第3話「先生の新作」
新刊の並んだ棚の前をわたしは右へ左へと、もう二十分も行き来していた。
朝日奈先生が約半年ぶりに新作を出版されたのだ。けれど他にも気になる本があり、わたしはどちらを買うべきか迷っていた。
手を伸ばしては引っ込め、を何度も繰り返しているうちに本当にどちらにすべきか全く決まらなくなってしまい小さく息を零す。いつの間にか隣に人が立っていたことに、見ていた棚に手が伸びてきたところでようやく気づいたわたしは邪魔にならないように横へと少しずれた。
「すみませ……あ」
その人物を見てわたしは思わず言葉を止めてしまった。
「ああ、どうも」
その人物もわたしを見ると軽く頭を下げた。何ヶ月ぶりだろう。顔を合わせるのはパーティー以来だ。
「久世さん、お久しぶりです」
「パーティー以来ですね。あなたも新作を買いに来たんですか?」
「ええ。けれど他にも気になる本があって、迷ってしまって……」
パーティーから少々日が経ち過ぎているせいか最初はどちらも敬語の抜けきらない話し方で言葉を交わした。
わたしが苦笑を浮かべていると少しの間沈黙した不意に
「迷ってる本って、どれ?」
と問いかけてた。
質問の意図がわからないまま尋ねられた通りに棚に並ぶその本を指差すと、彼はその本を迷わず手に取った。そして次に朝日奈先生の新刊を二冊、棚から抜き取るとそのうちの片方をわたしに持たせた。
「会計済ませたら一緒にどこかで食事でも、どうだろうか……」
彼はわたしから視線を外し、宙を漂わせながら告げた。
別にこの後用事があるわけでも、何か断る理由があるわけでもなかったわたしは「いいですよ」とすぐ答えたが、彼がなぜこうも唐突に食事へ誘ってきたのかまるでわからなかった。そしてわたしが迷っていた本を彼が買った理由もわからないままだ。
会計を済ませ書店を出ると先を歩く彼についていくように一歩後ろを歩いた。誰かとこうして街中を歩くのはいつぶりだろうか。母とは時々あるものの、それも月に一回あるかないかと言う程度だ。男性となんて尚更。一緒に歩くことなんて滅多にない。
「嫌いなものとか、食べれないものって……あったりする?」
脈絡のない質問にわたしは首を傾げる。それを感じ取ったのか彼は少しだけ首を捻りわたしを見た。
「食事するのに嫌いなものは嫌かなって思って」
「嫌いなものは、ないです」
彼直々の説明に質問の意図を理解したわたしは答えを言いながら自分の発した言葉に首を傾げていた。
「なんでそこで首傾げるの?」
小さな笑みでも零すように吐息交じりに問いかけてくる彼。その表情に心が温かくなり「何故かしらね」とわたしは微かに口角を上げた。
「あの、実はわたし、そこまで持ち合わせが多くはなくて……」
食事をする上で手持ち金がないのはまずいと思い先に話しておこうと思い口を開くと、彼は「だから迷ってたの?」と先程の書店でのことを話に持ち出してきた。
「え? ええ、そうよ? 本当は朝日奈先生の新刊だけを買う予定だったの。その後、近くの喫茶店でゆっくり読もうかしらって。けれど、並んでいる新刊を見ていたら気になってしまって」
言い訳じみてしまい少々口早に慌てて答えると彼は顔を背け肩を揺らし始めた。
「別に、俺が誘ったんだから食事の分くらい出すよ」
「え? わ、悪いわっ。自分の分くらい自分で出しますっ!」
「なら……この間の礼ってことで。ほら」
彼は無理矢理わたしの手を取り、引っ張ると隣に並べた。けれど並べた後も彼はその手を離そうとはしてくれない。
街中で男性と手を繋ぐことがこれ程までに恥ずかしいものだとは思わなかった。
「手、離さないの……?」
わたしは彼の顔を見ないように俯きながら恐る恐る尋ねた。
「離した方がいい? 何故か、離したくないって俺は思うんだけど」
「けれど、街中よ? わたしとあなたはまだ、他人……」
「他人、かぁ。そうだよな。ごめん」
そう言って彼はわたしから手を離そうとする。
