1-2 その傷
カタカタと扉を揺らす音。台所で夕飯の準備をしていたが、その火を止めて玄関へと向かう。
「ベストタイミングだな。そろそろかなって思ってたんだよ。いい感じにカレーが煮込まれてるぜ。ジャガイモやにんじんは柔らかくなってすっかり食べ頃だし米も炊けてるし…まあ、その…いや、つか、天気外したのは予報士だし、俺はそれを見て言ったまでで悪く……って」
話しつつ、開けた扉の先に立っていた相手と、抱えるものを見て言葉が止まる。
「なん、…え?お前買い物って…フルーツって言いながら実は人身…」
言い終わる前に足を踏みつけられる。言葉にならない声を上げつつ、涙目になりながらも踏んだ彼が喋れないのを理解してその口にくわえた紙袋を受け取った。
「っ、は!バカ言ってんな!この子怪我してんだ!」
「ハイハイ、って、…その子どうしたんだよ。なに?本当に買ってきたの?なんちゃって」
「ネトだよ!」
「へー…ネト……はあ!?」
「話は後!」
靴を雑に脱ぎ捨てて中に入る。治療室の一角に置いてある空きベッドに抱えたままだったその子を寝かせた。
「ネトってどういうことだよ」
「そのままの意味だよ。怪我してたから連れて帰った。出血が酷いんだ。このままじゃやばい」
薬を探し、目当てのものを見つけて手に取る。
ネトの治癒力は高い。出血さえ止めてしまえば自身の治癒力で怪我は治るだろう。
その子の長袖を捲った。あちこちに残る擦り傷。怪我はまだ真新しい。
ヒトとネトとはいっても、身体の作りは基本的に一緒だ。だから同じ薬が使える。
手袋を嵌めて、怪我を負っていない場所をアルコール綿で消毒し静脈に準備した注射を刺し、中の液体を注入した。
「血液凝固剤。一時的なものだけど出血は止まるはずだ。怪我はこれで大丈夫だけど、濡れたままじゃ風邪を引くな」
「いや、それお前にも同じこと言えるけど。おまけにそんな泥だらけにしてさ。廊下、掃除する気も無くすほど凄いことになってるけど」
「うっ……分かってるよ。後でするってば」
おかしいな、と思う。天気予報について本当は自分が彼に怒っていいはずなのに今叱られているのは自分だ。そもそも雨の予報を外さなかったらこんなに汚れていなかったはずだ。
「拓人、おかえり…はい、服持ってきたよ」
なんとなくモヤモヤしつつ、しかしその通りだと思いながら言われた言葉を受け止めていると、そっと治療室を覗いていた視線に気付く。
目線が合い近付いてきたその腕の中にはタオルや自分の服一式が入っている。
「ありがとう、アオバ」
受け取って礼を言うと、人懐っこい笑顔を見せた。嬉しそうに尾が左右に揺れ動く。
頭を撫でるたびに垂れた耳がピクピクと反応する。
「つか、買ったものももう酷いことになってるけど…あー、こりゃ食べられないわ」
持ったままの紙袋の中身を確認する。潰れたフルーツ達。袋の中でミックスジュース状態だ。紙袋の底から垂れている。とてもじゃないが食べられたものではないだろう。
「服の汚れようからして、なんだ。転んだのか?
