第8話「矛盾した心」






 何度読み返しただろう。晃からもらった「鳥籠に咲く花」は舞踏会で出会った二人が恋に落ち、駆け落ちをする話だ。作者はあまり見ない人物だった。片桐美智子。母の名前に似ている。

 今日は朝からずっと本を読み漁っていた。朝日奈先生のデビュー作から始まり、今この本を読み終わったところだ。


 あの日以来、外に出かけることがめっきり減った。きっと前みたいに晃と偶然会ってしまうのが怖いのだ。怖がりな自分が憎い。けれど一日中屋敷に籠っていると気がおかしくなりそうな気がして、わたしは晃と会わないことを願いながら書店へと向かった。


 新作の詰め込まれた棚の片隅にはまだ朝日奈先生の本が並んだままだった。人気作家は扱われ方が他の作家とは違うのだと思う。

 そこから視線を外し他の本を眺める。まとまって似たような日付に数冊ほど新刊が発売される。その中からおもしろそうなものをまるで宝探しをするように見つけ出していく。こうして本を探す時間もわたしは好きだ。


 ふと晃からもらった本の作者を思い出す。片桐美智子。彼女はどんな本を出しているのだろうかと少し気になった。


 わたしは新刊の棚を離れ、彼女の名前を探す。棚に差し込まれた仕切りを目印に一冊ずつ流して名前を見ていく。

 すると数冊、彼女の名前が記された本を見つけた。適当なものを手に取る。後ろに書いてあるあらすじを一通り読み、その中の一冊を持って会計へと向かった。


 書店を出てからカフェーで読書をしようか、公園で過ごそうか迷った。けらど目上げた空は綺麗に澄んだ水色をしていて太陽が温かかったため、わたしは迷わず公園を選び足を運んだ。


 ベンチに腰かけ買ったばかりの本を広げる、あらすじを見る限り、これは遊郭が舞台の物語のようだ。遊郭なら今でも小規模にではあるものの残っている。しかし小説の中は江戸時代のようだ。


 物語の語り手は遊郭の大見世で御職を張る花魁。そんな彼女のなじみきゃくが次々と毒殺されるところから物語は始まる。そしてその犯人は彼女なのではないかと疑いをかけられてしまうのだ。


「わっちはなにんもしておりゃあせん。馴染みの旦那をなくしゃあ年季が伸びるだけでありんしょう?」


 耳元で作中の台詞が囁かれたように聞こえ、わたしは顔を上げた。そして振り返る。その事をわたしはすぐに後悔した。晃だ。


「久しぶり。って言ってもまだそこまで日は経ってないけど」


 わたしは話しかけてくる晃を無視して本に栞を挟むとすぐにカバンへとしまい立ち上がった。何も言わずその場から立ち去ろうとするわたしの腕を彼は掴み引き止めてきた。


「何で逃げるの?」


 彼の質問にわたしは口を噤んだ。目が会わないように俯く。彼はきっとわたしが答えるまで手を離してはくれない。けれど今回ばかりはわたしも口を割るつもりはない。いつまででも黙っているつもりだ。


「俺のこと、嫌いになった?」


 思いがけない問いかけにわたしは反射的に顔を上げ「違うっ」と零した。合わせないようにしていた視線が晃の視線と絡み合う。


「なら、なんで逃げるの?」


 少し掠れかかった声に問われわたしはまた口を閉じる。それを見て晃は苦笑した。


「そんなに言いたくないことなんだな……」


 そう零す表情は憂いを帯びた儚げなものだった。その表情にわたしは息が詰まりそうになる。胸の辺りが苦しい。


「九条さんって、とても素敵な人ね」


 脈絡なしに吐いた言葉に晃は眉間にしわを寄せる。


「綺麗で、控えめで、家柄もよくて、大人で……とても素敵な人だわ」

「あの人と話したのか?」

「ええ、少しだけ。あなたの、許婚なのでしょう? こんなところで他の女と話しているところなんて見られたら都合が悪いのではないかしら」


 わたしはあえて冷たい態度で接し、彼から離れてくれるように仕向けた。けれど晃にそれは少しも通用しなくて、彼はわたしを全く離してはくれなかった。


「許婚は許婚だろ。親が決めた相手だ。興味ない」


 彼の興味ないという一言に、微かに喜んだ自分が見えた。けれどその気持ちに背を向け、わたしは冷たい態度を続けた。


「それは相手に失礼よ。わたしはもう帰るので。その手を離して」


 離してほしくない。止めてほしい。理由を問い質してほしい。

 そんな欲しがりな自分が出てきそうな気配がして、わたしは俯き彼と目を合わせずに言い放つ。


「だめだ、離さない」


 けれど彼はそう言って離さなかった。


「強情! 離してっ」


 そんな彼にわたしの口からは思っていることとは反対の言葉が飛び出た。叫んでいたのだ。

 その瞬間、晃の手から自分の腕が抜け落ちた。だが彼を見た瞬間、わたしはさっきまでの態度を深く後悔した。

 晃はとても傷ついた表情でわたしを見つめていた。ありえないとでも言いたげだった。


「あ、あの、これは……」


 わたしが言い訳を口にしようとした途端、彼は思い切り苦笑し、わたしに背を向け立ち去ろうとした。

 わたしは帰って欲しくなどなくて、慌てて彼の腕を掴んだ。


「離してくれないか?」


 冷めきった声がわたしに背を向けたまま放たれる。わたしが力を抜くと彼の腕がわたしの手から抜けていく。わたしの手は名残惜しそうに彼の手を求めてしばらくの間、宙を彷徨っていた。


「待って……行かないでっ」


 わたしは必死になって彼を呼び止め用としている。自分で自分がわからない。彼から逃げたいのか、彼と一緒にいたいのか。わたしは矛盾している。


「離してほしいのか、行かないでほしいのか、どっちなんだ」


 ゆっくりと振り返った晃は細めた鋭い眼差しを冷たく私に向けた。突き刺すようなその瞳が痛く感じる。と同時に彼がわたしだけを見てくれていると思うと、とても嬉しかった。


「嫌だったの。九条さんの態度が……」

「あの人? もしかしてあんたに何かした?」


 晃の細められていた目が徐々に開かれ、元の大きさへと戻っていく。


「晃との時間を奪われたわ……」

「えっ?」

「わかってる、自分でも言ってることが矛盾していることくらい。あの人は晃の許婚だし、わたしはあの人と違って良家の生まれでもない。だからいつか離れなきゃいけないって思っていたわ。あなたのためにならないから。それに、わたしはあなたに何もしてあげられていない……」


 わたしは晃から視線を逸らした。どんな言葉が返ってくるかわからない。それに恐怖しながらわたしは身体を固くして黙った。


「……なあ、駆け落ちしないか?」


 不意に降ってきた言葉をわたしは一瞬理解できなかった。わたしは晃の顔を見上げる。いつの間にか向かい合っていた晃はすぐ触れることが出来るくらいに近い。


「え、今、駆け落ちって……」


 あまりの驚きに言葉が消えてしまったわたしがどうにか絞り出せた言葉に、晃は微笑を浮かべる。


「ずっと父親の言うこと聞いてきたんだ。結婚相手まで決められてたまるか」


 この場面にわたしは既視感を覚えた。「鳥籠に咲く花」だ。あの小説の主人公たちが駆け落ちをするシーンによく似ている。


「明日、夜八時にここで待ってる。もし結乃が来なかった時は、大人しく九条の娘と結婚するよ。来るか来ないかはあんたの好きにすればいい」


 晃はそう言ってはにかむとわたしに背を向け去っていった。








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