第3話
それから、私は歩くペースを元に戻しゆっくりと学校に向かった。街の時計で確認したところ時間は9時を少し過ぎておりバッチリ1時間目の授業が始まっている。
この時間ならクラスの人間には会わなくて済みそうだ。
そんな事を考えながら歩いているうちに学校の正門の前に辿り着いた。
さて、学校に来るのは何ヶ月ぶりだろうか。私は久しぶりに学校の敷地内に足を踏み入れた。相変わらず無駄に大きい校舎が見える。
そんな校舎を見ていると、ここに来て少し気が重くなってきた。
学校に私の居場所はない。この場所には苦しい思い出しかないのだ。
しかし、ここまで来て引き返す事は出来ない。
もし、ここで引き返せば無駄にドーベルマンに追い回された事になってしまう。
私はため息をつき渋々と昇降口に吸い込まれていった。
どうせ、クラスの人間には会わない。そう自分に言い聞かせ、靴を履き替えるためにロッカーの一つに手を掛けた。
ちなみに、このロッカーに鍵は付いていない。
私がロッカーを開けると、そこには校舎用の靴が入っていた。
いや、違う。靴だったもの。今は靴ではない。
私は自分の目を疑いたくなった。
私の校舎用の靴は無残に引き裂かれ、最早靴としての役目を果たすことが出来なくなっていた。おまけに赤いマジックで酷い落書きをされている。
のろま、貧乏人、死ね、バイ菌、泣き虫、死ね、意気地なし、穢れし者、馬鹿、呪われた子供、臭い、消えろ、死ね・・・・・
読める文字だけ見てもこれだけ大量の悪口が書かれている。息が詰まる。
これがどうしようもない私の現実なのだ。気の弱い私は言い返すこともできず、半年間ずるずるとこんな事を言われ続け、殴られ、物を隠され、壊された。
その末、学校に行かず近所のレストランの手伝いをするという今の生活に至る。
目の前の破壊された靴は私が虐められてきた象徴なようなものだった。
やはり、無闇に学校に来るべきではなかったのだ。
私は唇を噛み締め、涙を堪えた。泣いても何も解決しないのは分かっている。
しかし、僅かな涙が瞳から溢れ私の頬を伝っていく。
どうして、こんな状況になってしまったのか私にも分からない。確かにのろまで馬鹿で泣き虫だが、なぜ、ここまでの事をされなければならないのだろう・・・・。
この世界は理不尽だ。弱いものばかりが損な目にあう。
嘆いても、嘆いても何も変わらない事は分かっている。しかし、辛いのだ。涙を零さずにはいられないのだ。
私は長い時間その場で立ち止まり涙を流した。
一通り泣き終えると少しだけ気持ちが落ち着いた。
今が授業中で本当に良かったと思う。こんな姿を見られたら余計に虐められてしまう。正直、このまま帰りたい気持ちはかなりあったが、このまま手ぶらで帰れば本当に不幸な目に遭うためだけに学校に来た事になってしまう。
せめて、本の一つでも借りて帰ろう。私はそう決意し廊下へ出た。
ちなみに、授業靴が破壊されてしまったので来客用のスリッパを借りている。
図書室は1階にあり、このまま廊下を直進すればすぐに着くのだが、直進すれば自分のクラスの前を通る事になってしまう。それだけはなんとしても避けたいので私は一度2階に上がり、遠回りする事にした。先生たちに授業時間中に廊下を闊歩している姿を見られたくないので窓付きのドアに差し掛かる度に身を屈めながら進んだ。
廊下を進み、階段を下るとすぐに図書室の前に着いた。
私は何の警戒もなく図書室のドアを開けた。
というのも図書委員のおばさんは私の事情を知っているからだ。
2ヶ月くらい前にも授業時間中に本を借りに来た事があったが、おばさんは私が事情を話すとすんなり本を貸出してくれた。
ドアを開けると、そこには予想外の光景があった。
図書委員のおばさん以外に少女が一人居たのだ。
その少女は茶色の髪で眼鏡を掛けており、知的な雰囲気を漂わせながら分厚い本を目で追っていた。歳は多分私より1つか2つくらい上だろう。
その生徒は私に気が付くと笑顔で私の方に歩み寄ってきた。
「あなたも学校の授業がつまらなくて本を読みに来たの?」
彼女は開口一番にそんな事を言った。
そういう訳ではない。私は首を振って否定した。
「遠慮しなくていいのよ。実際、ドイツの中等教育はレベルが低いわ。もっと、アメリカの様に小さいうちから高度で専門的な教育をするべきなのよ、あなたもそう思うでしょ?」彼女はそう話しながら私の肩を軽く叩いた。
