5日目 Love Love Gagaku

「あの、僕はこの部分が理解できないんですけど。」

「ええんだ。そういうことじゃねぇんだ。分かってねぇ。」

「分かってないというのはどういうことですか。」

「つまりだな、カオス理論っつうのは、式自体が長くなることで生まれる、代入される数値の変化によって答えが大きく変わっちまう初期値鋭敏性によってでな。うん。」

「いや、だから、僕はただ、数学の問題を解きたいと思っているんです。」

「高校の数学の問題なんて、面白くねぇわ。数学が分かって面白くなるところを教えてやるから、それでやる気出せ。」

「出してどうすればいいんですか。」

「それで、一人で勉強すりゃあいい。」

「いや、だから、それがきついんですけど。」

「数学が一番面白くなるところを教えねぇのに、高校の数学なんかやったって、何の意味もねぇわ。面白くなることが分かんねぇのに、つまんねぇことなんてできねぇだろうがよぉ。よぉ。」

「分かりますが、ここを教えてください。」

「おめぇは、本当に数学の才能がねぇなぁ。本当にどうしようもねぇなぁ。」

「すいません。」

「これが分かんねぇなら、別にこれ以上積み上げたって、数学の何を分かる訳もなし。宿題やらねぇで、白紙のまんま先生に提出したってなんも変わらねぇわ。」

 僕は、橋の下にいた。

 その橋でさえ最早使われていない。

 誰も通らないし、車も、それこそ獣も通らない。

 おそらく。

 何かしらが通過したら、その橋は崩壊してしまうだろう。どう見ても、それだけ古く、そこからは酢のような匂いが立ち込める。

 雨が降っている。しかし、静かであり、小雨である。肌を湿らせて、僅かな空気の流れすら感じさせてくれる。

 空気の中にいるのだと勘違いしてしまうくらいに、僕の仕草は外の縁のない空間の中に溶けてしまっていた。

 橋の影の中。

 僕と。

 ホームレス。

 僕はここでよく、分からない数学の問題があると、聞きに来ていた。

 ホームレスは汚らしく、それこそ臭かったが、決して気になるほどではなかった。それ以上に、数学としての知識や、言葉選び、何故このように数式を組み立てるべきかなどを語ってくれるので、とても楽しかった。

 ただ。

 どうしても、数学についての考え方や、今習っている高校数学の先について伝えたがった。

 それを伝えることが、そのホームレスの生きがいのようになっていた。

「未来を予測するのは無理だわ。」

 橋の踏み場は、穴だらけであり、最早何もない空間ばかりである。

 影は確かにある。

 薄暗い。

 しかし。

 雨をしのげる程度ではない。

「カオス理論から言えることですか。」

「人間が数字を使いこなせん。無理だ。数学はどうしても人の領域に存在することはない。」

「何故に、そんなに数学が好きなんですか。」

「母ちゃんがな。うん。数学者だった。大学の教授だった。」

「へぇ。」

「女なのに、ちゃんと教授になった。すごい人だった。」

「はぁ。」

「なのに、数学と俺を捨てちまった。」

 雨が少しだけ強くなると、遠くで子供たちの声が聞こえた。

 どう考えても、橋の下にいるこのホームレスを馬鹿にしている。そんな内容だった。

 僕は動かなかった。

 ホームレスも動かない。

 子供たちの声が聞こえる。

「俺は、最後まで数学にお世話になったんだ。もう、長くはないな。」

「そんな。」

「癌だからなぁ。もう。死ぬわ。もうすぐ。」

「やめてください。」

 僕は数学の宿題を終えると、頭を下げて端から出ていく。

 一か月前に来た時、確か、あのホームレスの母親の仕事は港にある小さな食堂の給仕だと言った。

 二か月前に来た時は、確か、最初に日本人女性でパソコンの開発チームに入ったプログラマーだった、と言っていた。

 嘘ばかりだ。

 信用に値しない。

「また、分からんことがあったら、来るんだぞ。いいな。来いよ。」

「考えておきます。」

 僕は。

 また来るだろう。

 もうすぐ、あの橋は撤去される。

 周りに住んでいたホームレスも移動している。

 もうすぐ奇数になる。

 そして。

 僕は二十五日後に絶対死ぬ。

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