第4話

ところで、斯く言う彼女は何を読んでいたのだろう?

私は机の上にある彼女の読みかけの本の中身を少しだけ覗かして貰った。

見たことない単位や文字が織り交ぜられた謎の公式。理解不能な用語の群れ。たった1ページを覗いただけでも気が遠くなりそうだ。

一体、何の本なのだろうか? そう思い本をひっくり返して表紙を見た。

『特殊相対性理論による絶対座標系の否定』

表紙には大きくそう書かれていた。如何にも難しそうな本のタイトルだ。

「エーデルも特殊相対性理論に興味があるの?」

遠くから声がした。どうやら、見られていたらしい。

当然、彼女の問には首を横に振って否定した。

「そっか・・・。でも、面白いから気が向いた時に読んでみるといいわ」

彼女が笑顔でそう言ってきたので愛想笑いでごまかしながら適当な返事をした。

多分、一生この本に気が向くことはないだろう。

それから、十分程経った後にようやくフランツィスカが戻ってきた。

今度は一冊ではなく五冊も本を抱えている。


「さぁ、この中から好きそうなのを選んで!」

彼女はそう言って持っていた五冊の本を得意げに机の上に広げた。

正直な話、これまでの事から考えると彼女が私が読みたくなるような本を持ってくるとは思えない。なぜなら、私はこの歳になっても普通の本より絵本の方が好きだから。

それでも、彼女が勧める本を全て断っていると角が立つので仕方なく彼女が持ってきた本のタイトルを見る。

『ファーブル昆虫記2・狩りをする蜂』、『動的平衡・なぜ生命はそこに宿るのか』、『ハッブル宇宙望遠鏡』、『電気の誕生』、『よくわかる物理基礎』

これが5つのタイトルだ。蜂は嫌いだし物理の勉強はしたくない。

となると、『ハッブル宇宙望遠鏡』あたりがマシだろうか。どうせ、難しそうな事が書いてあるのだろうが。

私は『ハッブル宇宙望遠鏡』という本を手に取りページを開いた。そこには予想通り難しい事が書いてあったが、隣のページに緑色のオーロラを纏った星の綺麗な写真が大きく載っていた。

次のページをめくると同じ様に難しい文章と共に綺麗な写真が載っている。次のページもそのまた次のページも。この本に載っている星の写真はどれも綺麗で幻想的なもので、私はつい目を奪われてしまった

「気に入ってくれたみたいね」フランツィスカはそんな私を見て満足げに言った。

私は黙って頷きそれを肯定した。気に入ったのは文章ではなく写真の方だが。

「さぁ、座ってゆっくり読んで」フランツィスカはそう言って席を1つ出し、私を自分とは対面の席に座らせた。そして、彼女自身は例の難しい本を読むのを再開した。

お互い向かい合って本を読むと中々に気まずいものがある。しかし、彼女はそんな事は全く気にする素振りもなく憂いた様な目で文字をなぞっている。

何か話し掛けたい所だが、どうも話し掛けられる雰囲気ではない。

私は諦めてチャミと一緒に星々の綺麗な写真を眺める事にした。

しかし、写真を眺めているだけではすぐに本を終えてしまうので分からないなりにも一応、付属の文章も読むことにする。ある程度、本を読み進めたところでふと時計を見ると1時間目の終わりの時間が近付いていた。


それでも、フランツィスカは微動だにしない。きっと、2時間目もここにいるつもりなのだろう。

1時間目の終わりのチャイムが鳴ると、さっきまで完全に本の世界に吸い込まれていたフランツィスカは突然本を読むのを止めて私の方に顔を向けた。

「エーデルは2時間目もここにいる?」そして、彼女はそう聞いてきた。

「そのつもり」私が答えると彼女はとても嬉しそうな表情を見せた。

「賢明な判断だと思うわ。最初の1年って殆どが小学校の復習で最高につまらないのよね。絶対、図書室で本を読んでいた方が良いわ」

彼女は涼しい顔でそんな事を口にした。

最初の1年? どうやら、彼女は私を1年生だと思っていたらしい。

「私、2年生・・・・」少し言いづらい感じではあったが1年生とは思われたくなかったので勇気を出して口にした。すると、彼女は少し申し訳なさそうな顔をした。

「あら、ごめんね。エーデルってなんかあどけない感じが残ってるから、つい1年生かと思っちゃった」謝っているのか、貶されているのか正直分からない。

「あ、ちなみに私は4年生ね。どっちにしろエーデルの先輩だけど、呼び方はフランで大丈夫だから」彼女が言った。

フランツィスカは私の知っている先輩像とは大きく違っていた。先輩というのは後輩に威張り散らし、呼び捨てなど言語道断の存在だと思っていた。現に私は3年生に先輩だからと言って酷い目に合わされた事がある。

それを考えるとやはりフランツィスカは頭も良いし出来た人間に思う。

きっと、育ちもいいのだろう。


それから、私とフランツィスカは時々会話を交えながら図書館で時間を過ごした。

この彼女と過ごした時間は私にとって特別なものだった。なにしろ、彼女は学校の中で初めて私と普通に接してくれた生徒なのだから。

しかし、満たされた時間は長くは続かない。2時間目の終わりの時間が刻一刻と近付いていた。これ以上、ここに居座っていると休み時間になりクラスの人間と鉢合わせしてしまう可能性がかなり高くなる。どうしても、それだけは避けたい。私は名残惜しいがフランツィスカと別れなければならなかった。


