1-3 訪れたのは
翌日になると昨日の雨はまるで嘘みたいに窓の外からは太陽が見えていた。
森の中にあるだけあって周りは木々で囲まれているが、この建物が立っている場所のみ開けているため何にも遮られることなく日が差しているのだ。
外に出てみると、雨の影響で多少はまだぬるりと足を取られそうになるが昨日ほどじゃない。
「じゃあ、行ってくるよ」
「拓人、これ持っていけ」
そう言って渡されたのはラップに包まれたお握りだった。出来立てであろうそれはとても暖かい。
「昨日、結局飯食ってないし…それにあんま寝てないだろ」
「…なんだ、知ってたの。もしかして健二も起きてた?」
「いんや。俺は寝てた。昨日あんなことがあったからな。俺が寝ないとアオバが心配しちまうんだ。けど、夜のお前の様子を見ていなくても今の顔見りゃわかる。何年一緒にいると思ってんだ」
朝、顔を洗った時目の下に隈が出来かけていたのを思い出す。あまり目立つものではなかったから気にしていなかったが、気付かれてしまったらしい。
猟師としての観察眼なのか、それとも今拓人の顔色が相当悪いのか。おそらく前者だろう。前者であると信じたい。
「とりあえずありがとう、もらっていくよ」
「おう。空腹で倒れちゃ笑えねえからな」
ニッと歯を見せて笑う健二。受け取ったそれを羽織ったパーカーのポケットに突っ込んだ。
ふと自分の右手を見る。まだ包帯の巻かれた手がそこにある。
昨日、拓人が連れて帰ったネトはまだ眠っている。相当な傷の具合だった。それに、彼女が眠ってからだが熱も出ていた。身体が雨で冷えたせいなのか、傷の影響なのか分からないが夜間のうちに抗生剤を点滴でいった。まだしばらくは目を覚さないだろう。
「あの子をよろしくね、健二。起きたら暴れちゃうかもだけど」
「ああ、留守は任せろ。行ってこい」
健二の後ろ。室内の方へと目を向ける。ベッドで眠り続けているあのネトの様子はわからない。怪我の処置は済ませた。血もちゃんと止まった。朝測ったら熱も下がっていた。あとは意識を取り戻すだけだ。
聞きたいことは沢山ある。けれど無理に聞き出そうとは思わない。
出来るなら、自ら話してくれると良いのだけれど。
「うん、行ってくるよ」
背を向けて歩き出す。向かうは街だ。
拓人が学生時代の時に先輩だった、研究者『田中良太郎』に会うために。
*
つい昨日も訪れた街に足を踏み入れる。街の人たちからの挨拶は、無い。昨日も来たからする必要がないのとは違う。
町の外れ。森の中に友人と二人で住んでいる拓人達のことを周りはよく思っていないから、拓人がいつこの街に来たところでこんな対応だ。勿論ネトであるアオバの存在は伏せている。それでも街の噂は絶えない。
猟師である健二が無差別に森で動物達を捕らえているだとか、それを獣医である拓人が治療と称して毎日実験をしているとか。毎夜毎夜動物達の悲痛な悲鳴が森から聞こえてくるだとか、森の祟りを受けるのも時間の問題だとか。
どれもこれも根も葉もない話ばかりだ。森に住んでるから、という理由だけで、その話に長く複雑な尾鰭が付いたのだろう。
しかしそれを信じている者は多く、昨日も買い物のために街にやって来てみれば、それまで愛想良く笑顔を見せていた店主が拓人が来た途端その顔からさっぱりと笑顔が消えてしまった。しかし物を売ってくれない訳ではないので拓人としてはもういちいち訂正するのも面倒だと思えてしまうし、必要な物さえ手に入れてしまえば良しとした。
そんな慣れた街の人々の視線を感じながら歩みを進め、ある場所でそれを止める。
この街は案外広く、歩道と歩道の間には人力車や馬車が通る道路もある。反対側の歩道に行くためにはこの道路を渡らなくてはならない。そこで、事故が起こらないように向こうの歩道まで道路に敷かれた白線。そして歩道を歩く人と道路を走る人を分けるように設置された柱。歩道側に向いたそれが青色になれば、道路側に設置された同じそれは赤色になる。そしてこの白線を渡って大丈夫だという証になり、道路を走る人はその歩みを止める。そして道路側に向いたそれが青色になっている場合は、その逆で、歩道側に向いたそれは赤色に変わる。この白線の前で待てというものだ。
