1-8 淡くも確かな希望の光

 背中に弓を下げたその男には覚えがあった。否、忘れるはずがない。その弓、下品な笑い方。

 昨日、自分を捕らえようとしていたヒトだ。

 動かない自身の足を握るが、その握っている手の感触さえ感じない。


 「どうして」。頭の中に二つの疑問が浮かぶ。一つはこの動かない足についてだ。けれどそれについては見当がついている。きっと毒矢だったのだろう。それを射られた所為で足には感覚がないのだ。大きな怪我をしているより厄介だ。


 そしてもう一つは臭い。

 そう、臭いがしなかったのだ。

 昨日はあんなにも“ネトを狙わんとする意志を持った”臭いをさせていたというのに。


「臭いで狙ってくるヒトを判別できるネトもいるって本当だったのか…世の中にはそんなネトもいるんだな…

それとも、お前は亜種だから分かるのか?」


 動かない足を引きずり、立とうとしたもう片方の足にも微かな痛みが走る。

 矢を射られたのだ。


 逃げようとしている相手を動けないようにする。当たり前のことだ。少し考えたら分かることなのに、どうしてそこまで考えを回さなかった。

 簡単だ。どうやってこの場から逃げれるかと、それだけを考えていたからだ。


「王族の武器ってのは便利だな。臭い消しに毒矢…ああ、死ぬ毒じゃないから安心してくれ。神経毒だ。しばらくの間動けないだけだ。いやあ、ネトの捕獲に精を出しているだけあるな」


 刺さった矢を引き抜いて、唯一動く両腕で腹這いになりながら進む。逃げる。


「いいなあ、…そうやって死に物狂いで逃げろよ。ほらほら簡単に追いついちまうぞ」


 みっともなく地面を進む。憎むべき相手に背を向けて、尻を振り、惨めに逃げようとする。そこにプライドなど欠片も存在しない。泣き出しそうな気持ちになるのをぐっと堪えた。今捕まるわけにはいかない。その気持ちだけで進む。

 逃げろ、逃げるんだ。

 そんな思いとは裏腹に足は麻痺したまま動いてくれない。


「こうして眺めるのも好みだが、しかし時間も惜しいんでな」


 頭上に影が落ちる。そこから前に進めなくなる。背中を掴まれたのだ。進もうと足掻いた手は虚しく地面を引っ掻いただけだった。


 振り返り、面を引っ掻いてやろうとしたその肩に、鋭い痛み。矢で射られた時とは比べ物にならない痛みに思わず悲鳴を上げた。


 鉄臭い臭い。顔を濡らす鮮血。

 男の持ったナイフが肩に深々と刺さっていた。


「本当は傷一つなく引き渡すのが理想だったんだが昨日も存分手間取ってるし今更だ。それに、どうせ血はすぐに止まるんだろ?ネトの特性だっけか。だから多少の怪我は我慢してくれ。


そんなことより、俺は楽しみで仕方がないんだ、亜種のネトがいくらで売れるのか…それを考えただけで興奮する。傷があったとしても、きっと…ふっ、ははっ」


 血は確かに止まる。けれど痛みが無いわけじゃない。それを、そうもぬけぬけと語る男。

 肩を押さえて蹲る。


 ネトを、商品価値としてしか考えてない。

 これがヒトだ。傷つける事になんとも思っていない。目先の、自分だけの幸せのために、どうしてネトを傷つけることができるのか。

 そんなヒトの思考を考えようとは思わない。考えたくもない。


 背中を掴んでいた手が離れたと思ったら、今度は重みがのしかかる。男が背に乗ったのだ。生温い手が首元に触れた。

 ヒトによって付けられた、その首輪に男の手がかかる。


「俺もつい昨日知ったんだが…ネトの首輪…無理やり外そうとすれば電流が流れるが、それ以外にも特殊な力があってな……首輪の内側に付いている赤いボタン。ここを押して話すと、そのネトに名前を付けることができるんだよ」

「……な、まえ……?」

「そうだ。名前を付けらたネトは、名付けた者に対して絶対服従。どうやら逆らうことができないらしくてなあ」


 身体が震えるのが分かる。

 首輪に触れている男の手、たった今言われた言葉。


 それを初めて聞いたからか。

 違う。そんな理由じゃない。

 自分はそれを何故か知っていた。どこかで聞いたのだ。だから知っている。


「嘘か真か、まあ、試してみれば分かることか」

「や、…っ、やめっ……」


 急速に浮かんでくる自らの疑問を待つことなく、男は首輪の内側に指をかける。そこにあるのだろうボタンに触れようとした。




 見えたのは一瞬だった。黒い塊が物凄い速さで背後へと突進した。男のぎゃあ!という叫び声と同時に背中の重みがなくなった。


 振り返ると、男が顔を押さえて転げ回っている。その男の周りを三羽の烏が鳴きながら飛び回り、時折その男を嘴で突いていた。


「烏…なんで、…」

「っ、見つけた!」


 駆けてきた足音。男の前に立ち、自分には背を向けているヒト。まるで庇おうとするかのような立ち位置。


 烏が来たこと、それは偶然などではない。


「なんで、…お前が…」


 それは昨日の男だった。自分を救うといった、あのヒトに違いなかった。


「言ったでしょ?僕が君を救うって」


 それは憎むヒトに変わりないはずなのに、その後ろ姿がどうしてか、微かな希望の光に見えた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る