私は本を閉じ、席を立った。

「あっ、あの・・・私、もう行かなきゃ」

そして、そう言った。すると、それを聞いた彼女はとても驚いた顔をした。

「もしかして、教室に戻るの!?」彼女は机から身を乗り出し今までにはない強い口調で私に聞いてきた。

そうじゃない、そうじゃない。私は首を横に激しく振って否定した。

「なら、どうして?」彼女は言った。

単純に言ってしまえばクラスの人間に会えば虐められてしまうからだ。しかし、今日初めて逢った人にそんな自分の惨めなところは知られたくない。

「わっ、私。レストランの手伝いをしていて、もう行かないといけない時間なの」

私は咄嗟に嘘を言った。本当は休みになったから学校に来たというのに。


「エーデルってもう働いてるの!?」

彼女は図書室中に響き渡るほどの大きな声を出した。

「働いてるってそんな大層な事じゃなくて、本当に少しのお手伝いくらいだよ。お皿を洗ったり、机を拭いたり、おしぼり作ったり、注文を聞いたり・・・・」

私は正直に白状した。なにを隠そう料理の1つも作れないのだ。

以前、おじさんにスープの1つでも作ってみないかと勧められたので、コーンスープを作って飲んで貰ったのだが、おじさんはそれを飲んだ直後に乾いた笑顔を私に向け、それ以来私に料理を作ることを無理に勧めなくなった。

私的にはレシピ通り作った筈なのだが・・・・。

「いやいや、それも立派な仕事じゃない。その年で学校に行かないで働いてるなんてエーデルすごいわ。やっぱり、他の学校の人間とは違う」彼女は目を輝かせながら言った。

完全に私を買い被っている。私はそんな立派なものじゃない。

「決めた、エーデル。私と友達になりましょう。ね、いいでしょ?」

彼女はそう言って手を差し伸べ握手を求めてきた。


私はあまりにも突然の出来事に息が止まりそうになった。なにせ、こんな事を言われたのは十一年の人生の中で初めてだからだ。

「私なんかでいいの!?」私はつい大きな声を出してしまった。

「もちろんよ。むしろ、あなただからいいのよ!」フランツィスカが言った。

「ほ、本当に本当?」

「本当に本当よ、エーデルは私の友人にふさわしいわ」

彼女は私に微笑みかけそう言った。

私は彼女が差し伸べた手にゆっくりと自分の手を近付けた。

すると、彼女は私が近付けた手を半ば強引に掴み握手を成立させた。


「これで私たち今日から友達ね。よろしく、エーデル」

彼女は確かにそう言った。私を友達と。

私の心を幸せが包んでいくのを感じた。

私は嬉しすぎて、なんと言い返していいか分からずただ頷いた。

彼女はそんな私を見て少し微笑んだ。

「それじゃあ、エーデル。お仕事頑張って来てね」

その後、彼女はそう言ってゆっくりと握っていた手を離した。

彼女の手が離れると、私の手の中に不思議な喪失感が残った。

今度はいつ会えるかな? 私は勇気を振り絞りそう云うつもりだった。



しかし、私が言葉を紡ぐより先に彼女は私が今まさに口にしようとしていた言葉を口ずさんだ。正直、驚いた。

彼女の言葉を耳にした途端に手に残った不思議な喪失感は消え失せた。

この子は本当に私のことを友達と思ってくれているのかもしれない。

多分、先ほどの不思議な喪失感は彼女との関係が今日限りで終わってしまう。そんな恐怖心から来たものだろう。

「きょ、今日は特別でいつもは午前中からお手伝いしているからお店に来てもらわないと・・・・・」私は彼女の問いにそう答えた。

いや、そう答えざるを得なかった。暇を貰わなければ学校には行かないし、お店が閉まる頃の夜8時に呼び出すのは不躾だと思ったからだ。

「その年で午前中から仕事なんて本当に大変ね。尊敬に値するわ」

彼女は頬に左手を当てながらそう呟いた。

「とにかく分かったわ。なんて名前のお店?」

それから、間髪入れずに彼女はそう聞いてきた。これは私の個人的な感覚だが、彼女は話のペースがとても早い。

「えっと、ドルチェってお店で・・・・」

私が店名を告げ場所を教えようとすると彼女はそれを遮るように服のポケットから四角い端末を取り出し、その端末を弄り始めた。

「はい、ここでしょ」

彼女は少し得意そうに言って、端末に映った地図を見せてきた。

確かにその地図の中心は私が手伝いをしているお店を指していた。

「すごい」私は素直な感想を述べた。

「まぁね。一応、先週出たばかりの端末だし通信速度はピカイチよ」

私は機械に『すごい』と言ったのではなく彼女自身に『すごい』と言ったつもりだったのだが、どうやら言葉足らずで伝わらなかったらしい。

「場所も分かったから、今日の放課後お邪魔させて貰うわ」

彼女は続けざまにそう言った。

しかし、それはまずい。早速、嘘がバレてしまう。

「えっと、・・・・今日はずっとお店の厨房とかおトイレとかの掃除をしているから今日以外でいい?」私はそう言った。

「・・・・そう残念ね。それじゃあ、明日お邪魔するわ」

彼女は少しも疑う様子もなく予定をずらしてくれた。それを確認した私はひとまず安心してふと時計に目を向けた。



時間は2限目が終わる2分前を丁度過ぎた所だった。今まで幸せに満たされていた気持ちに一気に暗雲が立ち込めた。走っても間に合うかどうか微妙な時間だ。

「ごめん、もう行かなきゃ」私は彼女にそう告げ、読んでいた本を片付ける事もせず走って図書室を飛び出した。その時から心臓が嫌というほど高鳴っていた。


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