私が返答を渋っていると、彼女は勝手に自己紹介を始めた。
「あっ、ごめんね。いきなり教育の話なんかしちゃって。自己紹介がまだだよね。私はフランツィスカ・ディーゲルマン。あなたは?」
彼女は早々と自己紹介を終えると、今度は私に自己紹介を求めてきた。
「わっ、私はエーデル。エーデル・ヴァイデンヘラー」私は彼女の勢いに押され少し言葉を詰まらせながら言った。
「エーデルちゃんね、よろしく。ところで、その襟の中に入ってる可愛い子は?」
彼女は私の襟元を指差しそう聞いてきた。
「この子はチャミ。私の友達」
私は襟元から顔を出す彼女を見ながらそう答えた。
「チャミちゃんね、こんにちは」
彼女がそう言ってチャミに微笑みかけると、チャミはそれに応えるように低い声で鳴いた。
「猫ちゃんと一緒に学校に来るなんてエーデルって少し変わってるね」
彼女は清々しい顔でそんな事を言って来た。中々、痛いところ突いてくる。
「そういえば、エーデルはどんな本を探しにきたの?」彼女はそう言って横にずらりと並んでいる本棚たちの方に目を向けた。
「とっ、特に決まってないよ・・・・」私は小さくそう言った。
なにしろ、読みたい本があってここに来た訳ではないのだから。
「そう・・・。でも、そんな時ってあるわよね。読みたい本が無くても不思議と図書室に吸い込まれてきちゃうこと」
彼女は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、すぐに気を取り戻し楽しそうに語りだした。
私の勝手な偏見かもしれないが、きっと、フランツィスカは本が大好きなんだろう。
「そうだ。読みたい本が決まってないなら、私が何かオススメしてあげる」
彼女はそう言い残し一人で遠くの本棚に向かって行ってしまった。引き止める理由もオススメを断る理由もないので、とりあえずは待つことにしよう。
果たしてどんな本を持ってきてくれるのか?
5分程経った頃に彼女はようやく戻ってきた。手には少し大きめの本を持っている。
「これなんかどう?」
彼女は持っていた本を半ば強制的に私に手渡した。
タイトルは『星の全て』。星を眺めるのは好きだし、良い本を選んで貰ったかもしれない。私は早速本を開いて読んでみることにした。
目次には『ビッグバンの起源』、『原始惑星形成』、『ケプラーの法則に基づく惑星の振る舞い』『地球の形成・進化』、『超新星爆発による星の消滅』、『ブラックホールの誕生』といういかにも難しそうな題目が並べられている。思っていたのと大分違う・・・。
目次だけ見て本を返す訳にはいかないので、一応、適当なページを開いてみるが完全に想像通りちんぷんかんぷんだ。更に他のページも見てみるが、どこもかしこも難しい言葉ばかりで私には難しすぎる。私は黙って本を閉じた。
「あら、気に入らなかった?」
彼女は残念そうに言った。
「ちょっと、私には難しすぎるかな・・・・」
私が言うと彼女は本を回収しおもむろに適当なページを開いて自分で読み始めた。
「そうかしら?」
彼女がページを読みながら独り言の様に呟いたので、そのページを覗いてみると如何にも難しそうな式がこれでもかと並べてあった。
「分かるの?」率直に疑問に思った。上級生とは言え流石にこんな難しい式が分かる訳が無い。大学生が解いているような難しそうな式だ。
「分かるよ。丁度、ノート持ってきてるし1つ噛み砕いて見せてあげる」
彼女はそう言って自分の居た机に私を連れ込み、ノートに式を写し、それを私の目の前で解き始めた。確かに解けている。いや、正直自分の頭では解けているのかどうかすら分からないが、式を全く理解せず滅茶苦茶に書いているという感じではない。
彼女は3分もしないうちに本に書いてあった式を展開してしまった。
「すごい」素直にそう思った。彼女が最初に『あなたも学校の授業がつまらなくて本を読みに来たの?』と言ったが、確かにこのレベルの式が解けてしまうなら、彼女にとって中学校の授業は簡単すぎてつまらないのかもしれない。
「このくらいちょっと勉強すれば、すぐ分かるようになるわ」彼女は自慢する素振りもなく至って当然の事のように言った。どうやら、彼女は本当に頭が良いらしい。
「とにかく『星の全て』はなしね。別の本を探してくるわ」
彼女はそう言うと再び遠くの本棚の方に行ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます