1-13 尊いもの
幸せは、長く続かない。それをどこかで分かっていたはずなのに、いつしかそれこそが当たり前に存在する毎日であり、むしろ逃げ続ける地獄のような日々はきっと夢だった。流されるような早い時の流れの中で、あっさりと過ぎ去っていく物だから忘れてしまっていた。それがいかに尊く大切な物だったかを。
かすみは毎夜テルのいる倉庫を訪れた。自分の存在を確認するため、そしてご飯を与えるため。食べるものはヒトと同じだ。だからかすみは夕飯を少し残し、布に包んでからそれを持ってきてくれていた。ほとんど動くことなく生活する身にとって、それは充分すぎる量で、むしろ多すぎたくらいだ。
「もっと、食べろ。じゃないと成長しないぞ」
「テルの方が小さいからいいの!私、お姉ちゃんだもん」
かすみにとっては妹扱い。確かにテルもかすみのことを母のように慕い、もしかしたら姉のように想っているかもしれない。いや、実際想っていたのだ。
ネトとヒトという生き物の種族こそ違っても、血の繋がりがそこになくても、テルにとってかすみは何の替え難い、大切な存在だった。
「ここ、狭いよね、ごめんね」
「いいや、そんなことはない。充分さ。狭さなんて気にならない。私はかすみから幸せをもらっている」
本当にこれ以上要らないくらいに。暗い世界から助け出してくれた幼い少女。手に入れた幸せを一つも取りこぼしたくない。種族の垣根を越えてテルはかすみを好いていた。
「なあ。テルってのはどこから名前を付けたんだ?」
テルとかすみは、いつもいろんな話をする。テルが今までどうやって生きてきたのかとか。かすみはそれを上手に理解できてはいなかったみたいだが、ただテルが可哀想だということは分かったらしく、その話をするといつも手を握ってくれたり、頭を撫でてくれたりする。
そうするとテルの中の不安や怖さが無くなっていくのだ。こびりついた恐怖が離れることは決してないが、それでも和らいだ。そしてかすみの話。かすみは一人っ子で、両親に大切に育てられてきたこと。両親はやっぱりネトを捕らえようと必死になっていること。そして、テルのことはもちろん話していないこと。
「ふあ、そろそろ寝なきゃ…おやすみ、テル」
「ああ。おやすみ、かすみ」
そうして話し終えるとかすみが欠伸をしたタイミングで別れになる。眠たそうに目を擦るかすみの頭を今度は私が撫でる。気持ちよさそうに目を細めて、かすみは倉庫を出る。よたよたとした足取りで家の中に戻る姿を私は倉庫の中から見ていた。
だから、だろうか。
明日が当たり前に来るなんて、どこにもそんな保証はないのに。期待した。楽しみにしていた。待っていた。
翌日、倉庫の扉を開けたのはかすみではなかった。かすみによく似た大人のヒトが二人。その姿を見てテルは心臓が早まるのを感じた。まずいということだけはわかる。どうしたらいいか、それは頭で考えるよりも先に身体が動いた。
姿勢を整えて、ぬいぐるみを足場に床を蹴る。二人の間を抜けて、家の中へと侵入する。少女を、かすみを探した。
耳で音を聞く。ヒゲで空気の振動をキャッチする。その気配の方に走った。
ちゃんと覚えているかすみの匂い。テルは少女を探した。
「かすみっ、かすみ!かすみ!!」
探しながら、どうして、とも思った。テルのことをどうして他のヒトが知っていたのだろう。かすみしか知らなかったこと。かすみが言ったのか。
そこで立ち止まる。扉の前。そこからかすみの気配がした。躊躇いもなく扉を開いた。かすみの顔を見たかった。彼女に真実を聞きたかった。
「かすみ!………え?」
確かにそこに少女はいた。けれど、テルの知っている優しい母のイメージであるかすみはそこにいなかった。
床に倒れ込んでいる。倉庫の前で見た、大人のヒトとは別のヒトに押し付けられて。その首元にはナイフがあてがわれていた。
「!娘に何をしている!」
背後から聞こえた怒鳴り声。それは倉庫の入り口で出会った二人のヒトに違いなかった。そして今のはテルに向けて言われた言葉ではない。かすみに向けて、否、かすみにナイフをあてがうヒトに向けて言ったものだと分かった。
「何って、いやいやわかるでしょう?ネトを無断で隠している。これはむしろ罪と言えましょう」
「ふざけるな!悪いのはそのネトだろう!ネトを殺して仕舞えば済む話じゃないか!」
「ネトは殺さない。捕えますよ、勿論。しかしそれとこれとは別なのです」
そこで分かった。違う。かすみが言ったわけじゃないことを。かすみにナイフを向けるそのヒトが、倉庫にテルがいることを突き止めたのだろう。
「ご両親は誘導ご苦労様です。さあ、そこで娘さんが裁かれる瞬間をその目に焼き付けてくださいませ。二度とネトなどを匿ったりしないように」
「いやだっ!かすみ!」
テルはかすみへと必死に手を伸ばした。その手が届く瞬間、体に電撃が走った。それは首輪から伝わるもので、全身を襲う痛みに崩れ落ちた。
「かすみ、っ…だめ、だって、私は…」
何も返せてない。もっとかすみと一緒にいたい。ただそれだけなのに。
「ごめんね、テル…」と。
「生きてね」と。か細い声が聞こえた。それがかすみが口にした最後の言葉だった。おそらくテルの後ろに立っているのはかすみの両親だ。両親に向けた言葉でもなく、出会って間もないテルに向けた言葉。
男はかすみの頭を片手で持ち上げ、剥き出しになった喉に思い切り振り下ろした。赤い口が開いて音を立てて零れ落ちる音。
かすみは痛みの声すら上げることなく、開いた口を、開いたままで、目を開ききったまま、その口はもう二度とテルの名前を呼ぶことはない。その手はもう二度とテルの頭を撫でることはない。
ヒトによってヒトが殺される。
伸ばした手は、届かない。
どうして。
テルは守ると誓ったのだ。かすみを。
なのにどうして。
こんな結末が許される世の中なんて、そんなの認められるわけなかった。
それでも。
動かない身体を無理やりに立たせる。
そして、その場から逃げ出した。男の声がする。かすみの両親であろう二人の声もした。泣き声も一緒に聞こえた。
テルは守ると決めた相手を守れなかった。
首輪から名前が消える。
もう、かすみが付けてくれた名前の、テルですらない自分。
涙は出なかった。それを思い出して泣くことすら、もう許されない。
そんな過去に蓋をした。蓋をして、忘れようとした。あまりにも辛い出来事だったから。思い出さないようにした。楽しかった思い出と共に。自らの心のうちに仕舞い込んだ。誰にも見られることのないように、誰にも汚されることのないように、深く、深く。
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