❤❤

 強盗に襲われた翌日。この日起こったことは今でも印象深く覚えている。

 目が覚めたあと病院で診てもらった。結果、脳にも骨にも異常は無いということだった。とはいえ、大きなこぶが頭にできてしまい、それを覆うため包帯でぐるぐる巻きにした姿は、まるで重症患者のようだった。

 

 その後警察に連絡をして、諸々のやり取りを終えた。強盗傷害事件ということで、現場検証にけっこう長く時間を取られてしまった。その日はせっかくの休日だったけど、朝から大変だな、と思った。


 医者からは安静にしていろと言われたけど、気づけばぼくは外を歩いていた。荒らされた家の中にいたら堪えられなかったと思う。

 あちこち歩き回って疲れたから、公園のベンチに座って休むことにした。ベンチに腰かけて、これからどうしようと何度もため息をついていたんだ。

 それで、気持ちが少し落ち着いてきて、代わりに後頭部の鈍い痛みが主張してくるようになったときだったと思う。


「なんだか浮かない顔してますね」


 そう声をかけられて隣を見たら、一人の女性が座っているのに気づいた。その女性はパンの耳を野生のハトに与えていた。一体いつからそこにいたんだろう? ぼくが色々考え込みすぎていて、気づかなかったのだろうか。


「あ、もしかして……!」


 ぼくがぼんやりしていたら、女性はそう言いながら、まるで忍者が印を結ぶかのように両手を何やらせわしく動かし始めた。


「えっと……なんでしょうか?」


 ぼくはその動きが何を意味しているのか分からず、とりあえずこちらからも声をかけてみた。


「なかなか返事をしないので、耳をやられたのかと思ったんですけど……ほら、その包帯ですよ」


 ぼくは自分の頭に手をやった。どうやら包帯を巻いた頭を見て言っているらしい。


「ああすみません、ちょっと強盗に遭いまして……」


「よかった、ちゃんと聞こえてるんですね。わたし、手話は分からないのでどうしようかと思いましたよ」


「さっき動きは手話のつもりですか……。耳じゃなくて後頭部です。そもそも耳は包帯巻いてないじゃないですか」


「なるほど確かにそうですね」


 女性は納得した様子で、ハトの群れにパンの耳を放りなげた。そして急に手を止めて、こちらに向かって驚いた様子で尋ねた。


「え? 強盗って本当ですか?」


「そうですよ。さらっと話を流されたかと思いましたよ」


 この妙に噛み合わない会話が、ぼくと酒々井透子しすいとうこさんの最初の出会いだった。

 ぼくは簡潔に事情を説明した。このとき酒々井さんは、ハトにエサをやりながら適当に相槌を打って聞いていた。あんまりぼくの話に真剣になられてもかえって話しづらかったから、このくらいの方がなんだか気楽だった。


「それはお気の毒でしたね。よければこれ、どうぞ」


 酒々井さんは、そう言って《いいね!》をぼくに差し出してきた。

 驚きだった。これが不足しているために、ぼくは強盗に遭ったくらいだというのに、あっけなく《いいね!》を渡そうとしているのだ。一体どれほどのお金を取るつもりなのだろうと思った。


「あれ、いらないんですか? 別に見返りなんて要求しませんよ」


 酒々井さんは確かにそう言った。ぼくは呆気に取られていた。


「でもこれ……本物の《いいね!》ですよ……? すごく貴重じゃないですか。もしかして、大量に《いいね!》を持ってたりするんですか?」


「全然持ってないですよ。あなたに渡した分でなくなっちゃいますね」


「じゃあ、どうして」


「だってあなた、《いいね!》がなくてすごく大変そうじゃないですか。わたしの方は気にしなくても大丈夫です」


「あ、ありがとうございます……正直なところ、助かります……」


「いえいえ、どういたしまして」

  

 酒々井さんがどういたしましてと言ったとき、ぼくらの足元に一匹の野良猫が来ていた。彼女は地面にかがんで猫に近づき、パンの耳を手渡しで食べさせ、よしよしと言いながら猫の横腹を撫ぜていた。

 猫がもう十分満足したのか、急にそっぽを向いて離れていくと、酒々井さんの手には……さっきまで猫を撫でていた手には、光り輝く《いいね!》があった。


「え? それって……」


 驚きのあまり言葉が続かなかった。酒々井さんは、口をぽかんと開けたぼくをちらりと横目に見て、すぐに自分の光る手元に視線を戻した。


「まずは与えてみるんです。小さなことでいいから」


 そうつぶやいて、「はいどうぞ」とその《いいね!》をぼくの方に差し出した。ぼくは思わず手に取った。


「一体これは、どういうことなんですか……?」


「せっかくですから、それも差し上げます」


「いえ、そういうことじゃなくて。《いいね!》を生み出せるんですか?」


 ぼくの質問に、酒々井さんはこう答えた。


「生み出すもなにも、《いいね!》は与えるものじゃないですか」


 酒々井さんが言うには、《いいね!》は、まず与えるところから始まるのだ。むしろ、求めれば求めるほど手に入らなくなる。

 彼女は、こうやって何度も人に《いいね!》を与え続けているうち、いつしか自然と《いいね!》を生み出せるようになったらしい。

 酒々井さんは、この行動になにか特別な思想や理念を持っているわけではなかった。そういう哲学めいたものというより、彼女のそれは、ほとんど自然に身についた生活習慣のようなものだった。だけど、これほど《いいね!》が不足した状況でもその習慣を維持しつづけたところが、彼女の特殊性だと思った。


