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「島崎くん、さっきメールで送ったデータだけど、チェックまだ?」
「あ、すみません、まだです。すぐ確認します」
上司の宮根さんに言われて受信トレイを確認すると、次に載せる予定の記事の下書きデータが送られていた。別の仕事に頭を悩ませてたから、すっかり対応するのを忘れていた。
ぼくの会社は、ウェブマガジンを運営している。いわゆるオウンドメディアってやつだ。幅広いジャンルのニュースを取り扱ってて、ネット上で話題になったあれこれについて情報を集めたり、専門家や有名人にインタビューしたりして、みんなが注目を集めそうな記事を掲載する。最近はそうでもないけど、本来はあんまり堅苦しい記事は扱わない。
やっぱり今話題になるのは、《いいね!》不足に関するニュースだ。宮根さんから送られた記事データも、そのことに関してのものだった。
「バングラデシュの《いいね!》生産工場で崩落事故……か。また嫌な知らせだなあ……」
途上国の《いいね!》生産工場で起きた事故についてだった。設備点検が行き届いておらず、天井が崩落して多数の死者が出たらしい。しかも調査の結果、違法な児童労働が行われていたことも発覚したとか。
《いいね!》に関する記事は多くのページビューを獲得してくれる。もっとも、そのほとんどが良いニュースじゃないんだけど、得てして悪いニュースほど注目を集めて、早く広まる。たとえば、《いいね!》を買い占めていた富裕層の自宅が強盗に遭ったこととか(犯行グループはその様子をSNSに投稿して《いいね!》を集めていたため、あっさり捕まった)、違法な方法で製造された《いいね!》のまがい物がネットで取引されていることとかだ。
「宮根さん、内容確認しました。問題ありません」
しばらくして下書きの校正が終わったので、宮根さんに報告しに行った。
「ありがとう、島崎くん。またわたしの方でも見ておくね。ところでこの前言った特集の件だけど、何かいい案は出た?」
「すみません、色々考えてはいるんですけど……まだちょっと、まとまってなくって……」
ばつの悪い返事をした。
ぼくは今、ある特集記事の立案を任されている。テーマは、『この《いいね!》不足時代をどう生きればよいか?』だ。聞こえはいいけど、一つの記事として体裁を整えられそうな情報を集めるのは簡単じゃなかった。もう少し切り口を狭くしてほしいところだった。
科学的根拠が疑わしい植物性の薬品を《いいね!》の代わりにするセラピーの講師とか、《いいね!》が豊富にあるユートピアの存在を
一方で正確な知識を持った専門家は、こういうご時世だととりわけ慎重に発言するから、彼らを相手にするとなると、あまりにもお堅い記事になってしまう。
この日はもう仕事を終えることにした。いつもより少し早い帰宅になりそうだった。
会社を出ると雨が降っていたけど、傘を持ってなかったから、近くのコンビニに濡れないよう急いで駆け込んだ。店員は一週間前より不愛想になっていて、品ぞろえも心なしか悪くなっていたけど、傘は買うことができた。
バス停まで歩いていた途中、駅前の方に視線を向けると、みすぼらしい格好の男が床に座り込んでいるのが見えた。その男は、しきりに何かを呟きながら小石で地面を引っ掻いていた。その動作から、ただのホームレスとは違うことが分かった。
彼は《失望者》なのだろう。《失望者》というのは、元はネット上のスラングだったんだけど、いつしか一般に広まるようになった。《いいね!》を摂取できず失望してしまった状態。いいね!欠乏症を患いながら、医療機関を利用するお金がないと、そういう状態になることがある。
男が石でコンクリートの床を白く削って描いていたのは、ハートマークだった。マークの隣には缶が置いてあって、空っぽだった。そこに《いいね!》を入れる余裕なんて誰も持ってないんだろう。みんな素通りしていた。若い女性が彼をスマートフォンで撮影したのを除いて……。
