゃあ、ちょっと暗すぎて読めないという人が出ちゃうと思うんですよ。ほら、さっきの女性だってね、絢子さんの新作を楽しみにしていると思うんですが、これじゃあ、一寸幻滅しちゃうんじゃないかなあ。締め切りまでまだ時間はありますから、もうちょっと明るい内容にしてください。」

社長さんは、原稿を智子おばちゃんに渡した。丁度その時、部屋の中に飾ってあった、メロディー時計が音を出す。

「あ、もうこんな時間だ。次の方のお宅に回らなきゃ。じゃあすみません、これ、書き直してくださいね。また、連絡しますから、よろしくお願いします。」

社長さんは、忙しそうに、絢子達の部屋を出て行った。

「じゃ、お嬢様、すぐに書き直しましょう。あたしが代筆しますから、お嬢様は内容を言って下さい。」

と言われても、絢子はすぐには思いつかなかった。

「お嬢様、何を黙っているんですか、急いでやらないと、締め切りに間に合わなくなりますよ。社長さんが、もっと明るくといったんですから、そういう内容にしないと。」

「きっとその本は、あたしが書いたという事ではなくなるのね。」

不意に、絢子はそんなことをいった。

「何をおっしゃいます。本を出しているのは間違いなくお嬢様ではありませんか。」

「そんなことないわ。書きとってくれたのは、智子さんで、明るくするようにと言ったのは社長さんでしょう。あたしは、ただ口で言うだけで、何もしていない。」

「だから、何を言っているんです。曲亭馬琴だって、目が見えなくなってしまって、お嫁さんに書かせていたそうじゃありませんか。其れと一緒だと思ってくださいよ。あたしたちもそのつもりでいますよ。」

「そうだけど、あたしたちは、もう少し謙虚にならなきゃいけないのよ!」

不意に、絢子は、唯一動く手で、車いすのふちをたたいた。おばちゃんはそうですか、と言って黙る。精神が不安定になったら、あまり口を出さないほうがいいと思っている。そうなると、かえって日に油を注ぐようなことにもなる。それではいけないから、おばちゃんはそうしている。

「お嬢様、私、買い物に行ってきますから、原稿の続き、考えていてくださいませ。」

おばちゃんは、そういって静かに部屋を出て行った。

一人になった絢子は、静かに泣いた。みんなあたしのことを、障害者としてみている。健康な人からは、辛辣なファンレターが多いし、教育関係者からは、こんな日常的なことを小説にされても困るという苦情が来たこともある。結局あたしは、そういう事しか見られていなかったんだ。初めのころは、佐藤財閥のお嬢さんとして、そして、今は障害者として。其れしかないんだという事である。

誰かあたしのことを、別な人間として評価してもらえないだろうか。勿論、足が動かないのは百もわかっているが、そこじゃなくて、あたしの別の面を評価してもらえる人はいないか。一生懸命過去に出会ってきた、人物たちを思い返す。

一人いた。あの綺麗な顔をした、磯野水穂さんという、不幸な境遇の美しい人。あの人なら、私の別な面を見つけてくれるのではないだろうか。

絢子はそんなことを思い立ち、それではすぐに実行しようと決めた。

会いたい。

急にそんな気持ちがわいてきてしまって、どうにもならなくなってしまったのだ。電話台に置かれていた、がま口の財布を、動かない手で何とかしてパカンと開ける。大体金銭的なことは、おばちゃんが管理しているが、なぜか今日は、その財布が、電話台に置かれていたのである。これも偶然ではないのかもしれないと絢子は思った。

財布を開けてみると、440円入っている。やった!と絢子は思った。確かタクシーの初乗り運賃は、410円だ。製鉄所は、ここからだと五分もかからないでいけると絢子は知っていた。もしかしたら、タクシーの運転手が、もっと簡単に行ける方法を知っているかもしれないし。それに、迎車料金もかからないタクシー会社があることも知っていた。買い物なのでタクシーを使うことは多かった彼女は、できるだけ安くタクシー代を収める方法を覚えていたのだ。

絢子は、五月雨うちのように遅いスピードで、タクシー会社の番号をダイヤルした。タクシーはすぐに来てくれると言った。製鉄所までというと、歩いても行けますが?と、オペレーターは不思議がったが、絢子が自分は歩けないから乗せてもらいたいというと、了解してくれた。絢子は、がま口の財布をもって、玄関先へ行き、タクシーが来るのを待った。

タクシーは数分後に来てくれた。絢子は、運転手に介助してもらってすぐにそれに乗り込んだ。行先ももうわかっているので、運転手は何も言わなかった。財布の中には440円しか入っていない。だから帰りはどうするのか、と思われるが、絢子は水穂さんに会いに行くという気持ちが強くて、帰りのことなど全く思いつかなかった。