指先が離れてしまいそうになったそこで、わたしは咄嗟に彼の指先を掴んだ。
「……なら、そのままでも……構わないわ」
わたしは顔を見られないように深く俯き、消え入りそうな小さな声で告げた。
わたしが黙ると彼も黙り、わたしたちは黙々と歩いた。そして辿り着いたのはお洒落な外観の、雰囲気のある大きすぎないカフェーだった。
見た感じ高そうなそこに入っていく彼に手を引かれ後をついて入ると、中はステンドグラスの傘を被ったランプでほんのりと照らされていた。落ち着いた店内には黒の洋服にエプロンを身に着けた女給さんがいて、わたしたちを席まで案内してくれる。まだ和装にエプロン姿の女給さんがいるカフェーが多い中、ここは店内の装いも女給さんの制服も少し先を行っていた。
「ご注文がお決まりになりましたらご遠慮なくお呼びください」
テーブルの上にメニューを広げると彼女は控えめな笑みを浮かべそう告げると去っていった。
ランプのオレンジ色に照らされたメニューを睨みつけ、わたしは何にしようか決めかねていた。ただ一番気になったのはオムレツライスだったのでそれにしようと決めた。小さい頃はよく母が作ってくれた料理がオムレツライスだったので懐かしくなったのだろう。いまだに母がどこで料理の作り方を手に入れてくるのか謎のままである。
「決めたわ」
メニューから目を離しわたしが告げると彼はさっきの女給さんを呼んだ。
「サンドウィッチとアイスコーヒー、それから」
そこで言葉を止めわたしを見る彼。そこに続くように「オムレツライスとアイスティーをお願いします」と告げた。
女給さんは注文内容を確認するとまた奥へと入っていった。
その後ろ姿を見送ってから向かいに座る彼はさっき買ったばかりの本を取り出した。それも朝日奈先生の新刊ではなく、わたしが気になったと言った本だった。彼はそれをわたしに差し出した。
「えっ。これ、さっきの……」
わたしが思わず声に出し視線を本へと落とすと彼は「プレゼント」と言ってそれを突き付けてきた。
「けど」
わたしが断ろうと口を開いた時だった。
「読みたそうにして迷ってるあんたの顔が、とても魅力的だったから……」
彼の台詞にわたしは言葉を失った。最初、出会ってすぐの頃は失礼なことばかり言ってくものだから黙ってしまったのだけれど、今では恥ずかしいことをさらっと言ってのけるものだから黙ってしまう。何と言い返せばいいのだろう。言葉が出てこない。
「……あの、ありがとう。大切に読ませてもらうわね」
わたしは彼から本を両手で受け取り小さくお礼を告げた。それはちゃんと本人に届いていたようで、彼の口元には微かに笑みが浮かんでいた。
「あんたってどんな話が好きなの?」
もらった本をカバンに仕舞っていると彼が唐突に聞いてきた。
「基本何でも読むからあまり気にしてはいないけれど、普通の女の子が好むような恋愛もの以外ならほとんど好きよ」
「普通の女の子って……あんたもそうだろう。違うのか?」
彼に悪気がないのはわかっている。けれどその質問に思わずわたしは表情を崩した。わたしの表情の変化に気づいたのか、彼はすぐに「ごめん」と謝ってきた。彼が謝ることではないのに。けれどわたしは上手く笑えなかった。
「ごめんなさい、あなたは悪くないわ」
それだけを告げるのが精一杯だった。
沈黙が訪れる。そこに注文した料理が運ばれてきた。教理を前にしてわたしも彼も手をつけようとしない。
「踏み入ったこと聞くけど、あんたの家、何かあるの?」
女給さんが去ったところで口を開く。彼は案外、思わぬところで勘が鋭かったりもするようだ。
「ちょっと、ね……」
わたしがそれだけ言って目を逸らすと彼はそれ以上何も聞いてこようとはしなかった。代わりに「食べよう」と言ってサンドウィッチを手に取った。わたしもスプーンを取り、綺麗な形に盛られたオムレツライスにスプーンの先を入れた。
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