「う、うるさいな!」
カーテンを開けて、着替え終えた格好で出てきた拓人はぶすりと口を尖らせた。健二が言った言葉が見事に図星だったからだ。
汚れた服はアオバが抱えて洗面所にある洗濯機へと持って行く。
さて、とその子が着ているずぶ濡れの服を脱がしていく。起きない。
裸体にした時、新しく病衣を着せようとした手が止まる。
その子の身体にある“それら”を見たから。
ネトの身体は丈夫だ。傷が出来てもすぐ治る。ヒトと違って血液凝固の作用が働かない分、自らの身体の作りを変えることによって負った傷の治りを早くしているのだ。
その筈なのに、しかしその身体は傷だらけだった。
凝固剤を注入したからだろう。今日付けられたものが徐々に治っていくが、しかしそれとは別に既に古いものではあるが銃槍、熱傷。深く付けられた裂創、割創が身体のあちこちに出来ている。腕や足も一度折れた様子があった。
治るよりも早く付けられたであろうそれらは、ネトの治癒力をもってしても消えなかったのだろう。
「ひどい…」
隣にいた健二がそれを見て呟いた。
戻ってきていたアオバも口元を覆い震えている。
拓人は顔を
「これが、僕達ヒトがネトにしてきたことだ。特にこの子は…」
金色のヒゲ、垂れた耳。それはネトの中でも珍しいとされている亜種のネトである特徴だ。
「普通のネトより亜種のネトはヒトから狙われやすい。この子も例外じゃない筈だ。付けられた傷が何よりの証拠だろう」
ネトを捕らえ、売り捌く。
ネトであればその腕一つだけで高値で売れる。ネトを使った実験も中には存在するほどだ。
そしてネトの亜種は特に高値で売れる。希少種だからだ。こんなに傷だらけなのは、ネトを捕らえるために手段を選ばないヒトもいるから。
最悪捕らえる行程で死んでしまったとしても、その死体すら売れるから。
ヒトとネト。そこには少しの違いしかない筈なのに。
「痛かったね…」
さっきまで震えていた筈のアオバが近付いて、その頭を撫でた。まるで自分が怪我を負ったように同じ痛みを感じて泣きそうになりながら。
アオバは普通のネトだが、健二が助けなければ同じ目に遭っていたかもしれない。否、もう捕われて、売り捌かれていたかもしれなかった。
彼女の両足首にはもう治らない傷跡が付いている。ヒトがネトを捕らえるための罠に引っかかってしまった際に出来たものだ。
歩くことをようやくできるようになったが、皮膚を貫通して骨まで深く到達してしまった傷のせいでアオバは走ることができない。
「拓人…」
心配そうな眼差しで拓人を見上げた。
今日付けられた傷はもう大丈夫だろう。すっかり消えている筈だ。意識もじきに取り戻す。
「目を覚ますまで、アオバがこの子を見ていてあげてくれる?」
「!うん!」
アオバは丸椅子を眠るその子の近くに持ってきてそこに座り、眠る少女が目覚めるのを待つ。
拓人はそれを見て健二に目配せして治療室を出た。
「ああいうのを見ると、やりきれないね」
「そうだな…ヒトがしてきたことは…」
二人して黙る。ヒトがネトに対してしてきたことは許されるものではない。
あの子や、アオバに傷をつけたのは自分達ではなくとも自らがヒトなのは変わりない。
ネトが敵と
「僕はあの子の心を救ってあげたいって思う。健二がアオバにそうしたように」
拓人ははっきりとそう言った。治らない怪我を治してあげることは獣医である自分には出来ない。獣医は神様ではない。
けれどその心を。傷付き
「一人じゃない、俺も協力する。一緒に救ってやろう」
「…ありがとう健二…けど、まだ雨予報外したの許してないからね。曖昧になる前に言わせてもらうけど」
「…お前、粘着質すぎ。そこはもうチャラにするところだろ?格好いいセリフが台無しだぜ?」
「うるさい!だいたい健二はいつも…」
小言の一つや二つでもこの際だから言ってやろうかと思った時、何かが倒れる音がした。先程まで居た治療室からだ。大きな物音に続いてアオバの悲鳴。二人は顔を見合わせて治療室に駆け込んだ。
「アオバ!」
「ここはどこだ!」
点滴台が倒れる。目を覚ました少女は機材や薬品を倒しながら叫ぶ。荒れた治療室の隅でアオバがカタカタと震えていた。
