1-9 助けになりたい

 額から垂れる汗を袖で拭った。彼女を背で庇いながら荒いままの呼吸を整えるために深呼吸する。

 間に合ってよかったと思う。不規則だが僅かに動いている両足。毒を受けたのかうまく動かせないらしい。そしてもう血は止まっているようだが肩を押さえている。

 手放しで喜べるような状態では決してないが、それでも最悪な状態だけは避けることができたらしい。

 見つかってよかった。生きていてくれてよかった。


「くそ…くそ、がぁ!どけえ!」


 近寄る烏を腕で払う。ゆらりと立ち上がった男は自らの顔を押さえている。額はぱっくりと切れており、止め処なく血が溢れている。

 目は血走り、フーっ、フーっと息を荒げていた。


「っ、だよ…なんだってんだ!ああ!?てめえに言ってんだぞクソガキぃ!」


 吼える。男の怒鳴り声に森が振動する。鼓膜を破りそうなほどの大声を出しながら男はナイフを握る。鋭い刃の先を真っ直ぐこちらに向けて。

 耳を劈く怒号、向けられる凶器。

 怯みそうになるのを足を踏ん張って耐えた。ここで退くわけにはいかない。何のためにここに来たか考えるんだ。

 後ろにいる、傷付いたネトを救うためだ。言ったことは守る。だから退かない。


「悪い事は言わない、この森を出るんだ」

「……あ?なに言ってんだ!馬鹿じゃねえのか?お前もヒトなら分かるだろ?ネトの利用価値が!売って金にするんだよ!俺には金が必要なんだ!」


 笑う男に拓人は拳を握った。こういうヒトばかりだから、こうしてネトが傷付き、悲しむんだ。


「どうして、そう言う風にしか考えられないんだ!ネトもヒトも、同じ生き物だろう!」

「同じ……?だから、お前はなにを言っているんだ!ネトは商売道具だ。それ以下でもそれ以上でもないだろ!?」


 その言葉に何を言ってもこのヒトにはもう無駄だと悟った。初めからこう言う考えのヒトとは相容れない。それは分かっていた事だった。

 救いたいと思うヒトと、反対の意見を持つヒト。その思考は全く違う。考えも、価値観も。


「この子は渡さない」

「ネトの捕獲許可は国から出てるんだ!罪じゃないんだよ!」

「その矢で射抜くつもりなら、僕にも当たるぞ。ヒトを傷つける許可なんて出ていない。お前は罪に問われる」


 死ぬわけにはいかない。死んでしまったら、救う約束も守れなくなる。けれど、少女が捕われてしまったら、それこそ約束などないものになる。


 怖くないわけではない。けれど守りたい気持ちが遥かに勝った。傷付けられてもこの少女を守る。それが、今するべき事だ。


「ここまできて…っ、今更引けねえんだよお!」


男は持っていたナイフを持ち突っ込んできた。腕を前に持っていく。せめて腕に刺されば致命傷は避けられるはずだ。


 しかし、男は拓人にぶつかってくる前に立ち止まる。

 否、止められたのだ。



 動物は、時としてヒトを助ける。

 それは野生と思っていても、だ。


 黒が、舞う。


 それはもしかしたら、助けた恩かもしれない。ここまで連れてきてくれてなお、まだ恩が残っているというのか。だから。


 拓人と少女を守るように、烏がその身に刃を受けていた。


「ぐっ、くそぉ!烏の分際で!邪魔を、しやがってえ!!」


 烏が地面に力なく落ちた瞬間、拓人は男に近付いてその肩に取り出した注射を突き刺した。


「……あ?」


 突然のことに理解できていない男に構わず、中の液体を注入する。それは即効性の睡眠薬の入ったもの。

 低い呻き声。倒れてくる男を避けると、地面を揺らしながら倒れた。


 他の二羽の烏の鳴き声。地面に倒れている烏。僅かな呼吸。まだ息はある。助かるかもしれない。

 その烏を抱き上げて、もう怪我が治ったのだろう彼女に烏を渡す。


「な、に、」

「ちょっと乱暴になる。ごめん」


 まだ足に力が入らない少女を抱き上げる。謝りはしたものの、何をするかは言わなかったのがいけなかった。けれど足が動かないためか蹴飛ばされることもなく、烏を手放すわけにもいかないのか殴られたりすることもなかった。


「っに、してんだ!」

「ごめん。僕は君を救いたい。けど、怪我をしたその烏も救いたいんだ。それが僕の、獣医としての仕事。そして、ヒトとしてできる唯一の役割だから」

「私は!そんなこと望んでいない!離せ!」


 代わりに飛んでくる声。当然だ。そんな目に遭わせたのは他でもないヒトで、今彼女を抱き上げているのもヒト。けれど拓人もそこを譲るわけにはいかなかった。


「今、足が動かない君が今またヒトに狙われたらどうする!今は黙って僕の言うことを聞いて!」


 名前を付けて、強引に屈服させるつもりはない。ないが、それを聞いて欲しかった。

 拓人は他のヒトと違う。それは言葉にするのはひどく難しい。だって彼女にとってはどのヒトも同じに見えるのだから。自分を傷付けてきたヒトと同じように。

 けれど、信じて欲しかった。助けたい、救いたい気持ちを。


 少女は何も言わなくなった。拓人の声に驚いていたのかもしれない。強引なやり方に、恐怖を抱かれたのかもしれない。けれど、そのまま動き出すことを許してくれた、と今はそう解釈した。


 二羽の烏が先導するように飛ぶ。そのまま病院に向かってくれるつもりなのだろう。


 ここに来るまでに十分走ってきて、疲労を感じている足を叱咤し、再び走り出した。早く病院に戻るために。

 抱えた命をその手で救うために。

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