 ぼくはすぐに自分がやるべきことを理解した。

 自分がウェブライターとして働いていることを酒々井さんに伝え、ぜひあなたについて記事を書きたいと申し出た。

 急な申し出に酒々井さんは困惑していたけど、その日は連絡先を交換して、後々何度かやり取りをする中で、彼女は引き受けてくれた。

 ただ、今思うと、ぼくはもう少し慎重にことを進めるべきだったかもしれない……。


 頭の怪我が完全に治りきる前に職場に復帰したぼくは、宮根さんに酒々井さんの件を説明し、これで特集を組みたいと言った。宮根さんは《いいね!》を与える酒々井さんに興味を示してくれた。ただ宮根さんは、特定の分野で知名度があるわけでもない無名の一般人を記事として特集するのは難しいのではないか、と懸念もしていた。


「だったらこれから有名にしませんか。ぼくらが先陣を切って彼女を紹介していくんです」


 ぼくは柄にもなく大きく出た。別に、酒々井さんのことを大々的に特集して全国に啓蒙を促せる自信があるわけでもなかった。だけど、少しでも現状の鬱屈した空気を変えるために、彼女について書くことは意義があると思っていた。


 ぼくの意見を聞いて、宮根さんは許可を出してくれた。

 そしてぼくは記事を書いた。内容は、酒々井さんと、若年層に知名度のある社会学者との対談という形をとった。

 結果としてこれは上手くいった。酒々井さんの言う「《いいね!》は与えるものです」というフレーズが響いたのだろうか、記事は、投稿されてから順調に注目を集めていった。酒々井さんも、注目されて恥ずかしいと言いつつも、どこか嬉しそうにしていた。

 それでぼくらは第二弾を打ち出した。前回と同じ社会学者を呼び、対談形式で話をさせた。だけど第二弾は、その様子を動画で撮影することにして、記事だけじゃなく、動画でもその様子を公開した。

 

 ありがたいことに、予想以上の結果になった。対談の内容は、何か深遠なメッセージがあるわけでもなかった。酒々井さんの考えに対して、社会学者は難しそうな専門用語を交えた解釈を雄弁に語り、酒々井さんは苦笑いで「難しすぎてよく分かりません」と言ったほどだ。どうにも締まりのない雰囲気だったけど、だからこそウケたらしい。彼女の不思議な魅力が伝わったのか、動画は多くの再生を集め、さらに驚くことに、地元テレビ局からのオファーがあった。


 それから酒々井さんは、最初のテレビ出演を発端として、話題が話題を呼び、気が付けば注目の人になっていた。新聞や週刊誌から取材を受けたり、講演に呼ばれることさえあった。

 自分できっかけを作っておいてこんなことを言うのもおかしいけど、なんだか酒々井さんが遠い存在になってしまったような気がして、少し複雑な気持ちがあった。酒々井さんへの恋心を自覚したのはこの頃だった。


 酒々井さんとぼくは、友人としてたびたび連絡を取り合っていた。どうにも、酒々井さんのもとには応援のメッセージが大量に届くようになったらしい。彼女はそのファンレターに《いいね!》が添付されていることを少し恥ずかしそうに語っていた。ぼくが酒々井さんと最初に出会った日、彼女は「まずは与えてみるんです」と口にしていた。その言葉通り、《いいね!》を分け与える人が出てきたのだ。ファンレターには、《いいね!》を人に与えることで、不思議と肥大しすぎた承認欲求が抑えられたという報告がいくつもあった。

 

 ある日、ぼくは思い切って酒々井さんに告白をした。自分の恋人になってほしいと思いの丈を伝えた。決して、彼女が有名人の仲間入りをしたのを見て、取り入りたいと思ったわけじゃない。むしろ、有名になっても以前と同じように着飾らない振る舞いをする彼女が、ぼくには輝かしく見えた。

 酒々井さんは、少しだけ驚いたあと、笑顔で「はい」と答えてくれた。

  

 ここからぼくは彼女の活動をサポートするようになった。

 ウェブライターとしての仕事の傍ら、酒々井さんの講演用の資料をまとめたり、移動や宿泊の手配をしたり、まるでマネージャーのようだった。

 酒々井さんも本業と兼ねつつ活動していたので、二人ともこの時期はとても忙しかった。だけど同時に充実していた。酒々井さんのように《いいね!》を人に与える行いが、ブームになっていったのだ。ファンレターの数もずいぶんと増えてきていた。


 多忙を極めたころ、酒々井さんは思い切って活動をやめようと言った。もう後は、自分たちは必要ないだろうということだった。実際この頃から、ブームのおかげで《いいね!》の需要が落ち着き、少しづつ社会には余裕が生まれ始めていた。あとはみんなが自主的に上手くやっていく、旗振り役がいなくても、と言っていた。

 それで、もう《いいね!》に関して情報を発信することはやめにした。


 ここまでは、何もかもが上手くいっていた。ぼくも酒々井さんが活躍する様子を見れて、とても幸せだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る