叫んでいた少女は、入ってきた二人を見てその表情を険しくさせる。
「お前らか…私をここに連れてきたのは…」
顔を
突然のことに受け身も取れず冷たい床に背中を打ち付ける。
そのまま少女の手は拓人の首へと伸び力を入れて押し込む。
「あっ、…ぐ…!!」
苦しくて彼女の手を掴んで離そうとするが敵わない。少女のものとは思えないほどの怪力で喉を潰し窒息させようとする。
本来のネトそのものの力を発揮できているようだ。血が止まったおかげだろう。
しかしこのままでは自分自身が今度はこの子に殺されてしまいかねない。
「待っ…はなし、を…」
「まだ喋れるの?…いいよ、もともと楽になんて死なせるつもりないんだ。ゆっくり、時間をかけて死んだらいい」
怒り、憎しみ。酸素が上手く脳に行き届かなくて薄れていきそうな意識の中、彼女の表情から読み取れたのはそんな感情だった。
ヒトを決して許さないといった、そんな顔。
当然のことだろう。今までヒトがネトに対してしてきたことを思えば。
「お、…願…話を…」
「話、話って…ネトの言葉に耳を貸さなかったお前達ヒトが助かりたいが為に今度はこっちに話を聞けなんて、そんなの都合が良すぎだよ。そう思うでしょ?」
彼女の言っていることは正論だ。
誕生した彼女達ネトに、罪も何もないのに危害を加えたのは他でもないヒトだ。
「(この子には…ヒトを殺す権利がある…)」
少女の手首を掴んだままだった手を離した。どれだけ辛い目にあったかは分からないが、彼女の身体に残る傷を見れば、想像は出来た。
恨んでも憎んでも、それでもまだ足りないくらい程の、ヒトに対する憎悪。
この子が、ヒトを、拓人を殺して少しでも気が晴れるのならそれでもいいと思った。
だから、抵抗をやめた。
「馬鹿っ!何考えてんだ拓人!」
突然苦しみから解放される。呼吸をしようとして咳き込んだ。
酸素不足で回らない頭を必死に回して見ると、拓人に掴みかかっていたネトを健二が後ろから羽交い締めにしていた。
「獣医であるお前が!相手を救わずして自分の命早々に諦めてんじゃねえぞ!」
「っ、諦めてなんか!」
「いいや!俺にはわかった!なんだ?ネトにはヒトを殺す権利があるとかそんなくだらないことでも考えたか!馬鹿野郎!ネトの苦しみなんてそんなもんじゃねえって!お前が一番分かってんだろ!」
健二の言葉にハッとする。
そうだ。ヒトを、拓人を今ここで殺したところで彼女の憎しみは本当に晴れるのだろうか。答えは否だ。
希少であればあるほど。亜種である彼女の怒りや憎しみは普通のネト比べてずっと重たいものだろう。だから最悪、拓人を殺して健二も殺されて、それでも気が済まないかもしれない。同じネトであるアオバさえ狙われる可能性だってある。ヒトと一緒にいるから、なんて理由で。
拓人はそういう可能性を考えていなかった。
「ど……けぇ!!」
ネトが腕を振り回すと健二は振り飛ばされてそのまま床に倒れ込む。
明確な殺意を持って、隠した爪を剥き出しにして飛び掛かってくる。
「もういい……殺すっ!」
狙うのは首筋。しかし痛みは来なかった。
正確には、来させなかった。
「あ、……な…に…」
「ごめん、あんまり手荒な真似をするつもりなかったんだけど…これしか方法がなかったんだ」
拓人の手には注射器が握られていた。
それは即効性の筋弛緩剤が入ったものだ。
力の入らなくなった彼女は床にぐしゃりと倒れ込む。
「くっ、そ……くそっ!」
床で足掻く少女。けれど上手く立つこともできず力なく床を殴り、歯を食いしばる。
それこそ、握った拳からは血が滲み、唇を噛んだのかポタポタと床に赤色を作っていく。
「危害を加えるつもりはないんだ。ただ、僕は君を救いたい。それだけなんだ」
「ヒトの言葉なんてっ…信用できない!…そうやって……何度私たちネトを騙してきたんだっ!」
きっと、そういう人達に何度も出会ってきたのだろう。
出会って、信じて、そして騙された。
怒りや憎しみ。最初こそこのネトもきっとヒトを信用していたのだろう。彼女を心配するネトもきっといただろうに。けど信用していた。だけど、騙された。信用していた分、裏切られた時の辛さは計り知れない。
