第9話「片桐美智子」






 自室で本を読んでいると扉がノックされた。晃から言われた言葉が脳裏を過り、全く読書に集中出来ていなかったため読書を中断することに全く抵抗を感じなかった。


「入ってもいい?」


 控えめなノックの後に掛けられた声は母のものだった。わたしは机の上に本を置き、扉に駆け寄ると母を部屋へと招き入れた。


「どうしたの?」


 母がわたしの部屋を訪れるときは決まって何か用事かある時だけだった。


「少し話がしたくて……あ、その小説」


 質問に答えながらわたしを見ていた母の目が、机の上に置いたままにしていた本へと向く。


「読んでいたの。母様に似た名前の作家さんが書かれた本なのだけれど、片桐美智子さんって知っている?」


 母の視線をなぞるようにわたしも一度本へと視線を向け、そして向き直り問いかける。


「その、黙っていたのだけれど。片桐美智子は私よ。結婚する前の名前。その頃から何作か書かせてもらっているの」


 予想外の返答にわたしは言葉を失った。


「その小説は私の実体験を元にして書いた話よ。結末は現実と全く違うけれどね」

「え? 母様、駆け落ちしたの?」

「相手からしようと言われたわ。本当に愛しているのなら来てくれって。けれど、私は行かなかった。私たちにはお互いを愛する前から許婚がいたから。その人たちに悪いと思ったの」


 薄い笑みを浮かべながら思い出を語る母。だがその表情は途端に曇った。


「けれど、こんなことになるなんてその頃の私は思ってもみなかったわ。私が彼を選んで駆け落ちをしていたら、未来はきっと全く違うことになっていたでしょうね」


 母からの思わぬ告白をわたしは自分が今、直面している状況と照らし合わせる。わたしも今ここでやめたら後悔するだろうか。彼の誘いに乗るべきなのだろうか。


「母様」

「なに?」

「彼が他の女性とはなしているを見ると胸が苦しくなるのです。何故でしょうか」


 わたしは母の瞳を見つめた。母はわたしの質問を驚いた表情で受け止め、少しだけ複雑そうに笑みを浮かべた。


「彼のことを愛しているのね。彼を幸せにするのは自分だと思っているから、まるで邪魔をされたように感じてしまうのだと思うわ」


 母の言葉を理解する。けれど自分の思いが本当にそうなのか自信がない。半信半疑だ。


「そう、それと。明日、パーティーに出席することになったの。よろしく頼むわね」


 明日。晃が明日、わたしを待っている。パーティーを抜け出し、彼の元へ行ってしまおうか。


「母様」

「ドレスは、もっと淡い色のものがいいです」


 初めて母にわがままを言った。けれどこれは最初で最後かもしれない。

 突然の申し出に母は優しく微笑み「わかったわ」と答えた。


「私はそろそろ行くわね。また明日、おやすみなさい」

「おやすみなさい……」








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