道路を拓人が足を止めたのはこれの前だ。今は赤色だが、これが青になれば向こうの歩道に行ける。
しかし拓人はその歩道を通らずに、そのすぐ近くにある、街の地下に続く階段を降りていく。
今にも消えかけそうな淡い光を放つ蛍光灯だけを頼りに進む。地下を抜けた先は道路を挟んだ、反対側の歩道に繋がっている。断然白線の上を通った方が近道だが、今回の拓人の目的は反対側の歩道に行くことではない。
きっとそこは道路の真下あたりだろう。頑丈な扉の前。横に取り付けられた掌サイズほどの四角いパネル。そこに自らの手を当てた。ガチャンと錠の外れる音。扉に付いたノブを握り捻るが開かない。
「あ、あれ…?」
おかしい。前はこれで開いたはずだ。
扉の上に設置された小型のカメラ。前に来た時はこれも無かった。
『合言葉をどーぞ』
疑問が浮かぶ拓人の耳に聞こえてきたのは気怠そうな、間延びした声。それは間違いなく拓人がこの街に来た目的である彼の声だった。
「良太郎くん、いつ合言葉なんて設定したの?」
『あー、そうかそうか。言うのを忘れてたわ。まあ、入ってきたら分かるさ』
その言葉の後に再び錠の外れる音。ノブを捻ると重たい扉が開く。
部屋に入った拓人を出迎えたのは拓人より少し小さな、頭のてっぺんにネジのようなものを付けた彼お手製のロボットだ。
『イラッシャァ。靴ヲ預カリマス』
昨日もそうだが、今日も雨上がりの道を歩いた所為で泥をつけたままのそれを渡すことに少し抵抗はあったが、靴を預かるまで先へは入れてくれそうにない。仕方なく言われるがままに脱いだ靴を渡すと代わりにスリッパを渡される。ロボットは預かった靴を、自身の腹部に付いていた扉のようなものを開けてそこに拓人の靴を入れて再び腹部の扉を閉めた。
『中デ良太郎サンガマッテマス、ドウゾ』
促されるがままに奥へと進む。相変わらず薄暗い家だ。これじゃああまり地下道と変わらない。奥に見えた部屋から少しだけ明るい部屋が見える。自然と早くなる足。
広めの空間。床に適当に置かれた本や何かの部品。それらを踏まないように近付いてパソコンの前に置かれた椅子に座る、フードを被った人物。
「来たよ、良太郎くん」
拓人の声に、椅子がぐるりと拓人の方へと回転する。勢いよく回ったためか被っていたフードが落ちる。腰ほどの長さはある赤い髪。そこに“生える”二つの耳。付いているのではなく生えている。
それは紛れもなく猫の耳。ヒトとネトを見分けるネトの耳。
「やあやあ、拓人だね?へっへーん、久しぶり!」
「………えーっと、誰?」
拓人が知っている田中良太郎はネトではなかった筈だ。しかし、目の前にいるのは間違いなくネトだ。ヒトがネトになるという実験が行われたなんてことは耳に入っていない。
なら、目の前のネトは出迎えたロボット同じように彼が作ったものなのだろうか。
手を伸ばしてその耳に触れ、握った。
「ふにゃっ」
可愛らしい声を出して目をきつく閉じる。首を横に振り、握ったままだった拓人の手から逃げようとする。握った耳には確かな熱を感じる。とても人工的なものとは思えない。
ならば、と先ほどから服の下部から覗いているその尾を掴もうとした。
「ひっ…ふえ、へ、へんたい!」
「オイオイ、お前いつから幼女を襲う趣味に目覚めたんだ?」
ゆらりと現れるもう一つの人影。背を曲げ、ボサボサの黒髪を掻き、本来目に掛けるはずの眼鏡を頭に掛けた人物。
「り、良太郎くん!」
「良くん!」
椅子から降りたその子は良太郎の後ろに隠れて顔を半分だけ覗かせて拓人を睨む。
耳が横にピンと張っている。ネトが見せる警戒の証。
「まあ、茶でも淹れるから、ゆっくり話そうぜ」
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