1-12 暗い世界から
身体も心も疲弊していたそんな時、もう無理だと倒れた時、その子が現れた。
傘を刺した幼い子供だ。
「わ、え、えっと、…耳だ…」
倒れた自分の前に蹲み込んで、頭に生える耳に触れた。そこに神経は通っているから、擽ったさもあったがそれに抵抗する元気はない。逃げなければいけないのに、足がもう動かない。両親との約束を、守ることができない。
「ネト、さんなのかな?初めて見た…」
まるで感心しているかのような声だ。殺すなら、苦しくない方法で殺してほしい。捉えるのなら、どうか痛くない方法で。
けれど、その子供はそれをしようとしなかった。着ていたパーカーを被せてきて、頭に生えた耳を覆った。少しばかり、自分よりも大きな子供の着ていたパーカーは、その尾まですっぽりと覆えてしまった。
「だ、大丈夫。私が助けるから!」
差し伸べられた手を、握った。その手を両手で握られて思い切り引かれる。強引に立たされる。疲労で震える足。倒れそうになるのを小さな子供はその身体で支えた。自身の身体が濡れてしまうのを厭わずに。
「大丈夫、大丈夫だよ」
繰り返し何度も言われ、引きずられるようにして歩かされる。どこに連れて行かれるのか、見当は付かなかった。このまま、他のヒトのところに連れて行かれるのだろうか。そしてそのまま自分は。
「よい、しょっ…」
辿り着いたのは、ヒトが暮らしている家だった。やっぱりと、残った力を振り絞って暴れた。大人のヒトに引き渡すつもりなのだと。
逃げなきゃいけない。本来の目的を思い出せ。ヒトから逃げるんだ。逃げて生きる。
「っ、だ、大丈夫だよ、こっちだから」
伸ばした爪で子供の頬を引っ掻く。ピッ、と出来た一線の傷。血が垂れ、痛みに顔を顰める。泣くかとも思ったが少女は進んでいく。
その足が向かったのは家の中ではなかった。家にある小さな庭にある倉庫の前。
そこを開けると、ぬいぐるみや他のおもちゃが無造作に置いてあった。
そのおもちゃを纏めて押し込み、スペースを作る。子供一人入れそうなほどのそこに、自分を置いた。
「なんの、つもり…」
「大丈夫だよ、ネトさん。治るまでここにいていいよ」
手が伸びてくる。暴力を振るわれるのかと思って目を閉じたが、頭の上に置かれたそれは、雑に撫でてきた。
「怖かったね、大丈夫だよ」
撫でてきたその手が、両親の温もりと似ていた。逃げる中、忘れていた暖かさ。確かな愛情をそこに感じた。同じネトではなく、それもヒトから。
自然と溢れた涙を止める術を知らない。両親に逃されたあの日、もう泣くのはやめようと決めたはずの涙が、溢れて止まらなかった。
ここまで来る道のり、自分を追うヒトにも出会った。刃を振り回し、なんの躊躇いもなく傷付けてくるヒト。両親の言った通りだった。ヒトは、ネトを捕らえることしか考えていない。いるのはそんなヒトばかりだと。
けど、少女は違った。助けようとしてくれている。それは嘘じゃないと信じたかった。自分自身が一人ぼっちだったからだ。もしかしたら縋れる何かが必要だったのかもしれない。選んだのがたまたまヒトだった。その少女だったのだ。
「私はかすみ。よろしくね、ネトさん」
その時初めて、ヒトを信じてみようと思った。他のヒトは信じられないけど、この少女のことだけは。
*
それからの日々を連れて来られた倉庫内で過ごしていた。食事や水は、夜こっそり部屋を抜け出したかすみが持ってきてくれ、生きるのに困ることはなく、先も見えず、目的を見失いそうになる中逃亡していたあの毎日に比べるとまるで天と地ほどの差がある。
暇だ、と。ぬいぐるみを抱きながら呟くことがあるほどに、そこは快適だった。暇だと呟けるのだ。今までであれば考えられない。幸せという言葉があるとしたら、きっと今この瞬間のことも指すのだろう。
そうしていれば、忘れていた時間。狭くも幸せが詰まっていたあの檻の中での生活も一緒に思い出せた。
「こんな毎日を再び知ってしまった今、もう私は昔みたいに逃げる生活には戻りたくないっ…」
この倉庫の中で、少女の前でたびたび泣いてしまう。まるで幼子のように。五歳が果たして幼子に含まれないのかは分からないが。
自分はかすみの前だと、弱音を吐いてしまう。まるで母にしていたようにかすみを想っていた。確かにこの子のことが好きだった。唯一の心の拠り所。頼れる相手。甘えることのできるヒト。
「ずっとここにいていいんだよ、大丈夫、大丈夫だよ」
かすみも子供だ。でも抱き締めて頭を撫でてくれるその優しさは、どこまでも母のものに似ていた。似ていたから、さらに涙があふれた。かすみの服をギュッと掴む。ここにいていいと言ってくれたかすみの言葉は、引き裂かれそうな心を繋ぎ止めてくれるような、まるで魔法の言葉のようだと思った。
「(この子とずっと一緒にいたい)」
もう手放したくない。離れたくない。
その日、かすみの手を握って自分の首輪に触れさせた。両親から聞いたこと。『首輪の内側にあるボタンを押しながら物を言うと、首輪に名前を付けられてしまうから、それだけはなんとしても避けなさい』と。
だからこそ、それをしてほしかった。他でもないかすみに。名前を付けてほしかった。
「かすみ、私に名前を付けて。私はお前と一緒にいたい」
きっと複雑だっただろう。ネトのことを知っていたということは、きっと大人達がネトを捕まえているのも知っているはずだ。それでもこうして自分を匿ってくれている彼女に対してさらに重荷を背負わせようとしているのだから。
かすみは、自らの意思で首輪の内側のボタンを恐る恐る押した。首へと、微かに触れた手は震えていた。
「…テル。貴女の名前は“テル”」
付けられている首輪の前が光る。浮き上がってくる名前、『TERU』。かすみが付けてくれた、自分の名前。初めてもらった、大切な贈り物。
その瞬間、テルはかすみをこの手で守ろうと決めた。ヒトはネトを捕らえようとする生き物だ。それでも、名前をくれたこの子を守ろうと思った。
暗い世界から連れ出してくれた愛しいヒトを。
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