「…殺せ」
「…なに」
「私を殺せ。今、ここで。ヒトの前で、こんな無様な格好でいるよりマシだ」
「……殺さない。僕は君を救う。それだけだ」
「なら、ここで死ぬ」
握った拳を開いたのが見えた。筋弛緩剤により、爪を出すこともできなかったはずなのに、再び爪を出し自らの首に当てる。
「ヒトは、憎むべき存在だ」
プシ、と皮膚の切れる音がした。
“彼女の手を掴んだ拓人の右の掌の皮膚”が切れて血が溢れ出す。
鋭い痛み。爪が深く食い込んでいるのだろう。それでも手は離さなかった。
「っにしてんだよ!」
「離さないよ。離したら君は、…死のうとするでしょ…?」
「だからっ!離せって言ってんだ!」
「僕は獣医だ。君を死なせない。救いたいから離さない。絶対にだ」
痛みは無くならない。けれど離すつもりはなかった。逃げられないようにより握る手に力を入れる。爪がさらに食い込んでいく。貫通してしまうかもしれない、なんてこんな時にふと思った。
本気ではないが、冗談にしては笑えない。
そういうことを考えれる余裕が拓人にはあった。首を締められていた時だったらこんな余裕はなかった。
だけど健二に言われたから。
拓人のすることは一つだ。目の前のネトを救うこと。獣医として助けること。
だから痛みなんてどうとも思わなかった。
「君からすれば僕は散々裏切ってきたヒトの一人だろう。だから君が治ったらまた僕を殺そうとすればいい。もう簡単にやられてやるつもりはないけどね」
この子が治れば次の患畜が待っている。全てを救う。それが獣医だ。拓人の仕事だ。
もう自身の命を諦めようとは思わないから。
「勝手なこと……ばかり、いい、やがっ、…」
爪が抜ける感触が掌に伝わる。口を開かなくなった少女を見ると寝息を立てていた。
そっと手を離す。殴っていた拳の傷はもう無くなっている。唇の傷も消えていた。
「さ、ベッドに戻そうか」
「まーてまてまて!その手でか!」
「え……あ」
自分の手を見る。穴の空いた掌。溢れ出る血液。赤い絵具を押し付けたみたいに掌全体が赤い。思い出したみたいにズキズキと痛む。
「痛い…」
「当たり前だ!無茶ばかりしやがって!この子は俺が運ぶから!アオバに手当てしてもらってこい!」
健二がネトを軽々と抱える。
隅で震えていたアオバは、いつの間にか拓人の傍に来ていて服を引いた。
「てあ、て」
「…うん。お願いするよ、アオバ」
服を握っている手が震えている。当たり前だ。あんな光景を見たら。怖かっただろう。それでも逃げずに。同じネトだったからか。それとも拓人や健二が心配だったからか。
「ごめんね、怖かったでしょ」
ガーゼを握らされてぐるりぐるりと包帯が巻かれていく。手当てをされながら拓人は口を開いた。その言葉にびくりと肩を跳ねさせたアオバだったが、首を横に振った。
「怖くなかったって言ったら嘘になっちゃうけど…何もできない自分の方が嫌だったんだ。だから、逃げなかった。ここにいても、何もできなかったけど」
「そんなことない。僕がアオバだったら怖くて逃げちゃってたよ、きっと。けれどアオバは逃げなかった。そして、こうして僕の手当てをしてくれている。十分さ」
「……拓人は、強いね」
その言葉にこそ、拓人は首を横に振った。強くない。強くなんてない、と。
健二が言ってくれなければ、きっとあのままネトに殺されていただろう。命を諦める。自覚はなかったけれど実際にしようとしていたことはそういうことだ。それは拓人が弱い証に他ならないだろう。
「強くないから、強くなりたいんだ」
「…私も、強くなりたいな…」
アオバはポツリとつぶやいた。
それはネトとして、ではなく。心の強さ。
ヒトでも、ネトでもきっと共通して持っている力のこと。
「じゃあ、一緒に強くなろう」
「!うん!」
二人で笑い合った。
誰かを守れる強さ。救える心。諦めない気持ち。それらが欲しいと、拓人は強く思った。
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