❤(完)

 仕事の帰りに、酒々井さんが病院から勝手に抜け出したという連絡があった。


 実は数日前、酒々井さんはいいね!欠乏症になってしまい、入院することになった。かなりひどい容体で、見舞いに行ってもほとんど会話さえしないような状態だった。

 

 本当に迂闊だったと思ってる。もう少し頭を働かせていたら、その可能性を想定できたはずだった。でも僕は浮かれていたんだろう。


 直接的な原因は、あのファンレターで送られてた大量の《いいね!》だった。

 酒々井さんは有名になったことで、今まで触れたことがないほど大量の《いいね!》を摂取した。それが酒々井さんの承認欲求を急激に肥大させたのだ。そして、活動をやめたことで、《いいね!》が不足するようになった。

 ぼくは酒々井さんの様子がそんな風に変わったとは思ってもいなかった。でも実際は、彼女のことをきちんと見ていなかったんだ。ぼくが見ていたのは、自分の中で思い描く理想的な彼女だった。

 

 医者が言うには、自分の承認欲求を素直に認められないでいたことが、根本的な要因らしい。酒々井さんは自分の一連の活動を一種の慈善活動のようなものと考えてしまっていた。だからこそ、多くの人たちから注目され、《いいね!》を送られても、自分は認められたいと思ってもいないようなふりをした。心の奥底では高まっていた承認欲求を抑え込みすぎて、こじらせてしまった。

 もしかしたらその態度は、ぼくに対して理想的な姿を見せたいという思いがあったためかもしれない。そしてぼくは、彼女のその表面的な振る舞いに満足し、納得してしまった。


 ぼくは大急ぎで酒々井さんを探すことにした。酒々井さん本人にも、彼女の友人にも、連絡は繋がらなかった。

 酒々井さんの自宅に行ったけど、鍵が開いていて、中には誰もいなかった。

 それでぼくは、自分の家に向かうことにした。酒々井さんには合鍵を渡していたから、もしかしたら、ここに置いていた鍵を取りに来たのかもしれない。

 

 家について、そのまま入口のドアノブをひねった。鍵が開いている。奥に進むと、酒々井さんの声が聞こえた。それと、何か変な音もする。 

 

 部屋には確かに酒々井さんがいた。彼女はうつろな目をして何かを呟いている。そして、包丁でハートマークを床に刻んでいた。手のひらくらいの大きさのハートを何個も、何個も、だ。


「島崎くん……」


目が合って、一言だけ呟いた。だけどすぐに、顔を下に向けて床を削り始めた。


「酒々井さん、そんな……!」


 その様子が恐ろしくて、ぼくはゆっくりと彼女に近づいた。酒々井さんの足元に何かが落ちていることに気づいた。それは小さなビニール袋だった。袋の印字には、見覚えがあった。それは《いいれ!》だった。以前売りつけられそうになった、《いいね!》のまがい物じゃないか……。袋に入っているうちの半分くらいが、使用済みだった。


「これは……」


 ぼくは急いで携帯電話を取り出し、「119」を押して救急車を呼ぼうとした。オペレーターにはすぐにつながった。


「返して!」


 オペレーターにこちらの状況を伝えようとしたとき、酒々井さんが飛びかかってきた。


「だめだ! いま救急車を呼ぶからおとなしくするんだ!」


 ものすごい力で手に持った袋を奪い取ろうとしている。

 だけど渡すわけにはいかない。しばらく抵抗するうち、何か温かいものが腕をつたっているのに気づいた。ぼくの首元から流れ出た血だった。


 体の力が抜けて、立っていられなくなった。

 目の前の酒々井さんが、呆然と立ち尽くしている。赤い包丁を持つ手が震えている。その目にはわずかに正気が戻っているように見えて、少し安心した。

 

 携帯から救急隊員と思しき声が聞こえるけど、何を言っているのかもうよく分からない。

 視界が霞んできた。床に刻まれたハートマークが、ぼくの血で赤く色づいているのが見えた。

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