タクシーは製鉄所の前で止まった。やはり初乗り運賃で十分な距離で、410円で間に合った。絢子

はそれを払うと、おつりの30円を受け取って、製鉄所に突進した。

「ごめんください。」

絢子がそういうと、杉三が応答した。

「なんだ、佐藤財閥のお嬢さんじゃないか。どうしてここへ来たんだよ。」

「ごめんなさい。あたしどうしても会いたくて。」

「誰に?」

「水穂さんに。」

「はあ、なるほどなあ。水穂さんという人はどうしてこうも女性の心をつかんでしまうのだろうか。単に、容姿だけではなさそうだなあ。」

絢子がそういうと、杉ちゃんは、変な顔をして不思議がった。

「ほんのちょっとでいいんです。お話させてくれませんか?」

「うーん、残念だか今、天童先生と一緒なんだ。出すもんをまた詰まらせちゃってさ。暫く眠ると思うから、眠らせてやってくれんか。申し訳ないねえ。」

杉三は、申し訳ない顔をして、そういったが、

「せめて、顔を見るだけでもできませんか。」

と絢子はさらに言った。

「そうだなあ。」

杉ちゃんは、少し考えて、

「じゃあ、こうしよう。こっちへ来てくれ。今どうなっているか、どんな状態か、見届けてから帰れ。」

と言った。

「お前さん、車いす自分で操作できる?」

「ええ、電動だから、自分でできるわ。」

絢子は、杉三に聞かれて、そう答えた。

「じゃあ、一寸こちらに来てくれや。」

そういわれて、絢子は杉三の後をついていった。結構狭い廊下なので、絢子のような電動車いすでは、かなり動きに苦労した。それでも絢子は杉三の後をついていった。

四畳半が近づいてくると、咳き込む声がする。そして、中年の女性が、落ち着いていきを吸い込んでごらん、と声をかけているのも聞こえてきた。水穂の枕元のそばには由紀子が心配そうな顔をして、座っていた。

「あ、様子はどう?」

杉三が、由紀子に小さな声で聞いてみると、

「ええ、今やってもらっているけど。」

と、由紀子は答えた。

布団には、絢子の想い人も座っていたが、天童先生に背中をさすってもらいながら、苦しそうにせき込んでいる。天童先生は、まるで彼を抱きしめるような姿勢になっていて、まるであるシーンと勘違いされそうなほどであった。でも、そうじゃないのは、咳き込んでいるからすぐわかった。

「よし、もう少しよ。落ち着いて、ゆっくりね。無理してだそうとは思わないでね。そう、上手、上手よ。」

咳き込むのに上手も下手もないのではないかと思われるが、天童先生はそういうのだった。

「よしよし、じゃあ、強く三回咳き込んでごらん。」

言われた通り、水穂さんが三度咳き込んだ。天童先生が、水穂さんの口元にタオルを当てる。すると、そのタオルが、朱肉みたいな色をした液体で染まった。

「よし、うまく行った!大成功。」

杉三がそういうと、

「本当は、いつでも、こうして楽に出せるといいんだけどね。痰取り機のお世話にはなりたくないわ。」

由紀子は思わず、という感じでそういうことをいった。痰取り機がどんなものなのか、絢子も知っている。もともと、血を出そうとするときは、液体で気道がふさがれるわけだから、相当に苦しいことは確かである。それを機械の動力で、無理やり吸い込んで取り出すわけだから、さらにつらいだろう。自意識の乏しい人でさえも痰取り機は嫌がるという逸話もある位だ。

