第2話

アパートを出て寂れた通りを抜けると人通りの多い繁華街に出る。

やはり、近くに人がいるだけで少し安心する。私は安心を噛み締めるようにゆっくりと進むことにした。ゆっくりと歩く私を仕事に向かう大人たちが次々と追い越していく。

こうして見ると朝の街はかなり忙しない。すごいスピードで人が行き交っている。まるで、自分だけスローモーションで動いているようだ。

そんな中、一人の神父らしき男の人がゆっくりと反対側から私の方に歩いてくるのが見えた。顔立ちからヨーロッパ系の人種ではないとすぐに分かった。きっと、アジアの方の人だろう。

そのまますれ違うと思ったが、その男の人は私の前で立ち止まり姿勢を落として私に会釈した。

「おはよう、お嬢ちゃん。君はそんなにゆっくり歩いてていいのかい?急がないと学校に遅刻してしまうよ」男の人は笑顔でそう言い腕時計を見せてきた。

完全に余計なお世話だ。わざと間に合わないようにしているのに。

私が少し困った顔をすると、男の人は私の背中を軽く押し走るように促してきた。

「さぁ、走らないと間に合わないよ」

間に合わなくていいのだ。私は頭の中でそう反論した。

しかし、口に出して反論すると面倒な事になりそうなので適当な返事をして形だけ走ることにした。クラスの人に会ってしまわないか心配だ。



私はある程度直線に進むと本来通るはずのない路地に入り、走るのを止めた。

とりあえず、男の人の視線から外れたのでもう走る必要はない。

私が入った路地は独特の雰囲気があり、少し探検してみたいという気持ちになった。図書室に行くのは急ぎの用事ではないので少しくらい迷ってもいい。そんな軽い気持ちで私は路地を進むことにした。人通りはないが、怖いという気持ちはあまりなかった。

最初の角を曲がると、遠くにまた角が見えた。この路地は想像より長く続くようだ。

私は辺りを見回しながらゆっくりと足を進めていく。次の角を曲がり少し歩くと、ある民家の窓に綺麗な首飾りが飾られているのが目に入った。その首飾りの真ん中には金色の縁に囲まれた緑色の宝石で出来た見事な四葉のクローバーがあった。四葉のクローバーは幸運の象徴。しかし、それがあるのは他所の家の窓の向こう。私のものではない。

ここに来て私は少し憂鬱な気分になった。憎たらしいほどに美しい首飾り。それは私に幸せそうに外食をしている家族を連想させる。私もパパやママと一緒に外食をしてみたい。どこかへ遊びに行きたい。もっと、長い時間話をしていたい。しかし、両親は共に休日もなく働いているのでそんな簡単な願いすら叶わない。そう、目の前の四葉のクローバーの様に近くにあっても届かない願いなのだ。

私はため息をつき、首飾りのある通りを後にした。こんな思いをするなら路地に入らなければ良かった。しかし、後悔をしてももう遅い。


この路地はまだまだ続く。街にこんな所があったなんて。

歩いている途中、襟元に収まっていたチャミが突然横を見ながら毛を逆立て唸りだした。

「どうしたの?」

私はそう聞きながら彼女が見ている方向に視線を移した。

すると、横の道の少し先に大きなドーベルマンが見えた。驚くべきことにそのドーベルマンは首からリードを垂らし放し飼いの状態になっている。嫌な予感がした。

ドーベルマンと私の視線が重なった。その瞬間、伏せをしていたドーベルマンはゆっくりと立ち上がり牙を剥き出しにして低く唸った。そして、ジワジワとしかし確実にこちらの方に迫って来た。

私は息を呑んだ。逃げなくては駄目。私の本能がそう言っている。

ドーベルマンは横の道の先から向かって来ているので、このまま真っ直ぐに走り抜け振り切るしかない。私は前方に向き直り、覚悟を決めて深呼吸をした。

『お願いだから追ってこないで』私は心の中でそう願い一気に走り出した。その瞬間、横の道からけたたましい声を上げながら凄まじい勢いで走ってくるドーベルマンが一瞬だけ見えた。最悪だ。


ドーベルマンは耳を裂くような声を上げながら全速力で私の方に迫ってきている。

しかし、私も負けてはいなかった。私は普段から運動するタイプではなく、足はかなり遅いのだが、今日は自分でも驚く程のスピードが出ている気がする。

それでも犬と人間がかけっこをすれば犬の方が速いに決まっているので、元からあった差はみるみるうちに埋まっていく。

更に最悪な事に走っているうちにだんだんと横腹が痛くなって来た。どんどんとペースが落ちていく。もう限界だ、追いつかれてしまう。私が半ば諦めた瞬間、私が走り抜けて来た道の方から怒鳴ったような声が聞こえた。

「サヴァン、戻れ!」


その声を聞いた途端、ドーベルマンは怯えた仔犬のような声を出して走るのを止め、元来た道を戻って行った。どうやら、飼い主が来たらしい。姿は見えないが大人の声ではない。飼い主が何者なのか、何を思って凶暴なドーベルマンを放し飼いにしていたのか、気になることは山ほどあるが、自分からドーベルマンの方に向かいたくはなかったので戻ることはせず先を進むことにした。



私は今まで犬派でも猫派でもなく、どちらも可愛いと思っていたが、この一件で完全に猫派の方に傾いた。犬があんな凶暴な生物だとは知らなかった・・・・。

もうこんな路地はこりごりだ。私は少しでも早くこの路地から抜け出そうと早足になった。探検してみようなんて思わなければ良かった。

残りの道は分岐がなく何も考えずに進むだけで難なく路地を抜ける事が出来た。

路地を出ると見たことのない大通りに出た。とりあえず、辺りを見回してみると反対側の歩道の最果てに学校が見えた。これなら路地に戻らなくて済みそうだ。




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