第2話「読書仲間と傷」




 壁に沿って歩き、テラスへと出る。冷たい風が肌を掠め、ホールの熱で熱くなった身体を静めていく。空を見上げれば深い藍色の中にいくつもの白い輝きが見えた。


「飲み物もらってきます。何がいいですか?」

「え? あ、ならお酒以外のもので。さっぱりしたものがいいです」

「わかりました。ここで待っていてください」


 わたしの申し出に頷いた彼は手を離し、人混みの中へと紛れていった。ホールを外から眺める。やはり華やかなそこはわたしには似つかわしくない場所だ。

 心此処にあらず、という感じで眺めていると思ったよりも早く彼は戻ってきた。両手には細身のグラスが一つずづ握られている。


「はい」


 差し出されたのはオレンジ色の透明がかった飲み物だった。


「ありがとうございます」


 わたしがグラスを受け取り、しばらくの間その綺麗な色を眺めていると不意に彼が口を開いた。


「お酒、飲めないんですか?」

「ええ、まだ飲んだこともないです」

「歳いくつですか?」


 問いかけられてわたしはグラスから視線を外し彼を見上げた。


「その質問、女性相手だととても失礼ですよ」

「すみません」


 今度はさっきと違いすぐに謝ってきた彼。


「十八です。だからまだ飲めないんです」

「ああ。なるほど」


 彼は納得したのか頷いてグラスの中で揺れる飲み物を口に含んだ。わたしも喉が渇いていたため同じようにオレンジ色の飲み物を口に含む。口の中にさっぱりとしたオレンジの味が広がる。酸味の中にある甘みがアクセントになっていておいしい。


「歳が近くて安心しました。よかったら堅苦しい話し方なんてやめませんか? こっちの方が話しやすいならこのままでもいいですけど」


 よくわからない人だ。彼はとても不思議な人だと思う。だからなのか、わたしは思わず吹き出すように小さく笑ってしまった。


「久世さんはどちらがいいですか? わたしはそちらに合わせますよ?」

「なら、お互い話しやすい話し方にしませんか?」

「わかりました」


 ふっと口角が上がる。唇にグラスを寄せ、酸っぱくて甘いそれを飲んだ。よくわからない人だけれど、何故だか居心地は悪くなかった。

 彼は柱に背中を預けるようにしてわたしの隣に立つ。


「あなたは何が好きですか? やっぱり女性なら読書とかですか」

「趣味、と言えるようなものはないですが。時々読書はします。けど、好きかと聞かれたら·····どうなんでしょう。あ、けれど朝日奈満あさひなみつる先生の『夕日に照らされて』は好きです。久世さんは読書が好きなんですか?」

「実は自分も読書は嗜む程度で。けど朝日奈先生の作品はよく読みます。最新刊の『暁の瞳』は良かったですよ」


 不意に彼の口から先日読んだばかりの小説の名前が出て、思わず話に食いついた。


「確か恋愛ものでしたよね。親の決めた許嫁と結婚した後に女郎屋の女性を好きになってしまう話。最後は女性が相手を振って自殺する悲しいお話」

「読み終わった後に良くも悪くも心に残る話でしたよね」

「女性が言った『あんたはわっちの瞳が黒じゃなくとも、たんと愛してくれた。わっちはそれだけで十分幸せだ』って台詞と『わっちは幸せなままで死ねて、最後まで幸せなやつだ』って台詞がとてもよかったわ」

「ああ、その台詞よかった。彼女が彼の幸せを願うところもよかったと思う」

「お互いを愛していて、相手のことを思うことができる恋って素敵だなて思うわ」


 わたしは無意識に声を弾ませていたようで、彼はそんなわたしを見て細めた目に笑みを浮かべていた。

 わたしたちは小説の感想を語り合った。気づいた時にはもうパーティーも終わりに近づいていて、二人で本の話をして夜を過ごしてしまった。けれどあれだけでは語り尽くせないくらいに時間が短く感じ、ここまで時間が早く進んで感じたのは久しぶりだった。


 母と共に屋敷へ戻ったのは日付の変わる少し前だった。それぞれ自室へと戻り着替えを済ませる。

 わたしは着替える前に一度鏡の前に立った。久世さんの言った通り、ドレスはわたしには似合っていない。

 

 背中にある紐を解き、ドレスを脱いだ。徐々に肌が露わになっていく。鏡に映ったわたしの腹部にはいくつもの赤い後が残ったままだ。

 これは昨日できた。これもそう。これはその前にできた。

 そこまで細かく言えるほどに、無数に残る傷のことをわたしは覚えていた。

 全て父につけられたものだ。母はこれを知っていて何も言わない。否、言えないのだろう。


 小さい頃からずっと父につけられてきた傷はどれも見えないところにある。腹部以外にも背中の下だったり、足の付け根側だったり。衣装によっては見えてしまうけれど、それこそドレスなどを決めているのはこのことを知っている人物なのでうまく隠れる形のものを選んでくる。全てを脱いでしまわない限り、誰かに見られることはない。


 ブラウスに着替えていると階下から重たいものが倒れるような鈍く大きな音が聞こえた。わたしは慌てて着替えを終わらせ、音のした部屋へと急いだ。

 一階に下り廊下を見渡すとひとつだけ扉が開け放たれている部屋があった。中からは明かりが漏れている。

 わたしは足音を立てないように気をつけながら部屋の前まで行くと、壁際からゆっくりと中を覗き込んだ。

 中には仁王立ちをしている父と床にへたり込む母がいた。わたしは思わず後ずさる。その瞬間、開いていた扉に身体が当たり音を立てた。その音に父が振り返りわたしと目が合う。その瞬間、わたしはどうにも動けなくなった。

 手を振り上げるその姿が部屋の明かりで黒い影として目に映る。その手が勢いよく振り下ろされた瞬間、わたしは恐怖で目を閉じた。そこからはいつもと同じだった。

 身体にまた一つ二つと傷が増える。見えないところに少しずつ、確実に。






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