ぼくは先週からすでに三人ほど《失望者》見ているけど、空っぽじゃない缶を見たことがなかった。ぼくは生来の倹約家だったから、他の人より《いいね!》に余裕がある方なんだけど、さすがに無条件でそれを他人に分け与えられるほどの優しさはなかった。ぼくも素通りすることにした。傘を打つ雨音が、やけに大きく聞こえた気がした。
バス停に着いて次のバスを待っていると、不意に、隣にいた若い男から声をかけられた。
「なああんた、ずいぶん悩んでるように見えるけど、大丈夫かい?」
赤の他人から、急にそんな心配をされると思わなかったから、一瞬戸惑った。それに、このご時世に他人を心配して声をかける親切心がまだ残ってることに驚いた(すぐに勘違いだと分かったけど)。
「……そんなに悩んでるように見えます?」
「あんたも《いいね!》が足りてないんだろ? なあほら、今なら安くしてやるから、よかったらこれ買わないか?」
男はそう言って懐から何かを取り出した。《いいね!》を路上で売るやつなんて今まで見たことがない。だけどよく見るとそれは、《いいね!》じゃなかった。
「これ……《いいね!》じゃなくて《いいれ!》じゃないか! ふざけてるのか!」
一文字違うだけで大違いだ。これが噂に聞いていた、《いいね!》のまがい物というやつなのか。
男はぼくを騙せなかったと分かると、すぐにどこかへ退散した。これは法律的に問題はないのだろうかと思ったけど、いちいち調べたり警察に相談するのも面倒だから放っておいた。
よくよく思い返せば、男はあれを《いいね!》だとは一言も言わなかった。なるほどそういう手法なのか。しかし、あれを気づかずに買って、もしそのまま摂取したらどうなるのだろう? あまり考えたくはなかった。
ともかくバスが到着したので、傘をたたんで乗車することにした。今では当たり前の光景になったけど、乗客のほとんどは何か思いつめたような表情をしていた。間違いなく《いいね!》が足りていないんだ。ぼくを含めてまだ深刻じゃない人たちも、どこか陰りのある空気をまとっている気がする。あと一か月や二か月たったらどんな光景になっているのか……。これもまた考えたくないことだった。
「あれ?」
家に着いて異常に気づいたのは、鍵を開けた時だった。正確に言うと、鍵は開けられなかった。すでに開いていたのだ。
朝、家を出るときには確実に鍵を閉めたはずだ。そう思いながらゆっくりと扉を開けて中に入った。嫌な予感は確信に変わった。容赦なく荒らされた部屋を見て、空き巣に入られたことが分かった。言葉が出なかった。
焦りながら、一体何が盗まれたのか確かめようとした。もっともこれは間違いで、本当はすぐに部屋を出て警察に連絡するべきだったんだ……。
そもそも盗まれるほど高価なものなんて部屋に置いていないはず……そう思ったけど、一つだけ思い当たった。ぼくは引き出しの奥に隠しておいた小さな箱を探した。
「よかった……。あった……」
無事見つかった箱を開けて、念のため中身を確認した。ずいぶん前から貯めこんでいた《いいね!》を、その箱の中に保管していたのだ。中身も盗まれておらず、安心した。少しだけ落ち着いて、警察に連絡しようと思いスマートフォンを取り出したタイミングで、後頭部に鋭い痛みが走った。
ぼくは床に倒れ込んだ。視界がぼんやりとする中、声が聞こえた。
「悪いな」
何が起こったか分からないまま、意識を失った。
目を覚ましたのは次の日の夜明け頃だった。柔らかな光が部屋に差し込む中、うすぼんやりとした頭で事情を理解した。どうやらぼくが部屋に入ったとき、空き巣の犯人もまだ中にいたらしい(風呂場にでも隠れてたのだろうか)。
そいつはぼくが《いいね!》の詰まった箱を取り出すのを見て、さらなる犯行に及ぶ決心をしたみたいだ。箱は無くなっていた。
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