「水穂さん。もう眠る?」

天童先生がそう問いかけると、水穂さんは、返答もしなかった。天童先生は、わかったわよとだけ言って、水穂さんを静かに布団の上に寝かせて、かけ布団をかけてやった。

「どうしてそんなに。私があったときは、普通に話もすることもできたし、よく私としゃべったりしていたのに。」

絢子は、思わず天童先生に話した。

「いやあ、そうなんだけどね。水穂さん、去年の秋のころから、だんだん弱ってきちゃってもうだめなものはだめとして、もうあきらめようということにしてるんだよ。」

杉ちゃんが、そういうことをいった。諦めるって、もうそうなってしまうのだろうか?それでは、もう、あの時のような話はできないという事か。

「一体なんで、こっちに来たの?」

杉三が悪びれもせず、そう聞いてきた。

「何か用事でもあったの?」

これを聞かれて、絢子は困ってしまう。特に会いに来るという行為に必然性があって来たわけではない。ただ、440円を使って、ここへ来ただけである。

「ごめんなさい。何か悪いことをしてしまったのでしょうか。」

「いや、そういう訳ではないんだがね。一体なぜ、こっちまで来たのかなあと思ってさ。」

杉三は、頭をかじった。

「あたし、そんな悪いことしたつもりはないんです。ただ、今行き詰まってて、何だか気分を変えたかっただけよ。」

絢子はとりあえず正直な理由を言う。

「そうなのか。なんか、商売でも始めたのか?おそらく、そんな体になったという事は、医療関係の事業とか、福祉事務所でも建てたのかな?」

「まあ、違うわ!」

思わず、杉三の発言に絢子は声を上げた。でも、障害のある人のために本を書いているという事なので、

「ええ、福祉関係に近いものかもしれないわね。杉ちゃん、ごめんなさい。」

と、とりあえず答えを出した。杉三は、それについて返答はしなかったが、

「もしかして、水穂さんをそこに入れるつもりなんじゃないでしょうね!」

杉三の代わりに由紀子がいきなりそう強く言ったため、皆びっくりする。

「悪いけど、水穂さんの邪魔をしないでもらえないかしら?」

おい、それは言い過ぎだぞ、と杉三が由紀子を制したが、由紀子はついに堪忍袋の緒が切れてしまったのだろうか。絢子に向かって、こういった。

「あなた、大金持ちのお嬢さんだからって、こう、のこのこやってこないで頂戴。あたしたちと違って、すぐに従者がいて、命令すればすぐこうしてこっちまで来させてもらえるんでしょうけど、それでは、かえってあたしたちは迷惑になるわ。それを忘れないでほしいの。大体の大金持ちの人は、本当に気まぐれで、そうやって会いたいと思えばすぐに来られるんでしょうけど、あたしたちはそうじゃないのを覚えておいて!」

もうそんなんじゃないわ。私はもう普通の人になったのよ。今ここへ来るお金だってちゃんと440円つかって払ってきたのよ。従者も誰もつけないで、私一人でやってきたのよ。絢子はそれをいおうと口を開いたが、

「水穂さんは、お金持ちの人には渡さないわ!」

と、由紀子が強く言ったため、そうか、私には、無理なんだ、と絢子は思ってしまう。

「あなたには、きっと、水穂さんの様な人が、どれだけ苦労しているか、あなたには知る由もないでしょうよ!そんな人が水穂さんに寄り添ってあげる様なことはできるはずがない!そんな人に、この人を看取ってやれる様なことなんてできるはずもないわ!この人は、とにかくね、あなたにはお渡ししませんから!」

「由紀子さん、お前さんちょっと声が大きいよ。それでは水穂さんも眠れなくなっちまう。今は、ちょっと、静かに寝かしてあげような。」

杉三にそういわれて、由紀子はしぶしぶ黙った。

「でも、渡さないから!」

最後に由紀子が、静かだが決断に満ちた口調でそういったので、もうおしまいだと絢子はおもった。

「由紀子さん、もういいよ。わかってくれたと思うよ。とにかくもう怒鳴るのはやめてね、静かに寝かしてやろう。あれだけ出す作業だけでも苦しかっただろう。それだけでも、人間は苦しいさ。それだけでも大変なんだよ。」

杉ちゃんが優しく由紀子をなだめた。

「だけど、いやね。金持ちの人は、お金があるんだから、何とかして、ケアをさせようとするでしょうね。でもそれは、大事な人を、あたしから持って行っちゃうことになるのよ。」

そういう由紀子の言い回しは絢子には強烈だった。それでは、もしかしたら自分が書いている本も、嘘を書いていることになってしまうかもしれない。

「絢子さん。お金持ちの人は、何でもできるけど、こうして、傷ついてしまう人がいるってことも忘れないでやってね。」

天童先生がそう言った。

「大体の人は、お金持ちの偉い人が書いている理想論通りには、生きていかれないのよ。水穂さんなんかその典型例でしょ。だから、由紀子さんは、その通りに従わせて、彼のことを傷つけたくないのよ。多くの人はね、偉い人の理想論に従っている様に見えるけれども、それはできないって反発しながら生きているのよ。」

そうなんだ。

そこを、本として著した人はいるだろうか。

書いてみたい。

そうやって、正しいことに従えないで苦しんでいる人たちを。

水穂さんは静かに眠っている。

「今日ここへ来られてよかったわ。440円、無駄にしないで済んだわ。」

と、絢子は静かにつぶやいた。

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きみに会うための440円 増田朋美 @masubuchi4996

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